1-8 命名式(2)
式の段取りは大体頭の中に入っている。
自分のするべき手順を繰り返し脳裏に反芻させ、命名式の会場へ訪れたシャインは、野次馬の多さに早くもここから立ち去りたい衝動にかられた。
その数は百名を超えているだろうか。彼等の前には水色の制服を纏った海兵隊がならんでいて、勝手に新造船へ近付かないよう睨みをきかせている。
船に乗り込む前に、来賓へ挨拶をしておかなければならない。彼等は新造船の左手――つまり舳先のある船首の岸壁で、今か今かとシャインが来るのを待っていた。この船は一等軍艦ではないので、海軍関係者としての参加は、直属のエスペランサ後方司令官のみのはずだった。しかしざっと目にした所、総務部や人事部。果てまた発令部など、十名を超す各部署の長または代行者たちが参列している。彼等の纏う白の正装が昼間の太陽の光を反射し、まぶしくて目が眩みそうだ。
こういう時シャインはあの父親の存在を――参謀司令官の息子だという重圧を感じずにはいられなかった。そして自分の一挙一動が、彼等を通じて父親の評価へとつながっていくのを痛烈に意識した。
幸いなのは父アドビスがやはりここに来ていないことだ。
軍艦のメインマストを思わせる恐ろしい長身。切り立った崖のような重厚な面立ち。人の底意までを見通すような鋭い青灰色の瞳をしたそれがないだけで心底ほっとする。
シャインは気持ちを切り替えて、来賓達の方へ近付いた。
命名式への参列の礼を簡単に述べて、深々と頭を下げる。そして、赤い絨毯が敷かれた渡り板の方へ足を進めた。通路には白い礼服をまとった二十名の儀仗兵が両脇へ並び、シャインがその前に立つと、雲一つない蒼空に向かい一斉に空砲を放った。硝煙の白煙が舞う中で、赤や黄色。青に緑。新造船のマストの間の静索に付けられた、色とりどりの小旗が誇らしげに海風を受けて翻るのが見える。
シャインは神官を伴い新造船へと乗り込んだ。
左舷舷側では神妙な顔でこちらを見つめる副長ジャーヴィスと、十五名の乗組員が微動だにせずきちんと一列に整列している。
彼等の視線を背中で強烈に感じながら、乗船したシャインは神官を伴い船首甲板へとおもむいた。命名式は祭壇が作られた船首部で行われる。緋の法衣を纏った年嵩の神官は、この日のためにはるばるエルドロイン河を下り、王都ミレンディルアからやってきたアルヴィーズ正教会の神官長だ。
彼は金縁の縫い取りが豪奢な肩掛けを捌きながら祭壇に近付くと、そこで恭しく頭を垂れた。祭壇といってもその正体は小さな机の上に、青と金の飾り布で覆われた簡素な台である。その祭壇の上には祝酒の黒いビンが一本置かれていた。中味は海神・青の女王と、船に宿る魂――『船の精霊』に捧げられるための聖なる血――ではなく、上等な赤葡萄酒だ。ビンの首の所には海を表す青銀の絹のリボンがかけられ、その端には一対の金の指輪が結び付けられていた。
シャインはそれに緊張した視線を走らせながら、神官の後ろで片膝を甲板についた。
年嵩の神官はシャインが位置についたことを確認してから、ゆっくりとした抑揚で祈りの詞を紡ぎ始めた。これが終われば、次はいよいよシャイン自らが新造船に名を与えることになっている。
命名式は実は本当に短い儀式なのだ。
「グラヴェール艦長。それでは始めて下さい」
神官の祝詞の声は既に消えていた。シャインは俯いていた面を上げて立ち上がると、神官が差し出した祝酒のビンを両手で恭しく受け取った。胸に抱いたそれがずしりと重く感じるのは、同時にこれから自分が果たさなくてはならない役目のせいでもあるだろう。
神官は祝酒の首に結ばれているリボンの端から、対の指輪の一つを取り去った。それをシャインの右手薬指へそっとくぐらせる。
エルシーア海軍には変わった慣習がある。一部の商船でもやっていることだが、海軍の艦長は着任した時、船と誓いの指輪を交わし彼女を妻として娶るのだ。それは船の魂でもあり、守神でもある『船の精霊』が大変嫉妬深く、船に女性を乗せると妬いて挙げ句の果てに船を沈めてしまうという迷信があるからだ。
もっとも、船の精霊の姿が見える者など滅多にいない。(見たという者もいる)この慣習は無意味だといわれているが、海軍が設立された頃からある古いものなので、航海の安全と船に対する礼儀の心を失わないためにも現在まで続けられている。
実際誓いの指輪を帯びたシャインは、その場の空気がひやりと変化したような気分にとらわれた。頬を撫でる風までも、何らかの意思を持った存在のように感じてしまう。
