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「おはようございます」
「おお、今日から出社? よかったよかっ」
「流星君、ついてきて」
「はい」
「あ、え? あれぇ?」
挨拶と同時に話しかけてきてくれたのは茂住さんだったけれど、それどころじゃない俺は事前に流星君にお願いしていたので、その一言で彼は俺についてきてくれる。
自席に鞄を置いてすぐに踵を返した俺に茂住さんは動揺したけれど、言い訳は後にさせてもらう事にする。
俺が足早に廊下を歩き、流星君が無言で付いてくる。
人事部本部長室のドアを軽くノックして返事も待たずに入ると、そこには社長と彼女が居た。
「失礼します」
会社で接触してくるとは思っていなかったのだろう、久々に見た彼女は少しやつれていて、手にファイルケースを持ったまま驚いた表情を浮かべている。並んでいた社長に目くばせすると、この部屋の透明なガラスを曇りガラスに切り替えてくれる。
驚いている彼女に歩み寄りながら、持ってきた手紙をデスクに叩きつけ、睨みながら強い口調で問いただした。
「こちらの件について、本部長の口から直接伺いたく」
「っ!?」
周囲は身内で囲んでいるものの、俺は社会人としての態度を崩さない。彼女が婚約破棄を告げた時点で、俺と彼女の関係は上司と部下でしかないのだから。
「……それはっ……それについては、手紙に記載してある通りよ」
「それで私が納得するとでも?」
「慰謝料が足りないのであれば増額しても」
「そういうことを言っているんじゃないです。わかっていますよね?」
上司に対して取る態度ではないことはわかっている。けれどこみ上げてくる怒りは抑えきれない。流星君は後方のドア付近で待機してくれているが、もしも俺が暴走した場合に止めに入るようにお願いしてあるが今のところは許容範囲らしい。社長も流星君を通してだけれど、俺が直談判をすることを伝えていたためこちらの味方だ。
とにかく俺は腹を立てているのは、彼女の身勝手な言い分とこちらの意見を一切聞こうとしない態度にある。
それは身内である社長や流星君も同じだったらしく、ようやく会社に顔を出したかと思えば辞表を提出して引き止める間もなく引継ぎの作業をしだしたらしい。彼女が仕事を辞めたがっている事実を社長は事件の事後処理の中でも必死に対応していたけれどほころびはどこからか出来ていて。
黒澤本部長が寿退社をするだとか、もしくは急病で体調を崩して仕事を辞めるかもしれないだとか、とにかく憶測が飛び交い始めた矢先に彼女が出社してきたものだから皆興味津々だ。だからと言って彼女に直接問いただすような人はやはりいないのだが、婚約者気取りの御仁に質問が集中しているらしいとだけは聞きかじっている。
直接関わりがあるわけではない御仁が何とか誤魔化しているものの、その様子があまりにも不可解なため、もしかして婚約しているのは嘘なんじゃ? という空気も流れ始めているようだが知った事ではない。
「言いましたよね? ちゃんと話し合おうって。それすら放棄して一方的な話に納得できると思っているんですか?」
「っあ……」
「仕事もお辞めになるそうで? 結局何がしたいんですか貴方は」
「だ、だから迷惑をかけたくなくてっ……本当に申し訳ないと思っているからっ!」
「申し訳ないと思っているなら、ちゃんと話をしてください。一方的に言われて納得できるはずないでしょう」
「それは……できない」
対峙しておきながら、一向に俺と目を合わせようとせず硬い表情を浮かべる彼女に、無意識に舌打ちが出る。彼女の体がビクッと跳ねても追及を止めるつもりはない。
「じゃあなんですか? 私が黒澤本部長を恨めば気が済みますか? 貴方のせいで刺されました。貴方のせいで死にかけました。貴方のせいで腕に障がいが残りました」
「っ……ご、ごめ……」
「そうやって恨めば満足ですか? なぜ私が気を遣って貴方を責めなければいけないんですか? 死にかけたけれど実際生還しましたし、利き手と逆側がちょっと動かしづらくなった程度で、貴方に恨み辛みを言いう小さい男だと思われてたんですか?」
「そんな――っ!」
「そういう事だろうっ!! お前がやったことはっ!!」
頭に血が上って大声を張り上げた。瞬間的に怖いほどの静寂が訪れる。
人前で怒鳴るなんて大人になって初めてだ。
それくらい悔しくて腹が立って仕方がないのに、それでも彼女は歯を食いしばりながら、震えながらも意思を曲げる気はなさそうで。
「――本当に、いいんですね?」
最終確認とばかりに俺が強い口調で尋ねると、彼女は息をのみながらも視線を逸らしてあらぬ方向を睨みつけて。
「ええ……私の意志は変わらないわ」
頑なに別れを選ぶ彼女の返答に、今までの怒りが一気に抜け落ちる。
そうか。
それが君の出した答えか。
「……わかりました。では社長、緒凛さんに例の件を進めてもらえるようお願いしてもらってもよろしいでしょうか?」
「わかった」
「――え? な、に? 何のこと?」
唐突に俺が社長に話を振った事に、彼女が戸惑い始める。まさか自分の父親の名前が俺の口から出てくるとは思っていなかったのだろう。俺と社長を交互に見つめ、彼女の疑問に答えたのは社長だった。
「お前が婚約破棄の意志が固い場合、彼には別の縁談を用意している。こちらが迷惑をかけたからな」
「えんっ……?!」
「一瞬でも黒澤財閥に関わっていたし、片山君は優秀だから是非引き込みたい人材であると凛兄が判断した。彼は紬の結婚相手として見合わせる事になっている」
相手の名前を聞いた途端、彼女は大いに慌てた。
「紬っ!? なんでっ! だって紬はっ――」
「妹さんなんですよね? ちゃんと存じてますよ」
俺が冷静な声で伝えれば、彼女の瞳はますます大きく見開かれる。
「だ、駄目よっ! 紬は駄目っ! 何のために私がっ!」
「自分の為だろう?」
彼女の言葉を遮って冷たい言葉を放てば、一瞬にして表情が呆けて言葉を失って。
「黒澤本部長は自分が関わらなければいいと思ったんですよね? だったら問題ないじゃないですか。私が誰と結婚したって」
「あ……いやっ……ちがっ……」
俺の言葉に彼女はくしゃりと顔を歪めて小刻みに首を横に振ろうとするが、顔色は悪く発する言葉も弱い。
「貴方にはもう私の事に口を出す、なんの権利もないんです。失礼します」
言いたいことだけ言って俺は一瞥すると、そのままぺこりと小さく会釈してその場を立ち去る。
「……あぁ……駄目っ……待っ……」
引き止める声が何となく聞こえながらも、俺は無視をして退室する。流星君が俺の後についてきたけれど、何も言わないで居てくれるのがありがたい。
握りしめた拳が開かれることはない。爪が食い込んだとしても、この悔しさは自分が持っているものだ。
彼女の意志が固いならば、俺はもう受け入れるしかない。
「馬鹿がっ」
ポソリと無意識に呟いたのは、彼女に対してか自分に対してか。




