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ラピスラズリの恋  作者: 佐倉硯
その先は裏の顔
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「葉クン」


その呼び方で彼女は“黒澤縁”として接することを望んでいると即座に理解した。黒澤本部長の姿でそう呼ばれるのは、なんだか背徳感があってそんなことを考えてしまう自分に失笑する。

ゆっくりと俺の目の前に歩み寄ってくる彼女に、俺が謝罪の言葉を口にしようとしたときだった。


「ごめ――」


彼女の唇がそれを拒んだ。


流れるように唇を奪われ、彼女の冷たい指先が俺の両頬をそっと包み込む。啄むような優しいキスに少し泣きそうになりながらもされるがままに、少し彼女の体に手を添えて目を伏せながら受け入れると、彼女は俺の首に腕を回してより一層深いキスをする。


職場で、しかも社長室で上司となんて、ちょっとどころかかなりクる。


さっきまであんなに気持ちに余裕がなかったのに、彼女が傍にいるだけで安心感に包まれてしまうのは彼女の立場だからだろうか。


ゆっくりと離れていく唇と同時に目を開ければ、彼女もまたその柔らかな睫毛を持ち上げて。俺の首の後ろに腕を回したまま至近距離で視線が絡まる。


「消毒」


そう言って笑ってくれた彼女の表情に本当に泣きそうになった。泣き顔を見られたくない一心で彼女を抱き寄せると、キツく抱きしめ過ぎたのか「んっ」と甘い声が彼女の口から漏れる。ズズッと鼻をすすると、抱きしめたまま俺の頭を撫でてくれて。


「ごめんね。あの人達が来日中なものだから、本当に忙しくて全然連絡も取れなくて」

「……怒ってたんじゃ、ないのか?」


恐る恐る尋ねると、彼女はバッと顔を上げて鼻先同士がくっつくくらいの至近距離で俺の顔を驚いた表情で見て。


「全然怒ってない! うそ!? 勘違いさせてた!? ごめんねっ! 本当に忙しかったのっ!」

「嫌われたかと思った……」

「嫌うわけないじゃんっ! 大好きだよっ!」


ヤバい、ほんとに泣きそう。


俺、今すっごく女々しい。


いつも通りな彼女の態度に目が潤んできた。


男ならわかってもらえると思うけれど、できるなら好きな人の前では格好つけていたいんだ。けれどここ数日で気持ちに余裕が持てずにかなり周囲の好奇の目に晒され続けた俺には取り繕う気力さえない。


そう考えると、いつもこの視線の中で生きている彼女の強さが本当に凄いと実感できる。彼女とともにありたいと願い、そしてその覚悟はできていたけれど自分に耐えられるか不安になってきた。今の状況とは異なるとは思うが、流石に心が折れる。


あー、俺、結構この状況がキてたんだなぁとつくづく実感していると、彼女は俺の零れそうな涙に唇を寄せてくれて。


「助けてあげられなくてごめんね。大変だったよね」


頭をヨシヨシと撫でながら優しい言葉をかけてくれるんだから、本当に自分が子供に戻った気分だ。社会人になってから初めてできた彼女だから、俺も少しどう接していいのか不安だったけれど、今は彼女の優しさに素直に甘えよう。

彼女の肩に額を摺り寄せて抱きしめれば、彼女はくすぐったそうに小さく笑みを零しながらも見放さないでくれて。


「滞在はあと二日ほどの予定だし、もう少し耐えられそう?」

「……正直、今まで一切連絡なかったのに、偶然再会しただけでこんなに執着される理由がわからなくて」


自由奔放でダイナミックな考え方を持つアリーを尊敬していたし、それと反して緻密な思考を持って俺に夢を語ってくれた時はなんて眩しいんだろうとさえ思っていた。学生時特有の“彼氏・彼女が欲しい”という気持ちがなかったわけではないが、確かにアリーと付き合っていたころはちゃんと好きだったのだ。


「私が言うのもおかしい話かもしれないけれど、一度ちゃんと話してみたらどうかな?」

「……え?」


彼女の言葉の意味が理解できずにゆっくり顔を上げると、ちょっと困ったようなけれど真剣な眼差しで俺を見つめて。


「もしかしたらさ、単純な話なのかもしれない。葉クンが逃げ回っているから追いかけまわしているだけかもしれないし、学生時代を懐かしみたいだけかもしれない」

「いや、でも……」


まさか今カノから元カノと会えばいいと言われると思ってもみなくて、かなり動揺してしまった。言われてみればとも思うが、しかしその言葉を簡単に享受していいものか。俺の心情を察してか、彼女はニッコリ微笑んで。


「私に遠慮しているなら気にしないでいいよ。って言っても葉クン優しいから気にするんだろうけれど。あ、そうだ」


そう言って彼女は俺から自然と離れると、ポケットに入れていたものを差し出してきたので素直にそれを受け取った。


「ボールペン?」


受け取ったものを見たままの印象でそう尋ねると、彼女は小さく首を振って説明してくれた。


「それ黒澤関係者が所有するボールペン型の防犯GPSなの。音が鳴るわけじゃなくて、押した瞬間に信号が発信されてGPSで居場所が特定できるようになってて。まあ、使う時はないと思うけれど一応(・・)お守り代わりとして持っておいて」


え、そんなすごいもの貰っていいの?


「葉クンの元カノを疑うわけじゃないよ? ただね、彼女も葉クンと付き合っていた時から立場が変わったでしょう? 彼女と一緒に行動することによって巻き込まれる(・・・・・・)ことも考えられるから」


彼女には何らかの経験があるのかもしれない。財力と権力のある場所には必ずしもいいもの(・・・・)だけが集まるとは限らない。それは物でも人でも。


「……っそれは……ちょっと俺には想像つかないけれど」


彼女の言葉にゾクリと肝が冷えた。――何となくだ。彼女の言動から違和感を得た俺が直球に尋ねると、彼女は苦笑して本当の事(・・・・)を教えてくれる。その意味を熟考したものの、彼女の気遣いを素直に受け入れることで気持ちに余裕ができたのであえてその話に乗ることにした。


「ありがたく受け取っておく」


そう言って手が届くようにとズボンのポケットに無造作に入れ込むと、ふぅっと決意と同時に大きく息を吐き出した。


「お言葉に甘えて、ちょっとアイツと話してみるよ。周囲の視線ばかり気になって避けていたけど、もしかしたら本当に思い出話に花咲かせたいだけかもしれないし」

「うん」


本当は嫌だと言われたら絶対にそんなことしないのに、彼女は本当にそう思っているみたいだと少し安堵する。もしかしたら嫌なのかもしれないのに、俺の気持ちが納得する方を優先してくれているのだと理解できると、本当に愛されているなと自覚してしまう。だからなおの事裏切るようなことは絶対にしないと心に誓って。


「縁、ありがとう」

「ふふっ、葉クン少しでも元気が出たならよかった」


彼女は俺の万能薬だ。

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