考えすぎだな。落ち着かないと。
呼吸を整え、シャインは祝酒のリボンに結ばれたもう一方の指輪を外した。これは式が終了後、シャインが船のとある場所に密かにしまうことになっている。指輪を軍服のポケットへ滑り込ませてから、シャインは祭壇を回りこみ、その先に突き出ている舳先へと足を進めた。
斜檣の向こうに広がるのは、雄大なエルドロイン河の緑がかった水面だ。けれどその流れは最終的にどこまでも青いエルシーア海へと続いている。とうとうと流れるそれを眺めていると、船の下で騒いでいる野次馬や来賓達の話し声がどんどん遠ざかっていった。
――さて。
いよいよこの新造船に名を与え、命を吹き込む時が来た。
思えば半年前、彼女はまだ設計図だけの存在だった。けれどこうして自分が彼女の建造に参加し、かつ、命名式まで執り行うことになろうとは想像もしなかった。
この日が来るのをずっと待っていた――本当に。
前方から吹いてくる風に濃紺のマントを旗のように翻しながら、シャインは祝酒のビンを右手に持ち口を開いた。
「汝をロワールハイネスと命名する!」
水を打ったような静けさの中で、シャインの明瞭な声だけが辺りに響き渡る。誰もがシャインに注目し、その瞬間に立ち会おうと固唾を飲んで見守っている。
それを再び意識しながら、シャインは右手に持った祝酒のビンを、ゆっくりと胸の高さまで持ち上げた。
「私は艦長としていかなる時も汝を守ることをここに誓う。海を統べる青き御方よ。我が誓いを聞き遂げ給え――そして我が船に宿りし船の精霊よ……」
シャインは斜檣の根元に視線を走らせた。
失敗することなく、一度で祝酒のビンを割らなくてはならない。
「願わくは、汝の加護が共にあらんことを――」
誓願を言い終え、シャインは一気にビンを振り下ろした。
『人間風情が、私を御せるなどと思うな!!』
「……なっ!」
突如シャインの脳裏に誰かの叫び声が響き渡った。
同時に手首をものすごい力で掴まれるのを感じた。
視線を落とすとそこには揺らめく髪を青い焔のように舞わせ、見上げる少女の姿があった。
透けるような少女の白い指がシャインの手首を掴み、祝酒のビンを斜檣の根元に打ち付けるのを断固として阻止している。
その顔は忘れもしない。
アイル号で『船のレイディ』と名乗った彼女そのものだ。
だがシャインは即座に違和感を覚えた。
その顔に異質なものを感じた。
違う。
彼女では、ない。
シャインは少女の果てしなく深くて底が見えない青い蒼い双眸を覗き込んでいた。
伝わってくる。
彼女は、彼女はこんなにも、見る者の心を凍らせるような恐ろしい気に満ちていなかった。
例えるなら――憎しみ?
いや。そうではなく――。
感じるのは……。
骨ばった少女の指がシャインの手首に食い込む。外す所か、指一本も動かすことすらできない。
手首を切り離されそうな痛みにシャインは耐えた。
祝酒のビンを割らなくては『命名式』が完了しない。
『やめろ。私にはすでに――が、ある』
青い焔の中で少女がつぶやいた。その儚げな外見からは想像できないようなおぞましい声で。
「お前は、誰だ……」
シャインは目の前の少女――いや、少女の姿をしたモノを睨み付けた。彼女の姿を映しとったようにもみえるその存在に怒りを感じた。
『ダメ! 今すぐ離れて!!』
その時だった。
シャインに向かって金色の光が飛び込んできた。
その光はものすごい力でシャインの体を後方へと突き飛ばした。
「レイディ! 君なのか!?」
受け身をとる暇もなく、シャインは背中から祭壇へと倒れ込んだ。細い木枠で組まれたそれは呆気無くバラバラと崩れ落ちて、シャインは容赦なく甲板に後頭部を打ち付けた。その衝撃で天と地がぐるりと大きく回った。
一体、どうなっているんだ?
自分の身に何が起こったのかさっぱりわからず、甲板に仰向けに倒れたシャインは、どこまでも高い蒼空と、そこに向かって伸びる金色のフォアマストをただただ見つめていた。
――ああ、やっぱり綺麗だな。光の柱みたいだ。
口元をわずかにほころばせて、シャインはぼんやりと思った。建造中甲板に寝転がって下からマストを見上げたことは多々あるが、彼女ほど美しいマストを持つ船には乗ったことがない。
白く霞む視界の中で、ふと、影が過った。
フォアマストに垂直に交わる形で設置された横帆桁の上で、見覚えのある黄昏色の光が揺れていた。その輝きをかすかに目の端で捉えながら、シャインの意識は闇の中へ落ちていった。