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そう言うと緒凛さんはクスクスとあどけなく笑ったのを見て、緊張しながらも少しだけホッとして。
「その、似ています。彼女に。笑う時の目元とか」
素直に俺が理解した理由を告げると、緒凛さんは意外そうな顔をしてふむ、と思案して。
「あの子の容姿は妻に似たと思っていたけれど……そうか、似ているか」
感慨深そうに笑う緒凛さんは、ふと流星君を見る。その視線に流星君は空気を読んだらしく「飲み物買ってきます」と病室を後にする。お付き合いしている人の父親と二人きりというのはなかなか緊張するものがあるけれど、結婚前に直接お会いできたのはありがたい。
「お忙しい中ありがとうございます」
「いいや、こちらこそ会えてよかった。少し時間ができたのも幸いしたよ。君に伝えたい事がいくつかあってね。多方面からの伝言も頼まれたし、それも含めて少し話せるかい?」
多分体調の事を心配してくれているのだろう、優しい人だなという印象を受けながらも頷けば、緒凛さんもまた同意するように頷いて。
「まず一つ目は君のご両親についてなんだけれどね」
唐突に始まった身内の話に少し驚いた。真っ先に彼女との結婚の話をされるのだと思っていたから、心づもりが出来ていない。その動揺をちょっとだけ表情に出してしまったらしいのだが、緒凛さんは苦笑して。
「その様子だと本当に何も聞いていないんだね。まぁ、色々聞く前にこのような凄惨な事件が起きてしまったのだから仕方がない」
「あの、はい……」
なんと言っていいのかわからない状況ではあるものの、ここはどんな話をされても素直に聞こうと心に決める。
「君の――葉君と呼ばせてもらうけれど。葉君のお母様の結子さんは、ニューヨークで俺の専属ハウスキーパーとして勤めてもらっているんだ」
「はっ!? えっ!?」
予想外の話に動揺すると、緒凛さんは懐から名刺を取り出して俺に差し出した。
――黒澤グループ副総帥
黒澤不動産グループ ニューヨーク支社 CEO 黒澤緒凛
それが緒凛さんの肩書きらしい。一枚の名刺に二つの肩書きが記載されているのを初めて見た。
「一番下の子が日本の学校に馴染めず、ニューヨークに来て一緒に暮らしているんだがね。生活は合うものの、今度は向こうの食事が合わずに困っていたんだ。結子さんが来てくれてから、食事が楽しくなったようで本当に助かっている」
「それは、よかったです」
母が選んだ道が誰かの役に立っているのであれば、本人もきっと喜んでいるだろう。
「差し出がましい話だが、ご両親の抱える問題についても少し調べさせてもらっていた。その矢先にこの事件が起こってしまって本当にすまなかった」
「い、いいえ! 謝られることなんて一つも!」
俺が首を振って否定するも、緒凛さんはゆるゆると首を横に振って自嘲気味に笑う。
「縁と関わった時点で、君にも密かに護衛をつけていたんだ。本来であれば未然に防げたかもしれないのに、葉君に護衛の存在を伝えていなかったことが後手に回って助けられなかった。これはこちらの落ち度だ」
護衛が付いていたなんて気が付かなかった。俺に伝えていなかった手前、近くからではなく遠方から見守る形で一人だけついていたらしい。さらに詳細を聞けば、元店長を取り押さえたのは通りすがりではなく実際はその護衛だったらしい。そこら辺の事情は警察にどのような形で伝えられているかは定かではないが、何も知らなかった俺自身に何かを問われることはないと緒凛さんは言う。
「弟達――まず君の会社社長の蝶からだが、上の判断で残していた社員だった男が起こした出来事について、残念な結果になった事、事件の対応に追われているためこちらに直接出向くことができない事を謝罪していた」
「はい」
許す、許さないは別にしても謝罪は受け入れる。パワハラを受けていた時点で謝罪はされていたものの、やはり当事者としては簡単に気持ちの整理はつかない。今回こそ思うところがありすぎて、やはり会社側としてもあの人を残していた事が本当によかったのかと疑問視できるのは被害者ならではなのかもしれない。入院費を一部負担してくれるという時点ではありがたいが、心理的な部分はモヤモヤしたままだろう。
