05
これは比喩だ。
ただの比喩表現であって、夢や幻なんかじゃない。
しかし、俺の目に確実に映っているのは夢と現実の境目が分からない、溺れていく感覚。
ゆっくりと開かれた彼女の瞳が、キラキラと光を反射する水面のように見えて。かと思えば、さきほどまで煩わしいほどうるさかった周囲が急激に変化を始める。
こぽり。こぽり。
水中に沈むような感覚。
幾重にも重なる気泡が視界を一瞬にして染め上げる。
押し寄せる。
溺れる。
人が。
波が。
押し寄せる。
巻き込まれる。
引き込まれる。
雑然とした空気が透き通る。
息ができないほど深く沈んだ自分を取り巻く空気。
こぽり。こぽり。
吐息が気泡とかわる。
彼女の瞳が。
自分の視界が。
世界が一瞬にして水の底に沈む――。
なんだっ……なんだっ!? これ!?
息が続かない。
動悸が激しくなり、めまいがし始める。
急激に自分の足元がふらつき、座っていることも忘れて視界がグラリと揺れる。
恐ろしい感覚に急激に引き込まれ、パニックになる俺の手をぎゅっと握りしめる温かさに、ハッと気づかされて。
「大丈夫?」
彼女の静かな問いかけが響く。
こぽっと吐息が気泡となって天井に消えていく。
その瞬間、あっと言葉を呑み込んだ。
――息が出来る。
その状況にようやく落ち着いた俺は彼女を見つめ、そしてゆっくりと周囲を見回せば。
雑然とした空気が漂う駅構内のはずなのに、なぜか静まり返り、自分と彼女の時間だけがゆったりと進んでいる事に気が付いて。
気持ちがふわふわと水の中で浮かんでいるようだ。
苛立ちや戸惑いが嘘のように静まりかえる。
耳が可笑しくなったのか、さざ波のような水がぶつかる音が聞こえる。
人の声が聞こえない。喧騒とした足音さえ消えている。
「……なん、だ……これ? なにした?」
「え? なにもしてないよ?」
きょとんと聞き返してくる彼女の瞳は、相変わらず光を乱反射させている。
見間違いかと思いながらも目を擦るが、幻覚のようであって彼女の瞳は寝起きに見た時と同じような輝きを放っている。
自分の感覚がおかしくなっているのかと首を傾げるものの、彼女はふわっと笑って駅構内を見渡した。
「ね、ここから宝石見つけられる?」
「宝石?」
意味なんてわかるはずもなく、とうとう彼女は不思議な女性から不思議ちゃんに変わったのかと危惧するが、彼女の視線の先を見て、思わず息を呑んだ。
相変わらず目の前には人々が行きかう。音が消えたが存在はそこにある。
きらめく水面に乱反射したように、人々の中にキラリと光る者が居た。
「っ……宝石って……」
思わず零せば、彼女は理解されたのが嬉しかったのかにっこりとほほ笑んで。
「キラキラしたの。片山さんにも見えた?」
何を馬鹿な事をと言うつもりだった。
けれどことごとくそれを打ち破るように、彼女の言いたいことが理解できてしまう。
行き交うほとんどの人が光を持たないただの波、水のきらめきを放つ中、キラキラと自身が光を放って通り過ぎていく人がところどころに点在する。
それは黄色だったり、青色だったり、赤やピンクなんかも。
光の明るさもそれぞれで。
目まぐるしく溢れる宝石たちの名を、彼女はゆっくりと呼び始める。
「翠玉、青玉、黄玉、紅玉――」
まるでひとつひとつを慈しむかのように大切に呼ぶ彼女の声は、今まで聞いたことのない穏やかな声で。
視線を宝石たちに向けながら静かに聞き入ってしまったのは、自分でもなぜだかわからない。
時々、「あれは?」と思わず尋ねれば、彼女は穏やかな表情を浮かべたまま宝石の名を教えてくれる。
荒れ狂うような状況の変化に溺れそうになっていたのが嘘のように穏やかに。
波を縫うように揺らめく瞬きを、ただ静かにたゆたう。
耳に届くのは彼女の声。
