54
「うん……あの、すごいね」
「何が?」
「トリリンガルなんだね、片山さん。びっくりしちゃった」
自分が彼らの言葉の内容を理解していたという事は何となく伏せたが、彼は「別に」と小さく呟いた後で私の言葉を否定して。
「大したことじゃない」
「え? でも、日本語に英語に中国語も理解してるんでしょ? 大したことだよ」
「お前、美人で絡まれやすいから、俺がいる時に海外客に絡まれたら呼べ。ヒンドゥー語と韓国語、スペイン語、フランス語なら日常会話に支障ないレベルでいけるから」
読み書きはできないけど、と付け加えた片山さんの言葉に唖然とする。
トリリンガルじゃなくてマルチリンガル!? ちょっと待って!? 何そのハイスペック!? なんでそんな人がファミレスで働いてるの!? 私でさえ三か国語なのに!?
唖然としてる私の心情を察してか、彼はむすっとしたまま自分の多彩言語の理由を教えてくれた。
「大学生の時、多国籍者在籍のシェアハウスにいたんだよ。唯一の日本人だからって通訳代わりに使われて、嫌でも覚えさせられた。毎日毎日共同スペースで爆音パーティー開催する連中だから、各国の暴言を真っ先に覚えたよ。ホント、頭イカれるかと思った」
クスリをキメてるわけでもないのに、あのハイテンションはお国柄だと知った時の絶望たるや、と彼は言う。フランス人が『ハラキリ!』と百均の模造刀で切りかかってきて、痣だらけになりながら真剣白刃取りを会得したとか、インド人が三ヶ月間、カレーパーティーだと共同キッチンを占領し続けた時は胃袋と嗅覚が地獄だったと付け加えて。
他にもまだまだ苦労話は尽きないようだが今は必要ないからとそれ以上は教えてくれなかった。あまりに楽しかったので聞ける機会があれば他のエピソードも聞いてみたいと思ってしまう。
「勉強して学んだわけじゃない。日常的に必要だったから習得しただけだ」
謙遜も過ぎれば嫌味だというのに、この人は本当にそう思っているんだ。それがどんなに凄いことか自慢していいくらいなのに、勉強したわけではないからと本気で謙遜している。
「まだ仕事いけそうか?」
「……あ、うん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだし」
「少し休んでからでもいいぞ」
残念ながら、というのは語弊があるかもしれないが、私はこういった絡みに慣れているのだ。普通の女性であれば怖い思いをしたのだろうが、私は良くも悪くも普通ではないので。
気を遣ってくれる彼に私は思わず笑みがこぼれる。さっきは話せなかったのに、今は自然と話が出来ているし、少なくとも彼は嫌いだからと言って私を見捨てるような非道な人ではなかった。
ただそれだけが嬉しくて、私も調子に乗って。
「片山さんに抱きしめられたら大丈夫かも!」
そういって片山さんに対して両手を広げると。
「俺をセクハラとパワハラで懲戒にしたいんかお前は」
「私から言ってるのに訴えるわけないじゃん! それとも傷ついた乙女を優しく抱きしめることもできないの?」
ニシシッと意地悪く笑って挑発するように言ったのはいつもの軽口だ。お互い嫌っているがこういうやり取りは以前からあって、それはむしろ楽しくて嬉しくて。
「阿呆」
アホじゃなくて、阿呆って言った! しかも珍しく笑って!
と――急に彼の体が近づいてきて、背中に手を回されたかと思えば私の体をそっと抱き寄せて。一瞬触れた彼の剃り残したヒゲが私の頬をチクリと刺激する。すぐに離れていく彼の体は思ったよりも大きくて温かかった。
「じゃ、大丈夫になったら仕事戻れよ」
そう言って私の額をぺちっと指先で弾いて立ち去っていく。
心音がはち切れそうなくらいバクバク高鳴って。耳まで赤く熱を帯びるのが自分でもわかる。
抱き締められた。
一瞬だけ。
片山さんに。
私が言った冗談を、冗談で返してくれただけだ。安い挑発に乗ってくれただけのこと。彼にとってはむしろ嫌がらせのつもりだったのかもしれない。
けれどそれはあまりにも唐突で、あまりにも戸惑いが大きくて。
抱き締められるときに手を添えられた背中が熱い。心臓がどくどくする。彼の吐息を聞いた耳が、触れた頬が、彼の匂いを嗅いだ鼻が、彼に触れられた自分の体が熱を帯びて特別になっていく。
なんで? なんで……? なんでこんなに私――嬉しいの??
