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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
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3-20 ファスガード号

 ノーブルブルーを指揮するラフェール提督に、本部からの命令書を渡すため、ジャーヴィスは自室でざっと身支度を整えた。

 そして暗くなる気持ちを押さえつつ、命令書の入った青い封筒を大事に小脇へ抱えると、甲板へ再び上がった。

 辺りは水平線のところだけが、ほんのり赤色に染まって、まもなく夜が訪れようとしている。

 ジャーヴィスは見送りにきたヴィズルとエリックに、二言三言、言葉を交わし、海に下ろした雑用艇に乗り込んだ。


 水兵スレインの号令と共に、十名の水兵達はオールを出して雑用艇を漕ぐ。

 前方に漂うファスガード号は、近付くにつれてその大きさゆえに迫力を増す。

 うねりを伴った波にもまれながら、ジャーヴィスの乗った小艇は、コン、と軽くファスガード号の横腹へ当たった。

 ジャーヴィスが、そそりたつ壁のような船体を見上げた途端、上から水兵らしき人間の顔が見えて、はらりとロープが落ちてきた。


 ファスガード号の左舷船尾側にある舷梯のそばに雑用艇をつけたスレインは、自慢の太い腕に物をいわせて、それをぐっとつかんだ。

 引き寄せて、少しでも上下、左右に揺れる小艇の安定を保とうとする。


「副長、どうぞ。……お気をつけて」

「ああ、行ってくる」


 ジャーヴィスはそっと立ち上がると、船腹についた舷梯の一つに右手と右足をかけた。

 ぐっと右足に力を込めて、左足で雑用艇を蹴るように身体を持ち上げ、一つ一つ、それを登っていく。

 喫水線から三層に渡ってある、大砲の砲門蓋についた金色の葉のレリーフが、甲板から降り注ぐ停泊灯の白い光を受けて、鈍くきらめくのを見つめながら。


 十段ばかりあるそれを上りきったジャ-ヴィスの前には、長銃を携えた海兵隊をずらりと従えて、一人の海軍士官が立っていた。

 ジャーヴィスと同じような濃紺色のコートタイプの航海服を身にまとっている。

 その士官はジャーヴィスと目が合うと、ヒゲのない顔をわずかに破顔させて微笑した。年は三十五をすぎたぐらいだろうか。

 よく鍛えてあるのか、肩幅も広くジャーヴィスより少し背が高い。茶髪の肩まであるくせ毛を一つに結い、同じ色をした瞳がおだやかに光ってこちらを見ている。


「ようこそファスガード号へ。ロワールハイネス号のジャーヴィス中尉ですな」


 ジャーヴィスは軽く頭を下げた。

 少し、戸惑いつつ。


「確かに私はジャーヴィスですが、何故私の名を?」

 ジャーヴィスは思わずそう尋ねながら、相手の士官が右手を差し出したので、ゆっくりと握手を交わした。


「これはこれは……驚かれるのも当然ですな。私はこのファスガ-ド号の副長、イストリアです。あなたをすぐお連れするよう、ルウム艦長に言われていますので、まずはこちらへ」

