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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
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3-11 ヴィズルの憂鬱

 修理をすっかり終え、船体の化粧直しまでしたロワールハイネス号は、新たに命じられた任務につくためアスラトルの港を出港した。

 エルシーア海の深いターコイズブルーの波を切り裂くように、彼女は快速船にふさわしい速度で進んでいく。

 船首の三角帆を三枚と、各三本のマストに二枚ずつ上げられた、輝かんばかりの白い帆は、まさに翼となって船を羽ばたかせているようだった。


 ロワールハイネス号の後部甲板で、帆の張り加減を見ていたシャインは、具合よく風をはらむそれに満足し、後ろを振り返った。

 そこには指示を待つ、士官候補生のクラウスが控えている。

「今日は風が安定しているね……このまま後一時間、南東を維持しよう」

「了解しました。針路、南東維持です」

 クラウスは命令を復唱すると、後方で舵輪を握る航海士の元へ走っていった。

 それを見送ったシャインは、前部甲板で帆の調整をしている副長、ジャーヴィスに指示を出すため階段を下りた。


 ◇◇◇


「艦長より申し送りです。針路、後一時間、南東を維持です」

「了解した。針路、南東維持」

 二ヶ月限定の新・航海長マスターヴィズルは、命令を伝えたクラウスへにやりと笑い、内容を復唱した。

 そして隣で舵輪を握っている次席航海士のグラッドに声をかける。


「グラッド、南東だ……ちょい船首を風下へ落とせ」

「了解、航海長」

 グラッドは舵輪を右に大きく回して船の反応をみる。

 目の前にある、木製の羅針儀箱におさめられたコンパスをのぞき、その針が<南東>へ示すようにする。

 針が南に行き過ぎないように、常に南東を指すように、船の動きを先読みして舵を取るのだが、そのあたりのカンが経験と正比例するのだ。


 茶髪を刈り込んで角張った顔のグラッドの方が、ヴィズルより五つほど年上だが、彼は乗船経験が足りないため航海長の資格を保持していない。

 グラッドはヴィズルが、まあ合格点をやろうかと思う程の腕だった。

 思いがけない事態が起きない限り、平素十分任せられるレベルだ。

 これなら結構楽できるかもしれない……ヴィズルは満足げにほくそ笑んだ。

 その時だった。

 下の甲板から階段を上がってくるジャーヴィスの姿が見えたのは。


 疲れないのか? と一言いってやりたくなるくらい、眉間に縦ジワを浮かべた副長は、その青い瞳を微動だにせずヴィズルを見つめていた。

 ヴィズルは風を気にしている様を装って、ミズンマスト(最後尾)にはためく風見を見上げた。


 彼に好かれたい、気に入られたい、などという気持ちは少しもない。

 だが、こうも敵意を向けられっぱなしだと……気分が悪い。

 それ故ヴィズルは、元々横柄な自分の口ぶりを改めるつもりがなかった。

 権力に媚びることは嫌いなのだ。

 だから、今後絶対改める事はないだろう。

 ……少なくとも、ジャーヴィスに対しては。


「ヴィズル航海長」

 洗練されたエルシーア語で名前を呼ばれ、ヴィズルは背筋に悪寒を感じた。

 無視しているのかと誤解を招く寸前で、ヴィズルは嫌々ながらジャーヴィスを見た。

 右手をあげて手招きしている。

 こっちにこいということだろう。

 ヴィズルは内心げっそりしながら、グラッドに声をかけた。


「風に注意してくれ。少し席を外す」

「わかりました」


 一言次席航海士に注意を促し、ヴィズルは銀髪をなびかせながら、後部甲板、左舷側の手すりへもたれているジャーヴィスの前に行った。


「……お呼びで?」


 鋭いナイフのような光を宿したジャーヴィスの目が、ぎろっとこちらを睨んだ。

 だがヴィズルは知らんぷりをきめこんだ。

 そんなヴィズルの態度が気に食わないのか、ジャーヴィスの眉間のシワがさらに深くなる。


