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ラピスラズリの恋  作者: 佐倉硯
ラピスラズリの恋
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食事が終わったタイミングを見計らって珈琲が出てきたのでありがたく頂戴する。少し手持無沙汰になったところでカウンターに乱雑に雑誌が何冊かおいてあるのを見つけて。


「あの、この雑誌って読んでもいいですか?」

「ご自由にどうぞ」


一応断りを入れてから経済紙を手に取る。彼女もこんな難しい雑誌を読んでいるのかと思うと、ちょっと対抗心が出るのは男としての矜持か。ま、そんなところ持ったところで彼女に敵うわけないんだけれど。第一、こういうのを読み込むほど日本経済に興味があるわけではない。


珈琲を片手に持ちながらぺらぺらとめくるがいまいち内容が頭に入ってこない。まぁ、正直に言うと興味がない分野の雑誌をわざと手に取ったのだから当然なのかもしれないけれど。そんな事を考えていると電話の着信音が鳴り響き、食事の後片付けをしていた玉緒さんが固定電話の受話器を取って小さな声で会話をする。


「――はい、確認して参りますので少々お待ちいただけますでしょうか」


とさりげなく聞こえた会話を耳が拾い上げると、玉緒さんは受話器を一旦保留で置いてから俺の元に歩み寄ってきて。


「おくつろぎのところ申し訳ございません。フロントより葉様に御来客の連絡が」

「俺に?」


意外過ぎる展開に声が裏返った。第一、ここは彼女のマンションであり俺との関係を知っている人物は限られている。どういうことかと驚いていると玉緒さんが続けて教えてくれた人物に納得した。


「縁様のご親戚、今田流星様がお越しだそうです」

「流星君が?」

「お会いになりますか?」


流星君ならばこの場所を知って訪問してもおかしくはないだろうが、俺は今日、有給扱いだと聞いている。それにここはあくまで彼女の家なので、たとえ親戚筋でも勝手に他人を上げるのは憚られる。俺の思考を読んだのか、玉緒さんはまた助け舟を出してくれた。


「流星様でしたら何度かこちらにご訪問経験がございますので、お部屋にお通ししても問題ないかと。もしお悩みでしたら、サロンをご利用されてはいかがでしょうか?」

「サロン? そんなのあるんですか?」


聞いたことはあるが実際にあるマンションは初めて知った。


「エントランスやラウンジもございますが、人目に触れない方がよいのであれば個室のサロンもございます」

「じゃあ、そこで会います」

「かしこまりました。サロン(場所)を押さえてから流星様にそちらに向かうようお伝えいたします」


そう言って玉緒さんは保留にしていた受話器を再び手に取ると、今会話したばかりの内容を電話相手に伝える。電話を終えると、玉緒さんはサロンの場所とここに帰ってくる方法を教えてくれたので向かう事にした。



 ◇◆◇



「葉さん」


サロンのドアを開けて俺が姿を現した途端、ソファに座っていた流星君がパッと立ち上がって俺の元へとやってきた。


「ああ、ごめんね待たせて」


実はちょっとだけ迷子になってた。なんせ初めての所だし、サロンも共有スペースと個室がいくつかある感じだったので。

俺が謝りながら背中でドアを閉めると、流星君は心なしかホッとしたように息を吐く。


「良かった。昨日の件、ゆか姉から聞いて」

「あらら、そっちまで話言ってたのか。心配かけてごめんね」

「いいえ。むしろ身内(・・)の話なので公にはできず、逆に申し訳なく思っています」


なるほど、訪問理由はそれだったらしい。どこまで聞いたかはわからないが、会話しながら向かい合ってソファに座る。


「全然。体調はどうですか?」

「うーん、ちょっとまだボーっとした感じはあるけれど、体調は概ね良好」


素直にそう伝えると流星君は、小さく頷いて。


「それより流星君、仕事は?」

「私用で中抜けさせてもらっています。午後からまた戻らなければいけないんです」

「あ、そうなんだ? ごめん、俺のために?」

「どちらかというとゆか姉の伝書鳩です。正直、内容が内容なために、メールや電話だと少し都合が悪いので。本来はゆか姉が自分の口から伝えたかったそうですが、仕事でどうしても抜け出せなくて、俺に代わりに伝えるようお願いされたんです。きっと気になっているだろうから、と」


どこまでも慎重というか、流星君もなかなか深いところまで知っているらしく、そういった情報を流星君に任せるという事は、彼女もそれなりに彼を信頼しているのだろう。


一旦落ち付いたところで昨日、自分が知りえない情報を彼が教えてくれた。


「今日、モルガンさんは一日早いですが帰国しました」


ただそれだけの情報なのにホッとする。


それはもう、アリーに振り回されなくて済むという安堵か、それとも無事だったかという安堵なのか。

少し実力行使にはなったが会社としての憂いは払われた事、自分に薬を盛ったバーテンダーが実は味方で、アリー()を欺くために害のない薬を俺にワザと盛った事を謝罪され、これに至っては改めて彼女本人の口から謝罪したいとのことだ。

