45 side.縁
七章の途中ですが、ここから初の縁視点が入ります。
※side.縁※
――私と彼が会社の社長室で密会した時まで話は遡る。
会社の取引相手のトップに振り回されている彼は最早、今会社で一番の有名人ではなかろうか。本人はそんなつもりもなければむしろ迷惑がっているのも理解しているからようやくフォローするに至ったのだが、渡したボールペン型防犯GPSの説明を受けた彼は、不安そうな表情のまま視線を落として眺めているのを見て、私が畳み掛けるように言う。
「もし不安なら私、こっそり後ろからついていくよ?」
彼の憂いが晴れるならば、少し嫌な気持ちになるけれど元カノだというアレクサンドラに会ってもいいと伝えたのは私。その意味の真意を測りかねていた様子だったため安心させるつもりでそう言ったけれど、彼は手の中にあるそれをそっと握りしめると私をまっすぐ見て尋ねた。
「黒澤本部長。俺は彼女と会った方がいいんですね?」
それは質問というより確信を持った確認だ。私を黒澤本部長と呼んだ時点で、それがどういう意味を指すのか互いに理解する。一瞬苦笑交じりに目を閉じたのは、やはり騙されてくれなかったかという手強さを感じたから。同時に彼がこちら側の人間でよかったという心強さも。
この人は自己肯定感が低いだけで、実際に持っているポテンシャルはものすごく高い。真正面から人の意見を受け止めるだけではなく、色んな方向から俯瞰し想像以上や想定外の答えを導き出してくれる。人の話をよく聞くからか、思考を読み取るのがうまいのだ。
せっかくプライベートを隠れ蓑に彼の不安を払拭する提案をしたのに、その下に隠れていた仕事としての都合を言い当てられたのだから、本当にできた人だ。私は冷笑を浮かべながら素直に伝えた。
「その方が仕事がしやすくなるというのは本音よ」
はっきりとそう伝えれば、先ほどまでとは異なり背筋を伸ばして彼は私をまっすぐに見据える。上司と部下の距離ではないのに彼の思考はすでにそちらの関係に切り替わっているようだったので、私も上司として彼に対峙することにした。
「提携に問題はない。その後の細かな部分について契約に盛り込んでいるはずだったのに、隙を突いて横やりを入れられるのが正直面白くないの。アメリカのやり方をそのまま踏襲するだけでは日本では確実にコケるから黙らせたいのよ。そのための大義名分が欲しいの。どんな些細な理由でも」
「私が動くことによって、彼女が何か仕掛けてくると思ってるんですよね?」
「貴方が過去にお付き合いしていた女性を悪く言うのは憚られるけれど、あの手の女性は確実にね。実力行使してくるわ」
「私は何をしたら?」
「何も。さっき言ったように会って話すだけでいいわ。思い出話に花を咲かせてもいいし、彼女がなぜ別れを選んだのか問い詰めてもいい」
「何もなかったら?」
「貴方の憂いがなくなるだけよ。悪い話じゃないわ」
淡々と事実を告げると彼は少しだけ考え込んだが、すぐに私の目をまっすぐに見つめてフッと困ったように微笑んで。
「それは君のためになる?」
「っ!」
唐突に恋人として話しかけられたことに息を詰まらせる。
社長は一社員を犠牲にするつもりはないと言っていた。それは会社として正しい判断だ。けれどその一人を犠牲にすることによって得られるものもある。それがたまたま葉クンだった事がよかったのか悪かったのか。彼にとっては不幸過ぎる事態ではあるが、そのうちの幸いは私との関係性だ。
だからこそ彼の言い方はズルいと思いながらも、恋人を仕事のために利用する私の方がもっとズルいとわかっているから。
「卑怯だと思う?」
自分が一体どちらの立場で尋ねた言葉だかわからない。この話を素直に伝えた時点で何らかの非難を受ける覚悟はできている。最悪振られてしまっても仕方がないと思うけれど、利用しない手はないと思い実行しようとしているのは他でもない私だから。それでもどこかで受け入れてくれないかという期待もあって。
冷えた自分の手を重ねてグッと胸の前で握りしめると、彼は少しだけ沈黙しゆっくりと口を開いて。
「面白いと思う」
「……え?」
想定外の回答に思わず呆けた表情を浮かべると、その表情がツボだったのか彼はクスクスと控えめに笑って私の握りしめていた手をボールペンを持ったまま両手で包み込むように救い上げてくれた。
「守ってくれるんだろ? 助けてくれるんだろ? だったらそれでいい」
「いい、の?」
「いいよ」
こんなあっさりと受け入れられるとは思っていなかった。ある意味危険を伴うかもしれない。あの人がどんな手段に出てくるかわからないのに、わざわざ彼は囮なると言ってくれているのだ。
会社というより黒澤財閥としての後ろ暗い部分が確実に動く。彼は多分それを理解していて、けれどそれ以上を踏み込まないまま私のために動いてくれようとしているのだ。くしゃりと顔を歪めてしまったのは敗北感からだ。あれほど他の役員に言われても拒み続けた事なのに、彼はあっさりと頷いてくれた。全部を伝えたわけでもないのに、私が願ったからという理由だけで体を張ってくれるその気持ちが酷く嬉しい。
「ありがたく受け取っておく」
そう言って彼は私の気持ちと共にボールペン型のソレをポケットに入れて微笑んだ。
◇◆◇
「は? 受け入れた?」