「ここは商船ではない。任務についたからには、軍規を守ってもらわなくては困る」

 ヴィズルは肩をそびやかした。

 出かかった口笛はなんとか抑え込んだが。


「すみませんねぇ副長。ごらんの通り、当直中はちゃあんと航海服を着ていますが?」


 支給された青い航海長の制服は、上着の袖が長かったので肘の所までまくっていた。

 かといって、自分の好みで制服を仕立てている士官に、服の事で文句はつけられたくないのが本音だったりする。


「違う、その髪だ。肩より長い場合はくくってくれ。風紀が乱れるんでな」

 髪。

 ヴィズルは拍子抜けしていた。

 そんなもの、一ヶ月二ヶ月ちょっと航海に出ただけで、すぐに伸びるものだ。


「……それが海軍の軍規って奴ですかい」

 一抹の反抗心をたたえた目を伏せながら、ヴィズルは言った。

 あまりにもつまらない事なので、口元をひきつらせながら。

 だが、そんなヴィズルの様子に気付く事なく、ジャーヴィスは航海服のポケットから、緑の細紐を取り出していた。


「すぐにくくってくれ。うっとおしい上、衛生面に悪い」

「…………」

 ヴィズルは黙ったまま、ジャーヴィスから紐を受け取った。船の上では艦長の次に、副長である彼に従わなければならない。


『全く……堅苦しい男だ。初めて会った時から、そんな感じだったが』


 内心そう毒づきつつ、こじれると面倒臭くなるので、ヴィズルはさっさと銀糸のようなその髪をひとくくりに結んだ。

「これで満足してもらえましたかね?」

「結構」

 ジャーヴィスはにこりともしない。

「じゃ、戻りますぜ」

 こんなことで呼びつけられたのが腹立たしく、その場からヴィズルは立ち去ろうとした。


「待て。艦長からの指示を言いにきた」

 ジャーヴィスの言葉に、ヴィズルは振り返った。

「まもなく正午だ。船位置を出すための天測を済ませたら、その結果を持って、部屋に来て欲しいそうだ。わかったか?」

「……わかった」


 ジャーヴィスがぎゅっと唇を噛みしめた。

 返事の仕方が気に入らないのだろうが、ヴィズルとしてはかなり譲歩して、ていねいに言ったつもりだった。

 だから軽く会釈までつけてやって、ヴィズルは持ち場である、舵輪の側へさっさと戻ったのだった。

「……何だってあんなのを、艦長は気に入ったんだろうな。一言私に相談してくれればよかったのに」

 後部甲板の階段を降りていくジャーヴィスの、思わず出た本音を小耳にはさみながら。



 ◇◇◇


「くすくす……」

 ロワールはヴィズルとジャーヴィスのやりとりを見物していた。

 船尾左舷側の手すりの上に座って。

 彼女の右手後方には、次席航海士のグラッドが、相変わらず風見とコンパスをにらみあいながら舵輪を回している。


「ジャーヴィス副長に頭痛の種ができたのか……どうなるのかおもしろそう」

 彼女は彼らふたりの今後に興味を覚え、くすくすと再び忍び笑いをした。


「……何がおかしいんだよ」

「えっ!」


 ロワールは飛び上がるほど驚いて、声がした方向へ顔を向けた。

 というか、それは自分の正面にいた。

 舵輪に戻ると思ったヴィズルが立ち止まり、興味深げにロワールを見ているのだ。

 船の手すりの上に腰掛けている自分と同じ目線で。

 そう、ヴィズルは背が高かったから。


「え、あ、その……あなた――まさか!」

 明らかに動揺しているロワールへ、ヴィズルはふふんと意地悪げな微笑を浮かべてつぶやいた。

「へぇー驚いたな。この船には、船の精霊(レイディがいるのか……まだガキだが」

「……なっ!」

 瞬時にロワールは、自身の髪と同じくらい顔を赤くさせた。


「なっ、なによ……いきなり失礼ね! だけど……あなた、私が見えるなんて、まあ、たいしたものかしら?」


 ロワールは内心どぎまぎしながら、じっとヴィズルの深い夜色の瞳を見つめた。

 普通の人間は船の精霊が側にいても気付かない。精霊自身が姿を見せようと思わない限り。

 けれど『術者』と呼ばれる人外の力を使う者達や、時にはシャインのような例外が、精霊達の意志に反してその姿を見ることができるのだ。


「――あなた、“術者”?」


