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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
83/332

【幕間2】 船霊祭(完)

「シャイン~あと、どれくらいー?」

「この階段を昇ったらすぐだよ」

「すぐって、さっきもそう言ったわよー?」


 ロワールは喘ぎながら、古めかしい石造りの螺旋階段を昇っていた。石壁は黒い大理石のようにすべすべとしているが、年代的に古いものなのだろう。時折その表面が剥がれ落ちているのが、壁にかかった薄暗いろうそくの光の中に見える。

 海軍本部三階の閲覧室から出たシャインは、その廊下をまっすぐに歩き、厳めしい一つの扉の前で立ち止まった。その扉を開けると、そこには果てしなく上へと続く螺旋階段が、ロワールの目に飛び込んできたのだった。

 実際階段を昇っていた時間は十分ぐらいだったが、ロワールには永遠のそれが流れたように感じられた。


「さあ、着いた」

 シャイン自身も軽く息をつき、身を屈めて、ロワールの背丈よりひと回り小さめの扉を外へ押しやった。

「足元に気をつけて」

「うん」

 シャインが先に外に出て、ロワールに向かって手を伸ばす。

 それにつかまりながらロワールもまた扉をくぐった。


「わぁ……すごい」


 夜気の冷たい風が頬を撫でる感覚とともに、ロワールの目の前には青い闇に覆われた世界が広がっていた。

 その青い闇の上空に、白銀の光を放つ二つの月が、重なったまま昇っているのが見える。そしてその遥か下の方に、白や黄色やほのかに揺らめく炎の色をした、小さな明かりが無数に星のようにちかちかと灯っている。


「ここは海軍本部の端にある、物見の塔なんだ。昔はここに歩哨が立って、陸から港を見張ってたんだよ」


 どうやら今立っている場所は、塔の外に設けられたバルコニーらしい。

 ロワールは思わず前方の手すりの方まで歩いて行った。

 冷たい黒い石のそれに手を乗せて、そこから下を覗き込む。

「……」

 ロワールハイネス号のメインマストのてっぺんから下を見た時より、遥かに地上が小さく見える。庭園の木々が小さな親指ぐらいの塊にしか見えない。


「すごい。海軍本部に黒い三角屋根の高い塔があるのは知ってたけど、ここがそうなのね」

「うん。アスラトルへ帰ってくる船はみんな、この塔を目印にしているんだ。街で一番高い建物だからね」

 シャインがロワールの隣に並んだ。

「ねえシャイン。ほら、あそこ。明かりが二つに分かれてる」

 ロワールの指差す方向を見て、シャインが満足げにうなずいた。


「アスラトルの街はエルドロイン河を挟んで、二つに分かれてるんだよ。手前の……この塔があるところだけれど、白っぽい光が川沿いに小さく灯っているのが、軍の施設や商店が集まっている「東区」だよ。黒くて長い筋がエルドロイン河。そして、その向こうに暖かい黄色っぽい光が、斜面に沿って沢山見えるだろう?」

「うん」

「そこが領民の住む居住区の「西区」だ。俺の実家もこの丘陵を越えた裏の岬にある。今夜は船霊祭だから、今は無き船達の魂を鎮めるために、家の軒下に月をかたどったランプを吊し、火を灯す習わしなんだ」

「船の……魂」

 ロワールはそうつぶやいて、思わず手すりから手を離した。


「ついでに言うと、海神・青の女王の御手に委ねられた、海で死んだ者達が故郷に帰ってくる日も今日なんだ。彼等はこの明かりに導かれて、海で沈んだ船に乗って帰ってくる」


 ロワールはぶるっと体を震わせた。

 街の明かりはとても幻想的な光を放っているが、黒々とした海には青白い小さなそれが、波間を漂うようにいくつも灯っているのが見えたからだ。

 そしてそれは時が過ぎるごとに数を増していくようだった。


「シャイン、あなた、それが見えるの?」

 思わずそう尋ねると、シャインは低く笑って否定した。


「それって、海に沈んだ船のことかい? まさか。それは古くから、このアスラトルの街に伝わる言い伝えだよ。でも、君は陸側から海や街を見た事がないだろう? 船霊祭の夜の月はとても綺麗だから、この夜景を君に見せたかったんだ」


 ロワールはにっこりと微笑した。


「うん。とっても綺麗だわ。月に手が届きそうなほど近くに見えるし、ここからアスラトルの街と海がぐるりと全部見渡せるなんて、とっても素敵だわ」

「本当は君に街を案内したかったけれど……どうやらもう時間切れらしいな」


 そう言ったシャインの背後に、天頂まで昇りつめた銀と金の月が、ひときわ力強く輝くのが見えた。まるで今宵の逢瀬を惜しむように、それとも来年再びめぐり会うことを約束するような、そんな優しい月の光がアスラトルの街へ雪のように降り注いでいく。