「次に茅――君の父親の上司に当たる者だが、君の父親から辞表を受け取ったと報告があった」
「父が!?」
あれほど名誉に噛り付いていた親父が辞表を提出するというのは青天の霹靂だ。声を上げて驚けば、緒凛さんは小さく頷いて続けて教えてくれた。
「君が事件に巻き込まれ、色々思うところがあったらしい。君の父親から茅が受け取った資料だが、君も目を通すといい。お父様は生半可な気持ちで辞表を出したわけではないと理解できるから」
そう言って手に持っていたA4サイズの茶封筒を俺に差し出す。おずおずと受け取りながら中身を取り出し、数枚の資料に書かれた報告書の内容に視線を走らせていくうちに目を見開いた。日付が古いものは二十数年前から始まり、最近では二週間前のものもある。報告書のごく一部をまとめたものらしいが、本来であればこんな薄っぺらい紙数枚で済むような話ではない。
「これって――」
「君の伯母にあたる女性と、この病院の副院長を務める男との不貞内容だ」
副院長である男性は俺も会った事がある。それは伯母の不倫相手としてではなく、父親の長年の親友としてだ。親父とは異なり人当たりもよく穏やかな優しい表情を浮かべ、老若男女に分け隔てない対応をするという人気の医者で、すでに成人した子供が三人いる愛妻家としても有名な医者だ。
その人が伯母の相手であり、晃大の実父なのだと資料には明確に書かれており、いつの間にかDNA鑑定までされていて、結果がはっきりと父子関係を証明している。
そこでようやく自分が思い違いをしていたのではないかと気が付いた。
親父は――ずっと悩んでたのかもしれない。
実の姉と長年親友として付き合ってきた男が不倫関係にあった事を知って黙っていたのだ。それはある意味、罪でもあるが親友の家庭を壊すまいと苦悩していた。だからと言ってずっと伯母さんを庇い続けて家族に我慢を強いていい理由にはならない。真実は親父にしかわからないけれど、少なくとも自分達にはわからない葛藤があったのかもしれないという点に関しては同情しよう。
母が我慢し続けた理由は親父を好いていたことはもちろんだが、伯母と父の両親に恩があったからだと知ったのは随分後だ。
早い段階で両親を亡くした母に対し、親友の忘れ形見として何かと世話を焼いてくれたのが父方の祖父母だったそうだ。祖父母は幼馴染であった親父とできれば結婚してほしいとは願っていたが、それは強制ではなく単なる願いだったという。母は祖父母の願いを叶えたがために結婚したわけではなく、あくまで親父に乞われて結婚したらしいのだが、祖父母に泣いて喜ばれてたと聞いたから、関係は良好だったのだろう。
もしかしたら伯母さんは、実の娘である自分よりも可愛がられていた母が気に喰わなかったのかもしれない。
その因果は親世代にしかわからない話であり、どれだけ理解しようとも当事者には当事者の想いがあるだろう。
それぞれが複雑な思いを抱え、親世代で解決できなかった因果関係が子へと引き継がれている事は間違いだ。親父は今になってやっとそれが理解できたのか、覚悟を決めて理事長である茅さんに報告書を直接渡したとなれば、当然公的にも処分を受ける事になるだろう。
「玄一さんは副院長の奥様にも弁護士同伴でこの資料を渡したらしく、副院長と君の伯母の元には近々内容証明が届くはずだ」
親父に同伴した弁護士と、副院長の奥様に弁護士を紹介したのは茅さんらしい。弁護士は守秘義務があるため教えてくれるわけではないが、副院長の奥様がわざわざ茅さんに紹介してもらったお礼とともに今後の動きについて話してくれたとのことで。
「それ、俺が聞いてよかったんですかね?」
「副院長の奥様から“院長のご家族には「主人が長年多大なるご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」とお伝えください”と言伝を預かったらしいから」
多分大丈夫だろう、との見解だ。言いふらすつもりはないし、身内として言うなれば当事者なのだから聞いても問題ないか。まぁ、確かに直接的に迷惑をかけられたのは伯母と晃大だったが、元々副院長が不倫なんぞしておきながら知らぬ存ぜぬと関与しようとしなかったのもそもそもである。




