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「俺が一度縁を振ったのは、覚悟がなかったからだ」
そう言うと彼女が顔を上げて俺の事を潤んだ瞳で真正面から見つめてくる。俺は苦笑しながら彼女の髪を優しく撫で、一度だけ啄むようなキスを送って。
「黒澤財閥の関係者になるって決めた時点で、それなりに腹括ってる。半端な気持ちで縁を好きになったわけじゃない。縁と結婚を決めた以上、俺もそっち側に入れてくれ。健やかなる時も病める時も、他人から受ける善意も悪意も、一緒に受け止めよう。――だから、謝るな」
「っ……葉クン」
「あー……一蓮托生? 運命共同体? 同腹一心?」
「い、一心同体? 死なばもろとも? 毒を食らわば実家まで?」
「怖いことわざ作んな。……一蓮托生でいいか」
「比翼連理」
「それ、もう夫婦じゃん」
別にいいけどさ。
「……そんな風に思ってくれてたの?」
そりゃあ言った事なかったからなぁ、と思いながらも小さく頷いて。
「正直言うと、俺の覚悟が足りるかは不安があるけれど。縁が居てくれるし、一緒に考えてくれると思うから頑張れるよ」
すんっ、と彼女が鼻をすすったところで綻んだような笑みを浮かべてくれた。その笑顔が好きで堪らない。
「ところで今更なんだけどさ。縁って結局、黒澤財閥のどの位置にいるの?」
つい最近まで俺は、自社の社長と親子関係だと思っていたのだ。俺がそう切り出せば、俺の膝の上で彼女は小さく首を傾げてみせる。それから不安そうに視線を漂わせて真っ赤だった頬が次第に白くなってきたように見えて。口元があわあわと小さく震えたかと思うと、かなり恐る恐る尋ねてきた。
「……言ってなかった?」
「聞いてないな」
素直に返せば彼女は明らかに狼狽えて、それからゴクリと生唾をのんで。
「あの……私の事、振らないでね? ちゃんと結婚してね?」
「あ?」
何となく不安がっているのはわかっているが、正直社長の黒澤財閥での立ち位置だってあまり理解していない。調べようと思えば出てくるだろうが、彼女の口から聞いた方がいい気がしてあまり詳しくならないようにしていた。ずっと聞かなければいけないと思いながらも後回しになっていたのは、色々とごちゃごちゃしすぎていて忘れていたというのが本音なのだが。
「……葉クンって黒澤財閥のトップって誰か知ってる?」
「え? えっと、名前はちょっと思い出せないけど女性だった気が?」
確かちょっと育ちが複雑な人だという認識はある。あまり公に騒がれないのは黒澤財閥から圧力がかかっているという噂もあるが、けれどその人がトップに就いてから、元々大きかった財閥傘下のグループが更に大きく急成長した。特に医療の分野では目覚ましい研究結果を出しているとニュースでやっていたのを聞きかじっていた程度ではあるが。
「……母親なの」
「……ん?」
意を決したように教えてくれた事実に、俺は一瞬意味が分からず聞き返した。
「その……黒澤財閥のトップ。私の母親」
「……んんっ?」
「私は六人兄弟の一番上」
「…………は?」
「……そのっ、つまり……私、直系の第一子」
「……はああぁぁぁあぁああっ!?!?!?」
いかん、頭が思考を放棄――というより思考をぶん投げた。理解したいが理解できない、ちょっと待ってください。何言ってるかわかんないです。
今度は俺がパニックになる番で、けれど彼女は慌てるように続ける。
「あの、でも私は継ぐつもりなくて。すでに弟が後継ぎ候補として扱われててっ! あくまで第一子で長女ってだけで、責任はちょっとだけあるけど、そこまで重要なポジションはつかないはずだし!」
重要もなにも、彼女はすでに重要なポジションである。
「わ、別れないでね!? 結婚してねっ!?」
