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今更、と伯母は喚くかもしれない。
副院長は裏切り者と父を罵るかもしれない。
それでも父は母と俺を選んだのだ。
今までの名誉をすべて捨て去っても、自分が非難される覚悟を辞表という形で握りしめて。
「……馬鹿だな。ホント、不器用だ」
そういうところは、きっと俺も似てくるんだろうなと自嘲してしまう。
「辞表は受け取るに留めて、保留にしてある。茅曰く“息子さんのためにその肩書は持っておいた方がいい”と伝えたところ、玄一さんも思うところがあったのか“それでも決意としては変わらないから持っていて欲しい”と言われたので受け取ったそうだよ」
俺のためというのはたぶん縁との結婚を指すのだろう。確かに何も持っていないよりも“院長の息子”である方がまだ彼女の結婚相手としては聞こえはいいかもしれない。今まで隠していた手前、前面に押し出すようなことはしないが、持っているものは親の肩書きでも使うべき時が来たと言えばいいのか。
ちなみに母は俺が退院次第、ニューヨークにて引き続き緒凛さんのハウスキーパーを続ける意思を示したらしい。親父に至っては家を手放し、今まで苦労をかけた母への慰謝料を払う算段だそうだ。大切なのは場所ではなく人であることに気が付いた親父が家を手放すことにしたのはある意味正しい。母と家が両方なくなれば、迷惑だった親戚との接点もなくなるはずだ。
あと伯母さんが病弱だと言っていたのもやはり噓だったようで、そう診断していたのは不倫相手だったと言うのだから手に負えない。まぁあくまで伯母さんの症状を聞いての判断だから、虚偽の診断をしたわけではないが多分仮病だとわかっていたはずだ。主治医として長らく偽ることを手伝っていたのだから、医師としてのプライドも最早ないのかもしれない。
影ながら未だに不倫関係が続いていたのかと思うと、身内ながら本当に気持ち悪い。
親父はとうとう実の姉である伯母さんにも容赦しないことにしたらしい。
今まで払ってきた生活費と晃大にかかった教育費の返還を求める事にしたという。まさに自業自得、因果応報であり二人が今後どのように生活していくかは俺が知る必要性はないし知りたくもない。できれば今後関わって来ないでほしいものだ。ロクに働いたことのない伯母さんは次の寄生先を晃大と定めるだろうし、今の今まで食い物にされていた身からするならば、同情もできないくらいには嫌いだと今ならはっきり言える。
俺のせい――もしくはお陰で両親が直接顔を合わせる機会はあったものの、引き続き別居を選択したのは意外だった。今までの母であればなぁなぁになって結局父のもとへ戻る事もあっただろうに、今回ばかりは意思が固い。初めて手をあげられた事もあったのだろうし、許す許さないは母の判断だ。面と向かって親父が謝罪し、母もそれを受け入れはしたが今後の展開は親父の態度次第といったところか。我が家の事情は母が教えてくれた内容らしく、俺が知りたい様々な情報が緒凛さんに集約されているのがちょっと面白い。
「さて、そろそろ本題に移ろうか」
全体的に本題だった気がするけれど、お互いに話したい事はもっと別の事だ。受け取った資料を緒凛さんに返しながら頷けば、緊張しなくていいよと笑ってくれる。
「葉君はまだ縁と結婚してくれる意思はあるかい?」
「意思はもちろん変わらないですが……あの、なぜ?」
そんな聞き方をしてくるのだろうかという気持ちを表情に乗せると、緒凛さんは彼女に似た、けれど少し目じりのシワをくしゃりとさせながら困ったように微笑んで。
「今回の事件、縁は自分の責任だと思っている」
――ああ、やっぱりか。
流星君の話を聞いていて何となくそうなんじゃないかとは予想していた。
本人の口から直接聞くならば声を大にして違うと言い張ってやるがその機会が訪れない。どうせ彼女の事だから自分の能力で見出された人物が誰かを傷つけたという事実が許せないのだろう。社長だって彼女の能力を過信しているわけではなく一つの参考程度にとどめて、実際採用したのは会社だからと説明してくれていたから、もし悪いとなれば会社であって彼女個人に責任など降りかからないのだ。
彼女は才能を見ることができても、その人の性格までは見抜けなかった。