こぽり。こぽり。
声と共に届く気泡があふれる音。
世界が。
自分を置いていく――。
彼女は愛おしそうにキラキラと瞳を輝かせ。
それがたまらなく愛しくて、なぜか悲しい――。
◇◆◇
戻ってきた現実は喧騒としていた。
夢か現か幻か。
自分の感覚が未だに覚束ないまま、ふぅーっと深く息を吐きだせば、隣に座っていた彼女の瞳は普段のものに戻っていた。
「なん、か……よくわかんねぇけど……お前の見てる世の中って……あんなふうに見える、のか……?」
何を見せられたのか、あれが一体なんだったのか。
狐に化かされたと言われた方がまだ信じられるほど、不思議な体験をした気がする。
きっと周囲から見た自分達は、ただ人間観察をしていただけだと思う。実際にやっていたことはそういうことだ。
何度も言う。
アレは夢や幻なんかじゃない。
ただの比喩だ。
自分の瞳が映し出した比喩なのだ。
けれど彼女が共有してきた視覚は想像以上に強烈で。
自分が本当に彼女と同じものを見ていたのかわからないけれど、たぶん、きっとそういうことなのだとどこかで信じ込もうとする自分が存在している。
わけがわからない。自分だって理解しえない体験をした。
彼女が観ている世界はいつもあんな感じなのかと。
酷く羨ましくさえ思えて。
「なんとなくね」
そう言いながら立ち上がった彼女につられるように立ち上がれば、彼女はへにゃっとした笑みを浮かべ。
「なんとなく、片山さんとは共有できると思ったんだぁ~。ふふ。片山さんやっぱり見えたんだねぇ。嬉しい~」
今まで共有できる人なんていなかったから、と続けた彼女の言葉に少しだけ動揺した。
なんだろう。
今まで俺は彼女の何を見てきたんだろう。
空気の読めなさや、思った事をすぐに口にするような彼女を、俺は確かに嫌っていた。面倒な事を押し付けてきて、自分だけは言い返して。
苦労も面倒も、大変なことは全部押し付けられて、自分が言い返せない事を棚に上げて彼女を嫌う事で自分を守っていた。
知っていたはずだ。彼女が正しいことくらい。
自分が間違っていることくらい。
どこかで線を引いて見下す相手を探していた。
所詮、女が、バイトが、と自分の矜持を守るためだけに彼女を嫌って。
だから、彼女も俺を嫌いだと思っていた。彼女に優しくしたことなんて一度もなくて、嫌いだから嫌われていると勝手に思い込んでいたのに。
彼女は少なくとも、俺の嘔吐物を処理してくれる程度には。
俺におにぎりを作ってくれる程度には。
俺と感覚を共有したいと思ってくれる程度には。
彼女は、俺を信頼してくれていた。
優しくしようとしてくれた。
何が準社員だ。年上だ。
何も頼りになる事なんてしてなかったくせに、エラそうにすることだけは一人前で。
足元からくずれゆく矜持が、自分の脳を、頬を、耳を、羞恥で赤く染め上げていく。
そんな俺の表情の変化を間近で見てしまったらしい彼女は、珍しく驚いて。
「どーしたの? どこか痛い?」
こんな風に心配してくれる優しさを、俺は嫌いの一言で片づけてみないようにしていた。
「……ごめん」
苦し紛れの一言がようやく口からこぼれ出す。
何に対しての謝罪かなんて言えない。
けれど彼女はふにゃりと笑って、自分より背の高い俺の頭をくしゃくしゃと撫でながら。
「ふふっ。片山さんの髪、やぁらかぃねぇ~」
なんてまたとんちんかんな事を言い出すから。
「……お前、ちゃんと人の話聞けよ」
だから、嫌いなんだよ――と力なく笑いながらつぶやけば。彼女は俺の髪を撫でたまま、くふふと笑ってみせた。
「うん、知ってるよぉ」
ああ――彼女には敵わない。
第一章はここで終了です。
今後、章毎に(予約)更新していきます。
第二章執筆中のため、今しばらくお待ちください。