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医者というのは別の病院へ勤めていようとも、学会等で横の繋がりが強い。更に大学の先輩後輩、OBやOGといった関係で縦の繋がりも非常に大きく、ちょっとした出来事でもあっという間に話が広がる。ネットワークの広さでいうなればかなりのものだし、組織としては強いかもしれないがそれは同時に諸刃の剣だ。
それに――彼女が黒澤財閥関係者であるならなおのこと、系列だけは絶対ダメだ。
母が今後どうするかにしろ、まだこのことは周囲に知られるべきではない。
彼女は一瞬、唖然とした表情を浮かべたものの彼女が振り返った途端、後ろにいた流星君がすぐにスマホを取り出してどこかに連絡をし始める。その行動に母と思わず視線を合わせると、連絡し終わった流星君は俺ではなく背後にいる母に告げた。
「知り合いの口の堅い医者に治療を頼みました」
うん、と流星君の言葉に彼女が頷いてけれど、母はますます意固地になって。
「だ、駄目ですっ本当にっ!」
否定し続ける母に歩み寄った流星君は少しだけかがみながら視線を合わせて優しく微笑んで。
「ご年配の方が個人でこじんまりやっている診療所なので安心してください」
「ちゃんとした治療は必要だし、診断書も取っておきましょう」
流星君に続き彼女がはっきりと言ったところで、母はようやく落ち着きながらも戸惑いを隠せずにいた。
「あ、あの、なぜ……」
どうしてそこまで、と言った言葉を飲み込んだ母に対し、彼女はにっこりと微笑んで。
「将来のお義母様が困ってるんだから、助けたいに決まってるでしょ」
「ちょっ、縁!?」
思わず役職名ではなく名前で呼んでしまった事を察してか、母も今までの悲壮感を消し去り、怪我の痛みも忘れて「あらまぁ!」と頬を赤くした。
◇◆◇
二人に案内されてやってきたのは、本当に街の隅にある小さな診療所だった。
出てきた年配の医者は穏やかな表情で母を診察室へ呼び、俺と彼女と流星君は三人で並んで狭い待合室の椅子に座る。どうやらメッセージを受け取った時に俺の顔色が酷く悪かったのを見て、流星君が彼女に連絡をしていたようだ。
隣で何も言わず付き添ってくれている彼女と流星君に対し、ここまで付き合わせてしまった気恥ずかしさと気まずさと、けれど同時に頼れる人がいる安心感が俺を包み込んでいく。
「……ごめんね、首突っ込んじゃって」
俺の曇ったままの表情を見た彼女もまた、落ち込んだ様子で謝罪してくるが、こちらとしては正直ありがたい申し出だったため小さく首を横に振る。
「いや、正直助かった。身内だけだとどうも悪い方向ばかりに考えてしまうから、第三者である縁や流星君がいてくれて逆によかったのかもしれない。むしろ、こちらこそ巻き込んで……ごめん」
「ううん! 私が勝手についてきたんだからっ」
謝罪に謝罪を返せば、彼女は慌てた様子で否定してくれる。
「俺も勝手ながら、葉さんの様子がおかしかったので無許可でゆか姉に連絡してしまいました。すみません」
彼女に続いて流星君が謝罪をしてくれた事に、俺は申し訳ないながらも助かった旨を改めて伝えると、二人はようやくホッとした表情を浮かべてくれる。
それから少し視線をさまよわせた後におずおずと彼女が尋ねてきた。
「勝手に首突っ込んじゃってるけどさ……その、深く聞いてもいいものかな?」
ここまでしてもらっておきながら、事情は話したくありませんというのはあまりに冷たいだろう。元々話すつもりだった家庭の事情だ、流星君も巻き込んでしまった手前「一緒に聞いてもらっても構わないか」と尋ねれば「葉さんさえ良ければ」と穏やかに返される。
「……葉クンのお父様は、その、いつも……?」
それはきっと暴力の事を指しているのだろう。俺はゆっくりと首を横に振ってそれだけは否定する。
