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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
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3-22 予感

 例えるなら翼を持った夜の気配。

 それはロワールハイネス号の真上の空を、ぐるぐる旋回しているようだった。


「鳥? どこか近くに陸地があるのかしら?」

 ロワールは海図室の壁に背中を預けながら、ゆっくりと夜空を見上げた。

 今宵の銀の月<ソリン>は、まるで釣り針のように痩せ細り、弱々しい光を海に投げかけている。

 その月明かりを、かすかな羽音と共によぎる黒い影。


「……行っちゃった?」

 ロワールは細い月をじっと見つめた。

 鳥らしきものは、どこかへ飛び去っていったのだろう。

 心がざわざわするような、不快な気配がいくらかなくなったような気がする。

 ほっと安堵したものの、ロワールは新たに襲ってきた感覚に気が付き、ぶるっと身をふるわせた。


「……!」

 思わず両腕で肩を抱え込む。

 背中を小さな虫が這い上がってくるような、むずむずした悪寒。

 それを感じるのは、実は、これが初めてではない。


「確かに……嫌いじゃないのよ。人から好意を持って接してもらうのは。だから、私がここにいるわけだし。でも……」

 ロワールは唇をきゅっとかみしめて、少しでも悪寒をやわらげようと腕をさすった。

 そして、海図室の壁にぴたりと背中を付けたまま、目線だけ船尾の方に向けた。


「でも……あの人だけは……信用できない……」

 目を細め苦々しくつぶやくロワールの視線の先には、一人の男の影があった。

 弱々しい月の光でも、星のようにまたたく銀髪の主。

 ロワールハイネス号の操舵を任されているヴィズルが、後部ハッチの前にある鐘楼の前に立っている。

 当直中のヴィズルは、鐘楼に釣り下げられている銀色の船鐘を、丁寧に柔らかな布で磨いている所だった。


「うわー……たまんないわ。背中がき、も、ち、わ、る、い~!」

 叫びたくなるのを我慢して、その場で音を立てないよう地団駄を踏む。

 こんな感覚に襲われるのは、きっと自分がヴィズルに対してあまり良くない印象を持っているせいだ。

「うう……やっぱりもう、許せない」

 ロワールは悪寒にたまりかねて、一呼吸する間のうちに、ヴィズルの所まで移動していた。


「ちょっとー! 勝手にそれ、触らないでっ!!」

「……あ?」

 ロワールは自分の二倍はある、ヴィズルの背中に向かって叫んでいた。

「おや、これはレイディ……」

 振り返ったヴィズルは、怒りに顔をゆがませているロワールを見て、片眉を上げ、にっと笑ってみせた。

 そのあまりにもおどけたような仕種に、ロワールは腹の底からふつふつと、怒りが沸き起こってくるのを感じた。

 ヴィズルは相変わらず自分を子供扱いしている。


「それは大事な物なの。だから、余計な事はしないで!」

 ロワールは両手を握りしめた。

 ヴィズルが何時の間にか船鐘の留め金を外して、それを右手に持っている事に気付いたからだ。


「何……そんなコワイ顔してるんだ。やっと時間ができたから、こいつを磨いていたんだぜ? アスラトルを出てから、ちっとも手入れをしてなかったから、ホコリと塩で真っ白だったのを、ここまでキレイにしてやったっていうのに。少しは褒めてくれたっていいーんじゃねーのか?」