会社内でも大げさには取り扱わず、特にアリーの周辺でテンヤワンヤと野次っていた上層部は社長にそこそこキツめのお叱りを受けたらしく、それ以下の社員達にはあくまで口頭でそれぞれの部署に面白半分に噂を広めないよう通達したとのことで。


「無事に状況は解決に至りました。来週から普通に出勤してきても問題ありません」

「そっか、ありがとう」


笑顔でそう返せば、流星君は少し戸惑った表情を浮かべる。ぼんやりとした思考のまま、その表情がやけに気になり不思議に思っていると、彼は少しの間だけ思案してからおずおずと口を開いた。


「葉さん」

「ん?」

「先に謝っておきます。……差し出がましい事を言うかもしれませんし、失礼に当たる事を言ってしまうかもしれません」

「はは、どうしたの改まって」


なんだか物々しい言い方だなぁと思わず笑うも、彼は俺の笑みに同調することはなく真剣な眼差してで見つめて。


「――葉さんのせいじゃありません」


流星君のまっすぐな言葉が胸に刺さった。急に襲ってきた動揺に激しく自分の瞳を揺らし、言葉を詰まらせる。ぼんやりとしていた思考が一気にクリアにされた(・・・)気分に酷い戸惑いが心臓を囃す。


――目が覚めてから、ずっと考えないようにしていた事だ。


ぼんやりとした思考を薬のせいにして。何も考えずに一日を過ごして、また当たり前の日常がやってくることをひたすら待っていたけれど。言葉に自分の想いを乗せると、きっと俺は泣くだろう。だからこそ考えないように言葉にしないように、ただ時間が過ぎるのを待っていたのに、彼はそれを許してはくれなくて。


彼の言葉に、まっすぐな思いに、無意識に目を背ける。


「多分……助けようと思えば助けられたんだと思う」


そう、ポツリと話し出したのは胸の内に秘めていた懺悔。


「アイツが本当は何を目的として、何をやったのかは知らない(・・・・)。でも決して人としてやってはいけないことをやったんだと思うし、俺も簡単に許すことはできない。ただ……もっと他にやりようがあったんじゃないかとか、自分で解決すべきところをすべて彼女に任せてしまった後ろめたさというか」


膝で両肘を支えながら手持無沙汰の両手を揉んで、指先を温めるけれどなかなか温まってくれないのは指先なのか気持ちなのか。ただ、アリーを助けることになったら、それはきっと彼女に対する裏切りだ。どちらが大切かと言われたら間違いなく俺は今の恋人を選ぶ。


それでも悶々とした気持ちが心中を渦巻いて、決して晴れる事のない曇り続きの空を見上げているように憂いが拭われることはない。


「葉さんは……自分がモルガンさんを傷つけたことが、許せないんですね」


流星君のまっすぐな瞳が俺の心を射る。それは抉るように、見透かすように。


なんと答えたらいいかわからず自嘲する。正しいような間違っているような、本当に何とも筆舌つくしがたい心情に言葉が見つからない。そんな俺の心情を代弁するように、流星君が零すように呟いた。


「泣いてください」


葉さん、と彼は言う。


「笑わないでいいです。泣いていいです。ゆか姉の前じゃ泣けないでしょう。元カノの事を想ってなんて」


流星君はいつも見せる無表情からは考えられないような穏やかな表情を俺に向けてくれる。


「普通は誰もが因果応報だと思うところなんですよ。……でも貴方は優しすぎるから。自分が誰かを傷つけたという事実が許せなくて」

「っ……」

「……信じていた人に裏切られたら、誰だって悲しいんです。だから、貴方には泣く権利がある」


流星君の静かに響く声が、まるで諭すように、子供をあやすように、優しく包み込むように。俺の心に染みを作っていく。


――随分前に別れたけれど、俺にとっては確かに(・・・)大切な人だった。


学生の頃は馬鹿みたいに笑って、喧嘩して、二人の未来を語り合って普通の恋人だった。


あまりにも別れが唐突過ぎて、振られたのだと理解するまで少し時間がかかったけれど、いい思い出として自分の中に残っていた女性が、いつの間にか凄い人になって目の前に現れて。


あの頃の関係に戻りたいとは思わなかった。けれど恋人になる前の友情で、また新たな関係を築けたらと淡い期待もどこかにあったかもしれない。その関係が彼女の仕事の役に立てばいいと思う打算もあって。


どこかで希望が捨てられない甘さが自分にあった。


これは後悔なのか、懺悔なのか、それともやっと解放されたと思ってしまった自分の残酷さへの失望か。ぐるぐると渦巻く失意は思考を止めたところで自分の中から追い出すことができなかった。


そうか、と流星君の言葉を聞いて納得した。


俺は泣きたかったのか。


自分の感情を表現する言動にようやく出会えた俺は、目元を片手で覆いながら俯いて。


同時に流星君がそっと目を伏せて、見ないふりをしてくれた優しさに感謝して。


嗚咽が漏れ、頬が濡れる。


――ごめん。


ごめん、縁。


今だけ――アレクサンドラ=モルガンを想って泣かせてほしい。




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