 ロワールは思いきり疑いのまなざしで、ヴィズルをにらんだ。彼からは何だか底を見通せないような、深い闇のような気配を感じたのだ。あの藍色の瞳の奥に。


「術者か。うーん……そうかもしれないな。俺は船を操る“術者”だ」

 ヴィズルは誇らし気に胸を張ると、大きめの口をにっと歪めて偉ぶった。

「……ウソ言うのやめたらどう? 確かに、船乗りとしての腕は認めるけど」

 ロワールは年甲斐もなく、やけに子供っぽい表情を見せるヴィズルに呆れ果てていた。


「は、いっぱしに俺のでまかせを見抜くとは。これはおみそれしましたぜ……レイディ――?」

「ロワールよ」


 ヴィズルは目を細めてにっこりと微笑した。

 先ほど感じた闇の気配が消え失せるほどの、感じの良い気さくな笑みだった。

 つられてロワールは、思わず自分も笑みを返した。

 最もそれは、愛想笑いというやつであったが。


「なあ、ロワール。どうしてさっきは笑ったんだ?」

 途端ロワールは、有無を言わずばしっ! とヴィズルの左頬を平手打ちにしていた。

 乾いた樽のふたを殴ったような、景気のいい音があたりに響く。

「でええ――っ!!」

 ヴィズルは両手で頬を押さえ、眉を寄せながら身を前にかがめた。


「私の名前を呼び捨てにしていいのは、シャインとホープさんだけよ! 航海士さん。名前を言う時は、“レイディ・ロワール”と言ってちょうだい!」


 両手を腰に当てて、ロワールはその場から立ち上がり宙に浮いていた。

 馴れ馴れしいヴィズルの態度に憤慨したせいか、ゆるいウエーブのかかった紅毛が、触手のようにくねっている。


「なんか……ジャーヴィスと同じような……シチュエーションだな。しかし、なんつー、気の強いガキだ」

「うう……ガキって、ホントあなたって失礼ねー! 私は船の精霊よ? もっとそれなりの態度で接して欲しいわ。ジャーヴィス副長が、あなたを嫌うのは当然ね。まったく!!」


 ヴィズルがただの人間なら、絶対姿を見せてやらないタイプだ。

 ロワールは自分の一番気にしている事を、はっきりとヴィズルに言われて、怒りよりも悔しさで一杯になっていた。

 それはきっとウィズルもまた、シャインと同じような『例外』であることに気付いてしまったからかもしれない。この手の人間から姿を隠すには、ちょっと骨が折れるのだ。

それこそ物陰に身を潜ませなければならないから……。


「悪かったよ……レイディ・ロワール。だが、ジャーヴィスのカタを持つっていうのは……いただけないがな」

 ヴィズルが表情こそ申し訳なさそうにして頭をかいた。

「それはあなたが失礼だからよ。ガキって……気にしてるんだから……もう!!」

 いたたまれなくなったロワールは、その場から逃げるように姿を消した。


 ◇◇◇

 

「あっ……おい!」

 ヴィズルはロワールがいた空間へ手を伸ばしたが遅すぎた。

 言い過ぎたかもしれない……。

 ロワールを傷つけてしまったことへ罪悪感をいくばくか抱きながら、ヴィズルはその場に立ちつくしていた。

「シャインの奴……艦長っていう肩書きは飾りじゃなさそうだが……船の精霊がいる話はまだ聞いてなかったぜ。あっ!」

 ヴィズルは耳に響いた鐘の音に息を飲んだ。

 ヴィズルがいる後部甲板の階段を降りた所には、時を30分ごとに打ち鳴らす船鐘が設置されている。向かい合う波を象った鐘楼には、士官候補生のクラウスが立っていた。

 目立った筋肉がないその細い手は、船鐘からのびた白いロープを握りしめている。


 カンカン!

 カンカン!

 カンカン!

 カンカン!


 一度に二回鳴らすのを四回繰り返した。

 八点鐘。

 それが意味するのは、正午だということだ。


「しまった……天測が……」


 ヴィズルは頭を抱えた。航海士として、とても痛いミスをしてしまった。

 着任早々。

 ヴィズルは肩をがっくりと落として、恨めし気に青い、青い、空を見上げた。

 皮肉にもそれは、ジャーヴィスの瞳と同じような色だった。



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