「俺が知る限り、今回が初めてかな。以前からであれば、もっと早く父から母を引き離してるよ」
それでも、結果こうなってしまったことには後悔しかない。もっと早く自分が行動していれば、こんなことにはならなかったのにと思いながら、俺はポツポツと話し出した。
「正直、面白くもなんともない話だよ……身内の恥なんだけどな」
「……うん」
床を睨んだまま語りだした俺に対し、彼女と流星君は揶揄することもなければ遮ることもなく静かに耳を傾けてくれた。
◇◆◇
――流星君や彼女が家族を自慢していることを、俺は羨ましくも尊敬している。
それは片山家がかなりの不仲だからだ。
表面上は大人の対応で何とか取り繕うが、所詮自分以外は他人であり、同じ血筋に生まれたとしても相成れない相手はいるものだ。
我が家は医師である父と専業主婦の母、俺、そして弟というごくごく一般的な構成だ。
医師である父は厳格で、患者にすら稀にしか笑顔を見せない男として界隈では有名だ。家庭では多くを語らず、けれど家の中では絶対的な権力を持つ大黒柱だ。怖いと思う時もあるけれど、褒める時に頭を撫でてくれた大きな手は結構好きだったなと思い返す。
一方、母は年齢を感じさせないほど美しく穏やかで、けれど強かさも持ち合わせている芯のある人だ。家事全般をそつなくこなし、特に料理が好きで子供のころはおやつのお菓子も手作りしてくれていたくらいには母の味を知っている。
十人に九人は「綺麗なお母さんだね」と言うくらいには容姿が整っており、優しく愛情を注いで時にはちゃんと厳しく叱ってくれる母は自慢だった。
以前、スーパーで鉢合わせた弟――晃大は医師である父の影響を受けて理学療法士をしており、既婚者で四歳になる女の子の父でもある。実家の近くに住み、俺よりも頻繁に帰り、親孝行しているあたりは頭が上がらない。晃大の奥さんもしっかりした人で、晃大を支え子供を育てながらも義理である両親と上手に付き合ってくれている。
本当にどこにでもある一般的な、もしくはそこそこ裕福に見える家庭ではあるが、実際はそううまくいくものではない。家族としては数えたくない厄介者が身近に存在するのだ。
父の姉である、弥生伯母さんだ。
父と伯母さんは、父が中学生の頃に両親――つまり俺から見ると祖父母を事故で亡くし、伯母さんが弟の父を育てた。姉の立場でありながら父を医者に育て上げたのが自慢で、父も世話になってるから唯一頭があがらない相手でもある。
そこまでであれば美談だったのかもしれないが、伯母さんは何かにつけては母をチクチクいびる。
小姑猛々しいとはこのことかと言うくらい、専業主婦である母に嫌味を言い、作りかけの料理を捨てるだとか、料理を作らせたかと思えばマズいと言いながらも完食し、冷蔵庫にあった料理を勝手に持ち帰る。
母のお気に入りの茶碗を手を滑らせて割ってしまうとか、とにかく母が行う事がいちいち気に入らないらしい。
父に訴えても「悪気はない」「病人相手になんてことを」と逆に母を責める。
父を立派に医者に育てあげたあと、無理がたたって病気がちになり、働けたくなったと言って父に金銭的に生活の面倒を見てもらっている無職の伯母の存在は母も面白くはないだろうに、専業主婦であることを理由にあまり気持ちを出そうとしないのだが、そもそも父の希望で専業主婦になったのであり、母も元々は薬剤師の資格を持っている人だ。
そんな医療従事者だらけの家庭の中で唯一、俺だけがその方面を目指さなかった。
元々、医療に携わるほど才能や頭もないと感じていたため、最初から目指すという選択肢はなかったのだが、どうも弥生伯母さんには俺の存在が不要なものらしい。
そして、俺の進路を医療関係に向けなかったとして、嫌味は矛先は母に向かう。