 ヴィズルは鐘を持ち、それを再び布でゆっくりと磨き出した。


「もう十分よ! 早く鐘を元に戻して」

 ぶるっと身をふるわせて、ロワールは鋭く叫んだ。

 ヴィズルの気持ちは分かるが、ロワールはどんどん自分が不安になっていくのを抑えられなかったのだ。

 船鐘は船の精霊の“魂の器”だから。

 たとえ掃除をする為の僅かなひとときであっても、船から外されているのがたまらなく嫌だった。


 ロワールは船鐘を取り上げようと、それに向かって手を伸ばした。だが、手が届くより先にヴィズルの浅黒い顔が目の前にあった。

 深い紺色の瞳を半眼にして、薄く口元に微笑をたたえた、魅惑的な顔が。

 ロワールは思わず息を飲んで、ヴィズルを凝視していた。

 初めて会った時に感じた、その“気配”に気付いて。

 ふっと、ヴィズルの唇に笑みが広がっていく。


「長期の航海であんたも疲れたろう。だから、今はお休み」

「なっ!」

 優し気な囁き声がロワールの耳をかすめると同時に、目の前が真っ暗になった。ヴィズルの手がロワールの目を覆って、その視界を遮ったのだ。


「何するのよ! あなた……やっぱり!」

 ロワールは回りを覆う闇から逃れようとしたが、何か大きな力に捕らえられ、身動きがとれない。

 凍り付くような冷気と重圧感が、身体全体にまとわりついてくる。

 そのあまりの冷たさに、ロワールは自分の意識が保てなくなるのを感じた。

 抵抗しようとすればするほど、大きな疲労感に襲われるのだ。


「……言っただろう? 俺は船を操る『術者』だって」


 どこか遠くの方で、つぶやくヴィズルの声が聞こえる。

 そういうふうに聞こえたのかどうかすら、もうわからない……。

 自力ではここから逃れる事ができない。そう悟ったロワールは、心の中にためこんでいた思いをありったけ込めて絶叫した。


『シャイン! 早く帰ってこないと、二度と口きいてあげないから――っ!!』



  ◇◇◇



 ファスガード号の艦長室の扉を開けて甲板に出たシャインは、おもむろに立ち止まり顔を左に向けた。

 そこには暗い闇の中を小さな影が漂っている。

 三本のすらりとしたマストに、ほっそりとした船体。

 もう日が落ちたというのに、波間を漂う影――ロワールハイネス号にはまだ、白い停泊灯が灯されていない。

 そのことをいぶかしみつつ、シャインは久方ぶりに見る自分の船が、確かにそこにある事を安堵した。


「どうかなさいましたか?」

 立ち止まったシャインへジャーヴィスが声をかけた。

「……なんでもない」

 シャインはふと胸の中をよぎった、一抹の不安を一蹴した。


 ロワールに呼ばれたような気がした。

 けれどそれは、今まで離ればなれになっていたからだろう。

 何時も自分の事を気にかけてくれるロワールだから、少しでも早く、船に帰るよう催促してくるのは十分予想できる。

 しかし、まだ今回の任務を果たしていないのだ。

 シャインは心の中でそっと詫びた。


 命令書を渡したらすぐに戻るから。

 ――すぐに。




 ファスガード号の艦長室を出て、右側の階段の横に、第二甲板へ下りる開口部の扉がある。

 士官候補生に案内されて、シャインとジャーヴィスは、十段ばかりの急勾配の階段を下りていった。

 ちょうど艦長室の真下にあるサロンは、来客をもてなす部屋である。

 だが今は、応接家具や調度類はすっかり片付けられ、右舷の四角い窓際に、急ごしらえの寝台が置かれていた。

 そこには頭に白い包帯を巻き付けた痛々しい姿の、五十を半ば過ぎた男性が、緑のクッションを背にあてがい、身を起こしてシャイン達を出迎えた。


 部屋の中には、窓を背にしてその男性に付き添うように、紺色の艦長服を身にまとった黒髪の男が立っている。

 年は四十五才ぐらい。わし鼻で筋肉質の、一見海兵隊と見間違う程、体格がいい。

 シャインはまずこのノーブルブルーの責任者、寝台に身を起こしている、ラフェール提督に一礼し、窓際に立っているファスガード号艦長ルウムに頭を下げた。


「お待たせいたしました。提督のご配慮のおかげで、副長に事情を説明する事ができました。ありがとうございます」

「いや、礼にはおよばん。何はともあれ……再会できて、よかったな」

 ラフェールがシャインから視線をジャーヴィスへと移したので、ジャーヴィスは深々と頭を垂れた。

「どうも、ありがとうございました」

 ラフェールは小さく微笑した。

 が、傷のせいか顔は青ざめ、唇もやや紫がかっていて、容態はあまりよくないようだった。

 頭以外にも外傷を負っているのか、呼吸も苦し気で浅い。

 白いシャツ姿で肩から金の肩章のついた航海服を羽織っているが、熱があるのだろう。額には汗が光り、小刻みに体を震わせている。


 シャインはそっと眉をひそめた。

 この一両日でラフェールがみるまにやつれてしまったことが、ありありとわかったからだ。

 シャインは一歩前に出た。

 小脇に抱えていた青い封筒を両手に持つ。


「ラフェール提督。遅くなりましたが、本部の命令書をお持ちしました」

「うむ――ルウム、中を確認してくれ……」

「はっ」


 窓際に控えていたルウムが手を伸ばしたので、シャインは封筒を渡した。

 凄腕の剣の使い手だと知られるルウムの手は、シャインのそれよりひと回り大きく、右の甲には白い刀傷がついていた。

 戦時ではないため、海賊拿捕専門の任につくノーブルブルーは、どの艦隊よりも実戦の回数が多い。


 五年ファスガード号を指揮しているルウムは、いかにも現場叩き上げの艦長で、昇進のチャンスがあってもそれを反古にして、この船に留まっていた。

 封筒を渡して、シャインは中を検分するルウムの顔をじっと見ていた。

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