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そんなことでワイワイと話しているうちに、噂をしていた当の本人がこちらに向かってきているのを見て、そこにいた全員の空気がピンと張り詰めた。
俺と流星君はもちろん、茂住さんは上司として何度か会話をしているのでそれほどの緊張感はないが、他の部署に所属するメンバーから見ると噂していた通り緊張する相手なのだ。
彼女がふわりと微笑みながら声をかけたのは桐島だった。
「こんばんは、桐島さん。お久しぶり」
「お、お久しぶりですっ。く、ろさわ本部長?」
流石の桐島も噂に触発されて緊張したものの、彼女は笑って告げた。
「あはは、いいよいいよ西條で。黙っててごめんね」
彼女の態度にホッとしたのは桐島で、ギョッとしたのは周囲のメンバーだ。
「じゃあ酒の席なんで遠慮なく――西條さん、びっくりしたよ! めっちゃ凄い人じゃん!」
「ふふっ、面と向かってそう言われると恥ずかしいけれど」
「またファミレス遊びに来てよ」
「えー、行きたい。塚原さん元気?」
「塚原さん? 受験でもうすぐバイト辞めるって言ってたから、会いたいなら早めに来た方がいいかも。あ、他の連中にも西條さんの事言ってもいいもんなの?」
「大丈夫だよ。そっか、塚原さん受験生かぁ。連絡先交換しとくんだったなぁ」
「西條と連絡先交換なんて、塚原さんめっちゃ自慢しまくりそう」
「あはははは、目に浮かぶっ」
あの黒澤本部長と気兼ねなく話をする桐島の姿に、今度は周囲が目を白黒とさせる。先ほどまで絡んでいたメンバーはもちろんのこと、彼女の動向を気にしていたらしい人達の視線までもが集中しているので、桐島は一躍時の人である。
「き、桐島さんって何者……」
ただの店長です、とはもう通用しないかもしれない。
全てを知る俺と事情を知る茂住さんが思わず視線を合わせて苦笑しているところに第三者の声が割り込んできた。
「やあやあ黒澤本部長、ここにいらしたんですか」
人をかき分けてやってきたのは常務の一人だ。その隣に若い男性を連れていて、全員が「あ」とした表情を浮かべる。俺自身はと言えば見たことがあるなぁと思った程度だったのだが、他のより遅れてようやく「あ」っと理解した。
アリーに絡まれていた際、積極的に俺を犠牲にしようとした役員の一人がこの常務だ。若い男性は彼女の婚約者と噂されている天宮航で。どうやら御仁の伯父にあたる人がこの常務だったらしい。そういえば同じ苗字だったかもしれないと思い出していると、元々集まっていた視線がますます増えた事に気が付く。
そりゃあ噂を一度でも耳にした社員であれば、噂の二人が会場で揃ったているのだから注目するのも無理はない。先ほどまで談笑していた彼女の表情がスッと冷静な仕事モードに切り替わる。
「天宮常務。なにか?」
まるでお呼びでないといった態度を示した彼女に対し、常務はご機嫌な笑いを浮かべて自分の隣に立つ甥の背中をバンバンと叩く。
「黒澤本部長もそろそろご結婚を意識する頃だと思っていましたがね。なかなか状況が進まないので、僭越ながらお手伝いをしようかと」
「は?」
「いや、あははは。優秀な甥が黒澤本部長を妻に迎えるとなると私も鼻が高いですわい。黒澤財閥とも縁を結ぶことができるとは、天宮家一同、本当に喜んでおりましてな」
「……何を言ってるの?」
何度聞き返しても、常務は彼女の疑問に答える気はないらしい。むしろ常務の中で御仁が彼女と結婚するのは決定事項になっているらしく終始ご機嫌だ。恰幅のいい腹をパンパンと自分で叩いているのはクセなのか。がはがはと笑う常務と、隣で笑みを絶やさず微笑み続ける御仁の様子を眺めつつ、少しだけ下がって後ろにいる流星君に声をかける。
「天宮家って有名なの?」
「さぁ? 俺は知らないので一般家庭じゃないですか?」
相変わらず自分に興味がないことに関しては辛辣な流星君だ。こういうところ、ホント彼女に似ていると思うんだ。
「はぁ……もう少しビュッフェ楽しみたかったなぁ……」
そう言いながら、首の後ろに両手を回してネックレスをはずそうとするが、幾分、障害が残っているためちょっとだけ腕を上げるのがきつくてもたついてしまう。
俺が今から何をするのかを察したらしい流星君は、ふわっと笑って言ってくれた。
「……葉さんが望むなら今度また俺と、ゆか姉と一緒に来ましょう。お祝いに奢りますんで。一番高いコースでも」
「流星君、俺の事好きすぎない?」
「知らなかったんですか? 片山葉教の信者ですよ俺」
「何それ怖い」
「教祖はゆか姉です」
「何それ、ほんとに怖い」
実際に布教活動されそうな勢いなのが本当に怖いんだけど。そんな会話を繰り広げながらようやく外れたネックレスを手に取ったタイミングで、彼女は常務に反論していて。
「常務、何を勝手な話をされているのか、到底理解できないのだけれど」
「いやいやいや、人前で照れていらっしゃるのはわかりますが、今更ではないですかな? ここは素直になってもよいのでは?」
常務の言葉が合図のように、御仁が一歩前へ出る。にこやかな笑みを崩さぬまま彼女の前に立ったところで、俺はチェーンからスルリと抜いた指輪を自分の左手の薬指にはめ、残ったチェーンを無造作にポケットに突っ込んで。
「黒澤本部長――いや、縁さん。ずっとお待ちしておりましたがなかなか行動に出てくださらないのでこちらから動くことにしました。まぁ、本来であれば男の俺から動くべきなのでしょうが、貴方の立場を思うと下手に動いてはいけないと思いまして。けれど、それも今日でおしまいです。噂を真にしましょう。俺が必ず幸せにしますから。ね?」
ね? ってなんだ、ね? って。
手を伸ばして彼女に触れようとした御仁に対し、彼女はこれ以上にない嫌悪感を向けたのに気が付いていないのだろうか。御仁の手が、引いた彼女の手首を掴もうとした瞬間に、その体ごとを俺の元に引き寄せた。
最後の最後に残っていたざまぁ回開始