お互い冗談だってわかってるし、じゃれ合いみたいなものだろう。
片山さんだって私が言ったから応戦しただけであって、決して他意なんてない。
それでも、それなのに、こんなにも舞い上がるほど嬉しくて。
抱き締められたことも、自分がこんな風になる事も信じられなくて思わず口元を両手で覆う。
今までも自分に好意を一方的に寄せてきた異性に抱きつかれるということはあった。その時の嫌悪たるや、言葉で表せられないほどのものだったのに、今はただただ嬉しくて。
「……はっ!? 片山さんに美人って言われた!?」
今更だけど、反芻してみれば彼は、あの時だけではなくところどころで褒めてくれている。
美人だとか、敬語を頑張って使おうとしている姿を可愛いとか、結構恥ずかしい事を平気で言ってくるので思わず聞き流しそうになるのだ。日本人らしからぬドストレートな表現を使うから言われた方も戸惑う。
片山さんの事を考えれば考えるほどドキドキが止まらなくて、結局仕事に戻るのが少しだけ遅くなったのは言うまでもない。
◇◆◇
「さいじょーさん、なにやってんの?」
そう声をかけてきたのは、バイトがよく一緒になる高校生の塚原さんだ。
ビックリして振り返ると私が見ていた視線の先に片山さんを発見した彼女が、はて? と首を傾げる。
「片山さんがどうかしたの?」
まさに考えていた相手の名前を出された事に心臓が跳ね上がる。思わず彼女の手を引っ張ってその場から離れると、彼女はわたわたとしながらもついてきて。
「ねぇ塚原さんっ!」
「ど、どうしました?」
「私、おかしいの!」
「え? なにが?」
「なんかね、前まで何とも思ってなかった――むしろ苦手だった片山さんの事、最近滅茶苦茶意識しちゃうんだけど、これ何!? 変だよね!?」
わけがわからない。
あれから片山さんの姿を見ただけで心臓が跳ね上がってドキドキして。顔をみるだけで緊張して、今までどうやって挨拶していたかも思い出せないくらい話をすることもままならなくて。
軽い口調でいつも通り挨拶をしたらいいだけなのに、それすら緊張するなんて初めてだ。今までどんな発表会だって大勢の人前だって緊張なんてしたことがなかったのに。
なんで片山さんを見るだけでこんなにも緊張するのか。
思わず塚原さんに尋ねたけれど、塚原さんは一瞬驚いた表情を浮かべてそれからゆっくりと私の言った内容を理解し、納得し。
「もしかしてさいじょーさん、片山さんの事好きなの?」
「…………す、好き?」
…………え? 好きって? 私が? 好き…………? 片山さんを……?
「え、さいじょーさんが片山さんの事好きなのかと」
「……好き? それは……あれ? 恋愛感情とかそういう意味の?」
初耳すぎる感情の名前に私が動揺していると、塚原さんは揶揄することなく笑いながら聞いてくれた。
「そー言ってんじゃん。……んー、例えば片山さんの事考えるだけで心臓がドキドキしたり、話すのも緊張したり、姿を見るだけで嬉しくなったりする?」
「…………する」
「えー! じゃあやっぱり好きじゃん!」
「好き……これ、好きって感情なの? 片山さんともっと話したいとか、近くに居たいなぁとかそういうのも?」
「あはっ! さいじょーさんって恋した事なかったんだ? 美人なのに意外だねぇ」
意外、なのかな? よくわからないけれど、何となく塚原さんに言われた言葉がストンと自分の中に落ち着いて。