「……はぁ」


 ジャーヴィスは浮かない顔をしつつ、イストリアのがっしりした背中を見失なわないよう、その後について歩いた。

 と同時に、イストリアの後ろにいた海兵隊たちが一斉に解散して、中央のメインマスト前にある開口部から第二甲板へ下りていった。

 ファスガード号の甲板には、当直中の十数名の水兵達がそれぞれの持ち場について、見張りなり、上げ綱などの点検をしている。

 そんな彼らの様子をみながらジャーヴィスは、ファスガード号の大きさに、畏怖に似た気持ちを覚えずにはいられなかった。


 ロワールハイネス号とは違い、これは戦うために造られた船だ。嫌でも目につく、等間隔に設置された大砲がそれを物語っている。

 ファスガ-ド号は90門の大砲を装備している。ジャーヴィスが歩いている、この上甲板だけでも左右両舷合わせて30門はあるだろう。

 商船クラスなら、一回の砲撃で海の藻屑にすることができる。

 片舷斉射で上甲板、第二甲板、第三甲板すべての砲を食らう事になろうものならば、浮いていられる船はほとんどない。

 実際、喫水線に近い第三甲板の20門は、波が高い時は砲門蓋を開ける事ができないので、滅多に発砲する事はないのだが。


 イストリアはまっすぐ船尾の後部甲板へ、ジャーヴィスを連れていった。

 そこはロワールハイネス号のものよりがっしりした階段が左右両端にあり、それを上ると巨大な二重舵輪を操作する、船尾楼(指揮所)になっている。

 イストリアは階段を上がらず、中間にある両開きの扉の前に立った。

 唐草模様のレリーフが施されているそれは、木目を生かした質素なもので、砲門蓋のように金色のペンキで色はつけられていない。

 手入れが行き届いているその扉は、軽い力で押したイストリアの手で、きしみ声一つ上げず奥へ向かって開いた。


「どうぞお入りください」


 イストリアにうながされて、ジャーヴィスは先に部屋の中へ入った。

 中はどうやら艦長室らしい。

 手前に豪勢な一組の応接セットと、その奥には艦長の執務机が設置されている。さらにその背後には大きな窓があった。

 部屋には壁際に置かれた二つばかりのランプが、オレンジ色の光で室内をやさしく照らしていたが、一人の人物が執務机に置かれた同様のそれに、火を着けようとしていた。


 ジャーヴィスより明るめのコバルトブルーの色をした、見覚えのある航海服をまとっていて、身軽そうな、ほっそりした体型をしている。

 だがうつむいているため、長い金色の前髪が滑り落ちて顔が見えない。

 ジャーヴィスは命令書の入った封筒を思わず胸の前に抱いて、息をするのも忘れたように、その人物を凝視した。


 こめかみが、どくどくと早鐘を打つように脈打っている。

 部屋の中がさらに明るさを増し、ランプに火を灯し終わった金髪の人物は、顔を上げてジャーヴィスの方に振り向いた。



「やあ、来たね。また会えてうれしいよ」


 落ち着き払ったその声は、なんと心地よい安心感を伴っているのだろう。

 シャイン・グラヴェールは、ランプの光を受けて輝く前髪をそっとかき上げて、はにかみながら微笑んだ。まるで聖者のように。

 そしてゆっくりと、こちらへ近付いてきた。


 ジャーヴィスは体の震えを押さえるべく、命令書を抱える腕に力を込めた。


「そんな……平然と歩いて来ないで下さい」


 心の底からシャインの身を案じていた。

 ロワールに言われなくても、この目で見ない限り、彼が死んだなど、認めるつもりはなかったから。

 絶望的な状況だったにも関わらず、目の前にいるシャインはぴんぴんしていて、緊張感のないその顔を見ると脱力しそうだ。

 ジャーヴィスは僅かばかり、それに怒りを感じてシャインをにらんだ。


「どんなに心配したか……わかってますか?」

 驚きと安心感で、ジャーヴィスはその場から動けずにいた。


「ああ」

 近付いてきたシャインが、じっとこちらの顔をのぞきこんだのは一瞬の間だった。

 エルシーアの海を思い出させるシャインの澄んだ瞳に、ジャーヴィスは無事を喜ぶ気持ちよりも、自らの犯した過ちが脳裏に蘇るのを感じた。

 その負い目を見抜いたのか、シャインは黙ったまま両腕を広げてジャ-ヴィスの背中に回した。

 左肩にシャインの額が当たる感覚がはっきりとわかる。


「心配をかけた。すまない。だけどこうして生きてるよ……ジャーヴィス副長」

「本当に、あなたって人は……」

 口ではそんな事を言いつつ、ジャーヴィスは右手を伸ばしてシャインの左肩に触れた。

 

 ―――幽霊じゃない。

 本当に、そこにいる。


「やだなあ。まだ、疑っているのかい?」


 シャインが笑いながら、ジャーヴィスの背中をかなり強めに叩いた。

 すこしは加減すればいいのに、この痛みも本物だ。

 背中の衝撃に、ジャーヴィスは一瞬息を詰めて大きく咳き込んだ。

 シャインが慌てて回した腕を解いたのは言うまでもない。



「よかったですなあ、グラヴェール艦長」

 扉のそばで二人を見ていたファスガード号副長イストリアは、涙もろいのか、上着のポケットから取り出したハンカチで、そっと目元をぬぐっていた。

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