「それは、来年の楽しみにとっておきましょう。シャイン」

 強くなった月の光の中で、シャインが渋々といった表情で、苦笑しながらロワールを見つめている。


「そういうことにしておこうか。ロワール」

 シャインがロワールの肩に手を伸ばし、自分の方へ引き寄せた。

 その手に込められた力があまりにも強かったので、ロワールは思わずシャインの顔を見上げた。


「もう少しだけこのままでいさせてくれ。二つの月が離れてしまうまで――」


 シャインが思っている事と、ロワールが思っている事はおそらく一緒だ。

 これが今生の別れというわけではないと。それはわかっているが。

 けれどシャインの願いとは裏腹に、銀と金の月は再びそれぞれの軌道へと戻っていこうとしている。

 ここで一緒に過ごせる時間はほとんど残ってはいない。

 ロワールは満足げな微笑を、そのちょっと幼さが残る顔に浮かべてうなずいた。


「シャイン、今夜は色々あったけど楽しかったわ」

「そうかい?」


 シャインの口調は重かった。本当にロワールがそう思っているのか訝しんでいる様子だ。

 ロワールはそんなシャインの頬に手を伸ばした。手の甲にかかる彼の髪が月の光に透けて眩しい。それに目を思わず細める。


「私ね、シャインとこうして、二人っきりで話をしたかったの」

「話なら、いくらでもしようじゃないか。夜はまだ半分残ってる」

 ロワールはふふっと微笑を漏らした。


「ロワールハイネス号で待ってるわ。ホープさんが船体のペンキを綺麗に塗り直してくれたの。このドレスみたいな色で」

 そういうとシャインが肩をすくめてため息をついた。


「……まだ根にもってるのかい?」

「そりゃそうよ。私がどんな思いで、ここまでやって来たか、ちゃんと最初から話してあげ……!」


 ロワールは感じていた。今まで意識していたかりそめの体から、感覚が急速に失われていく事に。

 肩を掴むシャインの手も、そこから感じる彼の温もりも、水のように流れて消えていく。

 船に宿る『魂』が、陸を歩ける魔法の時間はこれでおしまい。


「今夜はロワールハイネス号に戻る。だから、俺が来るのを待っててくれ」


 眩しい銀と金の光の中で、シャインの声だけが響いていた。




   ◇◇◇




 船霊祭の夜が明け、アスラトルの軍港一体は白い朝靄に包まれていた。

「おはよう、ロワール。昨夜は楽しかった?」

 ロワールは右舷の黒いスクーナー船の甲板に姿を見せた、黒髪の女性に視線を向けた。クレセントだ。

「おかげさまで、楽しかったわ。あなたには……少しだけ感謝してる」

 ロワールは軽くため息をついて、クレセントに近付くべく船縁へ寄った。

 クレセントは自分自身である船の手すりに両手を預け、ややつり目ぎみのそれをさらに細めてロワールを見つめている。


「少しだけーー? にやにやと気持ち悪い薄笑いを浮かべてるくせに。何してたのよ。グラヴェール艦長に会ったんでしょ? 教えなさいよ」

 ロワールは三リール先にいるクレセントに向かって身を乗り出した後、満面の笑みを浮かべて舌を出した。


「……!! ロ、ロワールっ!?」

 クレセントが素頓狂な声を上げる。

「ナイショ。ぜーったいに教えない。じゃ、私は今日アスラトルを出港する予定だから、ハーフムーンによろしくとありがとうを言っといてくれる? お姉様ったらまだ寝てるみたいなの」

「……仕方ないわね」

 両手を組みながら、クレセントはうっすらと微笑していた。


「ロワール、どこへ航海するか知らないけれど、気をつけてね」

「ありがと。クレセント。でも心配は無用よ」

 ああそうか、とクレセントの目がうなずいた。だがロワールはそれを見ていなかった。東の海と空に気をとられていたからだ。


「今日はいい航海日和になりそうねー。朝日が昇ってきたから、霧が大分晴れてきたわ」

 青白いもやのような霧が瞬く間に失せてゆき、辺り一面オレンジ色の光に染まっていく。

 シャインはどんな海に自分を連れていってくれるのだろう。

 あと数時間たてば、ロワールハイネス号の甲板は出港準備で大忙しだ。


「うふふー。皆がやってくる前に、もう一度シャインの寝顔を見てこようっと」

 ロワールはくすりと小さく笑うと、軽やかな足取りで艦長室へと向かっていった。





【第3話・幕間2】「船霊祭」  ―完―


                 ・・・第3話本編へ続く


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