社長――こと蝶叔父様は驚いた表情で聞き返した。彼が退室した後に入れ替わるように蝶叔父様が戻って来たことにより、私はその場に残って身内としての会話で先ほど彼が囮役を買って出てくれたことを伝えたのだ。蝶叔父様の反応が期待通りで微笑を浮かべると、叔父様はソファに深く座りなおした。
「はー、大した男だねぇ彼も」
「すごいよね、私の彼氏」
「お前、それ言いたいだけだろう」
「関係をオープンにしていないんだから、身内にくらい自慢させてよ」
ちょっとだけ不満げに頬を膨らませたものの、先ほど秘密の相瀬をすませたばかりの恋人の思うと、自然と笑みが零れてしまって。私の笑みを見た蝶叔父様はジト目で吐き出すように言った。
「策士だねぇ。仕事が忙しいと言っておきながら連絡取れるくらいの時間はあっただろうに」
「ふふ、おかげで泣きそうな葉クン可愛かったなぁ」
「うっわ、うちの姪の性格悪っ」
だって、私は欲張りなのだ。
どんな彼でも見たいしどんな彼にも触れたい。ファミレスでバイトしていた頃に嫌われていた事さえも、今となってはいい経験だったとすら思えるくらい私は彼にぞっこんだ。
「どう考えてもアレクサンドラは彼をモノにするつもりだぞ。いいのか?」
企業の一社長として取引相手をそのような呼び方にするのはいけないことだが、身内としてはあの女呼ばわりで充分だ。
「別に、葉クンが望むならいいのよ」
「は? いいのか?」
私の言葉が意外だったのか、蝶叔父様が間抜けな顔を浮かべている。私はその表情が可笑しくて笑いながら答えた。
「もちろんよ。私は例え私の立場が彼の恋人ではなくなったとしても葉クンの望むことをすべて叶えてあげたいの。もし彼があの女を選ぶならそれでもいい。アメリカへ共に行くなら応援するし、笑顔で見送る。彼女とセフレになりたいと言うのであればそれも構わない。その逆に私が、と言われても受け入れる」
きっと真面目な彼はそんなことを言わないけれど、もしもそうなったらそれはそれで面白いとクスクスと口元から笑みが漏れる。
あの人からの話を聞く限り、彼を運命の人だと思っている。別にロマンチックな意味で言っているわけではない。妄想や空想をお得意とした女性が大企業のトップが務まるわけがない。ただ彼女にとって彼という存在がしっくり来ている、というだけの話だ。
彼があの女の元へ向かってもきっと幸せになるだろう。あの女はやり手で情を一切かけないことで有名だ。きっと彼の事もただ好きだという理由から欲しているわけではない。
彼は人を惹きつける。
人が欲しいと思う言葉をくれる。
たったそれだけのことかもしれないけれど、意外と難しい。
稀に“なんて言葉をかけていいかわからないシチュエーション”に誰もが出会った時はあると思う。そんな中で彼は相手を傷つけずに言葉を選んで救い上げてくれるのだ。
きっとあの人もそんな彼に救われた経験があるのかもしれない。もしかしたら彼の言葉がきっかけで今の地位に昇りつめたのだとしたら救世主だ。
だけど。
「あの人が言葉で彼を説得するならそれでもいい。けれど実力行使に出るなら簡単には渡さない。葉クンが望まない限りは絶対に」
あの人が日本に滞在するのもあと二日ほどだ。その間にあの葉クンを説得するのは不可能だ。私でさえ気持ちを伝えてから一度振られ、ようやく今の関係に至るまで半年ほどかかっている。今度はいつ日本にやってこられるかもわからない状況で、欲しいものを野放しにしておくほど愚かな女性ではないはずだ。
それに――本当の事は流石に葉クンに伝えるのは憚られた。
正直、契約後の横やりについては可愛いものだ。少し面倒だなと思う程度でさほどの事ではない。
問題なのはあの人が法を犯している可能性がある、ということだ。
提携した会社のトップが日本に来て法を犯すのはいただけない。それが公になればこちら側にも当然影響はあるし、ここまで進んできたプロジェクトに支障が出る。頓挫するというより、場合によってはこのプロジェクト自体がなくなる可能性があるのだ。
彼にその事実を伝えるつもりはない。もしかすると彼と引き合わせる中で事実が露見する可能性もあるが、彼自身が気づかない限りは教えたくないというのが本音だ。
アレクサンドラ=モルガンという女は私にとって目障りな事に変わりはない。けれど葉クンが一度でも愛した女性であるという点では必要なのだ。私にとって今の“片山葉”を形成している、彼に関わり良くも悪くも多少の影響を与えた存在というのは加味すべき情報だ。
片山葉という男を作り上げた周囲の存在や環境そのものに賛辞を贈りたい。
きっかけは些細だったかもしれないが、私にとって彼が絶対であり全てだ。
その思考が病んでいると言われても構わない。彼を想う事が病気であれば、私は医者から匙を奪い病と共に生きよう。
「夢兎叔父様にお願いするつもりなの」
私がそう言うと、蝶叔父様は眉間に皺を寄せながらも深い息を吐く。あの人が葉クンに不埒な事を働くのであれば、こちら側も遠慮なく実力行使させてもらうつもりだ。仄暗い笑みを浮かべる私に対し、蝶叔父様は諦めたように「あー」と情けない声を上げながら首の凝りをほぐすように回して。
「夢兎兄に一応言っといて。まだ“使う”からほどほどにって」
「従順とまではいかないけれど、逆らわない程度でいいかしら?」
「その匙加減難しいって怒られそう」
ポツリとぼやく蝶叔父様に、夢兎叔父様が眉間に皺を寄せて同じ台詞を吐き出すのを想像して思わず声を上げて笑った。