才能を活かすも殺すもその人の性格次第であり、元店長は“人の事をよく見る”才能だったと俺は予想する。
人の事をよく見ていることもあって、その人がどんな話題を出せば嫌がるかを理解して発言している節があった。元店長の性格が違っていれば人のことをよく見て、能力の伸ばし方を教えていけばきっと違っただろう。
もし、だったら、という希望的観点は今更だ。
結論としてはすでに出ていて、元店長は自分の才能を悪しき方に使った。ただそれだけのことであり、悪いのは元店長であって決して彼女ではない。しかし、それでは彼女が納得しないのだろう。
「こちらも蝶の所で止めてはいるが、縁が仕事から離れたいという意思は確認している。それと自分の資産の一部名義を君に無償譲渡することも検討しているようだが」
「ばっ! いらないですよそんなの!」
馬鹿にするなと思わず叫びそうになった。
許さないもなにも、俺はそもそもこの事件で彼女に対して一度だって怒っていない。許す必要などないのに許しを乞われるほど難しい事はない。
俺の反応を見て緒凛さんはクスッと口元に笑みをこぼして、すぅっと視線を外しながらポツリと語った。
「あの子は母親を尊敬――というより崇高に近い感情を持っている。母親のようになりたいと思っている節があるが、残念な事に性格は俺に似ている。絶対的な自信があるクセに大切なタイミングで臆病になる」
ふぅっと苦々しいため息を一つ吐くと、緒凛さんは続ける。
「妻は――マオは生半可な気持ちで今の地位にいるわけではない。強固な覚悟を持って想像を絶するほど努力と知力を振り絞り、時には悪しきを黙認し、血反吐と滲む汗を拭いながら今を確立した。たとえ世間では間違いだとしても、絶対的に自分が正しいと思い続けなければ成せなかっただろう」
そう語る緒凛さんの瞳は慈しみ、本当に奥様を大切に思われているのだと理解できる優しい表情を浮かべている。
「それに比べてあの子はまだ発展途上だ。一度、人間関係に躓いてしまってからは人と関わる事を極端に恐れるようになってしまった。孤立し、人との接し方をうまく学べないまま今まで来てしまったのは、周囲があの子がどれだけ傷ついたか知っていたから大切にし過ぎた」
結果、甘やかしすぎてしまった――と緒凛さんは懺悔するように呟いて。
「人と関わるという事がどういうことか、縁には覚悟が足りない。君も人であり縁にとって大切な相手だからこそ盲目になる。君の方がまだ覚悟が決まっているように受け取れる。だからこうやって大事な時に本当に大切なものを見失い、逃げ出そうとする」
成人した三十にも近い娘に対し、辛辣ながらも親目線で語る緒凛さんの話に耳を傾けていると、すっと視線が向けられて。
「コミュニケーション能力は決して低いわけではないが、その能力を発揮する前段階であの子は人間関係を遮断する。ゆえに誰かの意見を聞こうとしない。それはあの子が尊敬する母親のやり方とは異なる。様々な意見を聞いたうえで、誰かの意見を取捨選択をしていくべきなのにそれすらを拒むから厄介だ」
ずっと一人で頑張ってきた人に見られる傾向だ。
長女気質と言われたらそれまでかもしれないが、彼女は身内以外の誰かに頼る事をしない。それを恥ずかしいと思っている節さえあるのだから、彼女の周りを取り巻く人達はもの寂しさを感じる。
「一般的な家庭とは程遠く、普通の親子関係よりかは希薄な関係ではあるかもしれないが、それでも俺――いや、妻と俺にとって、縁は大切で可愛い娘なんだ」
ふわりと微笑む緒凛さんの表情は黒澤財閥の副総帥なんていう大きな肩書きではなく、ただの“父親”だった。
――幸せになってほしい。
誰もが親になれば必ず子へ願う事。
それをまっすぐ誰かに伝えるというのはなかなか出来ないことだ。
この人は子に背中を見せて超えろというタイプでも、隣に並んで叱咤激励するような人でもない。たぶん、後方ながらも優しく見守る人なのだ。
「縁の言動で君が憤りを感じてくれるなら頼もしい。君のような人を選んでくれた娘を誇りに思うよ」
そう言ってゆっくり俺に頭を下げて。
「娘をよろしく頼みます」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
縁――君の父親は、娘のために頭を下げられる本当に立派な人だよ。