「……一旦持ち帰って検討させていただいてもよろしいでしょうか」
「それ私が提案して駄目って言ってたやつじゃんっ!」
「解決案をいくつか提案させていただきますので」
「まって! 複数の選択肢はやめてっ! 困るっ!」
「……冗談はそのくらいにしても……マジか」
「じょ、冗談がキツイよぉっ」
唖然としている俺に対し、彼女はメソメソしながら抱きついてくる。コイツって意外と泣き虫だよなぁと背中をポンポンと撫でてあやしながら、ようやく動き出した思考で導き出したのは。
「ちょっと想像していたよりも覚悟足りてなかったかもしれない」
ボソリと呟けば彼女が勢いよく顔を上げて、今度は逆に俺の頬を彼女の両手が包み込んで。
「覚悟なんていらないよっ! 私が守るもんっ!」
なんて勇ましいんだろう。惚れるじゃないか。惚れてるけど。
「縁、提案していい?」
何を言い出すのかと不安そうにしてる彼女に、俺は俺なりの覚悟を示すことにした。
「明日休みじゃん?」
「うん?」
「婚約指輪買いに行かない?」
俺の提案が予想外だったのか、彼女は怯えた表情から一瞬呆け、次の瞬間には弾けるような満開の笑みを浮かべて。
「っあ! いくっ! 行きたいっ! 欲しいっ! いいのっ!?」
「もちろん。覚悟決めさせて」
「うっ、嬉しいっ!」
そう言ってギュっとしがみつくように抱きしめてくる彼女は、興奮したのか俺の頬に額に鼻先に口にと沢山のキスを降らせてくる。さきほどまであんなに不安そうに揺らいでいた瞳がニヤニヤとだらしないほど間抜けた笑みを浮かべていて。
「本当はこういうのって格好付かないし、言うべきじゃないと思うんだけど」
と前置きをしたのは仕方がない話だ。今からするのは所詮、金の話でそれは結婚するにあたり切っても切れない話し合いである。
「金銭感覚違うから縁が満足できるかはわからないし、選ぶ指輪によっては物足りなさもあるかもしれない。こんな事ホントは隠しておきたいし恥ずかしい話だけど。金額によっては情けないけどローン組むつもりでもいる。きっと縁が自分で金出した方が立派で豪華な指輪選べると思う。でも、どうしても俺の稼いだ金で縁に贈りたいので、その辺を考慮していただければ」
「葉クンがくれるなら、値段なんて関係ないよっ! 百均でも手作りでも折り紙でも!」
「多少は気にしよう」
そして折り紙ってなんだ。婚約指輪だって言ってるのに、その発想の方がおかしい。
彼女ならそう言うと思ったけれど、俺も流石にそこまでの事は考えていない。誰もがうらやむようなブランドの一番高額な指輪、なんてものを贈れるわけではないが、少なくとも彼女がつけていても恥ずかしくない程度は頑張りたいと思っている。とはいっても、転職してからまだ半年ほどなので、どう考慮したところで周囲が望み羨むような指輪を贈るのは難しい。
どれだけ当人である彼女がいいと言っても、身につけるものは周囲の期待値が高くなるのだ、黒澤縁という女性は。
彼女が身につけるだけで憧れになり、目標になることだってある。女優が身に着けているものと同じものを身に着けたい、という心理と等しいものでありそれだけ彼女は良くも悪くも注目されている。
「本当ごめん。婚約指輪の値段を言うのはマナー違反だってわかっていたけれど、お互いの金銭感覚に大きな差がある事はわかっていたから口に出した」
「ううん、むしろ誠実でいいと思う。無理に身の丈に合わない高いものを買いたいって言い張っているわけでも、安いもので勘弁してくれって言っているわけでもない。ちゃんと自分自身の収入から贈りたいと思ってくれている気持ちが嬉しい」
「結婚してからも縁の生活レベル落とせって言うつもりはないよ。それでもいくつか結婚生活を送る上で俺にも負担はさせて欲しい。できるだけ擦り合わせていこう」




