はんぺんの秘密
うぐいす保育園前のバス停には、はんぺんが置いてある。段ボール二つ分ぐらいの大きさだ。
まさかはんぺんだとは思わず座ってしまう人も多い。腰かけた途端、ずぶっと沈んで気がつき、慌てて立つのだ。
これはベンチではありません、という貼り紙が貼られたこともあったが、すぐに風で剥がれてしまった。そんなこんなで、間違える人は未だに後を絶たない。
ミウは、はんぺんが運ばれていくところを何度か見た。大きなトラックが来て、男の人が二人ではんぺんを持ち上げて荷台に積み、走り去っていった。
「切り分けたらすぐ、もちもちスーパーに持っていくぞ」
「保冷剤はいらないな」
そんな会話が聞こえた。どうやら、バス停は出荷前の一時的な置き場所らしいのだ。
時々こっそり食べている人もいる。通りすがりに上のほうを少し掴み取っていったり、バスを待ちながら角のところをむしり取って食べたりしている。
「あんまりおいしくないな」
「発泡スチロールみたい」
そんな会話を聞いたので、ミウは食べる気がしなくなった。やってみたいのはただ一つ、座ってみることだ。はんぺんは絹のように滑らかで、傷ひとつない。そこに腰を沈め、ずぶずぶとめり込んでいくのはどんな気持ちだろう。
「バカなことはやめなさいよ。魚臭くなっちゃうわよ」
友達のサヤカは言う。確かにそうだとは思うけれど、まっさらの雪に足跡をつけるような誘惑に、ミウはとうとう勝てなかった。
人通りの少ない日、ミウはついに決行した。汚れてもいいように古いスカートを履いてきた。行き交う車が途切れた時を見計らい、さっとバス停に近づき、はんぺんの上に腰を下ろす。
一瞬、何も起こらないのかと思った。みっしりと綿のつまった布団に座ったように、何の不安もない。もしかして本当に布団なのでは、と太ももの下を確認しようとした時、ずぼっと腰が沈んだ。
視界が真っ白になった。冷たいようなくすぐったいような感覚が、脇腹から首筋、頬と耳たぶを順に撫でていく。
「どこまで落ちるのかな」
声には出せなかった。口を開けばはんぺんが流れ込んできてしまうのだ。
はんぺんの中を落ちて落ちて、急に鼻から耳へ空気が抜けたかと思うと、ミウは暗い部屋に投げ出された。固くてひんやりとした床に腰を打ち付け、すぐには立ち上がれなかった。
「いたたた……ここ、どこ?」
目が慣れてくると、人がたくさん歩き回っているのがわかった。といっても、あまり忙しそうではない。ぼんやりと、行くあてもない様子で部屋の中をさまよっている。
「あのー、ここははんぺんの中ですか?」
ミウの声にも反応しない。それもそのはず、歩いている人たちには口がないのだった。ついでに目も鼻も、髪の毛もない。服も着ていない。ただ全身がつるりと白く、綺麗な輪郭をしている。漫画の背景に描かれているモブキャラクターのようだ。
「手抜きもいいところね」
ミウは白い人たちをかき分けて部屋の奥へ進んだ。そこには大きなどんぶりがあった。どんぶりの中も真っ白で、縁に立った男が木の棒でかき混ぜていた。
男は黒々とした髪にきりっとした眉、そして赤いジャージを着ていた。見たことがあるようなないような、どこにでもいるようないないような、そんな男だ。ただ、白い空間の中ではとても目立つ。
「何してるんですか」
男は木の棒を引き上げ、こびりついた中身をはがした。一瞬だけミウを見て、どんぶりに向き直る。
「帰ったほうがいい。今なら間に合う」
「それ、はんぺんになるんですか」
「そうだ」
「さっきの白い人たちと、何か関係あるんですか」
赤ジャージの男はくるりと振り向き、どんぶりの縁から飛び降りた。そしてミウの手首をつかみ、走り出す。ミウは思わず声を上げたが、男に引っ張られて一緒に走った。
白い人たちは相変わらず歩き回っていたが、赤ジャージの男が通ると道を開けた。恐れているというよりは、嫌がっているようだった。
よく見ると、白い人たちの中にも、うっすらと顔が残っていたり、髪の毛がまばらに生えていたり、半分透き通ったコートやワンピースをなびかせている人がいた。
ミウは、漂白剤につけたカップを思い浮かべた。少しずつ茶しぶが剥がれ落ちて、白くつややかになって、でも決して新品に戻るわけではない。
部屋の入り口まで戻ってくると、細い縄梯子があった。見上げると、どこまでも高く続いている。地上までつながっているようだ。
「行くんだ」
赤ジャージの男は言った。
「ちゃんと覚えてるだろうな?」
「何をですか」
「自分のことだよ、いろいろと」
ミウは考えた。はんぺんに座ったらここへ落ちてきた。はんぺんは布団のような感触だった。落ちるときは少し冷たくて、長かったような短かったような、今思うとよくわからない。
「名前は?」
「えっ」
「自分の名前、言えるか?」
ミウははっとした。頭の中から白いはんぺんが抜けて、空気を吐き出しながら飛んでいくようだった。
「水野未生、です」
「よし」
男はミウの手を放した。手首の骨にじわりと痛みが残り、相当強く握られていたことに気づく。
「さあ、早く帰れ」
「あの」
男に背中を押され、縄梯子につかまりながら、ミウはどうしても聞かずにいられなかった。
「スーパーで売ってるはんぺんは、みんなここで作られてるんですか?」
「だったらどうなんだよ」
「食べても安全なんでしょうか」
男はにやりと笑った。見たことがあるようなないような、やはりそんな笑顔だ。
「安心しろ。俺がどう答えても、お前はどうせ忘れるんだ」
「何それ」
「行けよ」
ミウは梯子を上り始めた。足を動かすたびに揺れて、ちぎれそうな音を立てるが、安全なのか聞く気にはもうなれなかった。
はんぺんのにおいが漂ってくる中、ミウはひたすら上り続けた。きし、きし、と一歩ずつ、まだ見えない光に向かって上り続ける。