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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
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【幕間2】 船霊祭 -陸に上がった人魚-

 息苦しい。

 誰かが背中に覆い被さって、ロワールの首を締め付けているような。

 とても嫌な重苦しさに、今にも潰されてしまいそう――。


『私は、あなた達の邪魔をしようとしたんじゃない――私は』


 鐘のように鳴り響く財閥令嬢の声を聞いた時、ロワールはそれに耐えられず、踵を返し、出口めがけて走り出そうとした。


『待ってくれ、ロワール!』


 その肩をつかむように、そして自らの胸に引き寄せるように、追いかけてきたシャインの心の声がロワールを呼び止める。

 同時に背中に重くのしかかっていた――スディアス財閥令嬢の、嫉妬に満ちた暗い想いが煙のようにふっとかき消えた。いや、彼女の想いは確かにロワールを押し潰さんばかりに放たれているのだが、シャインの声を聞いた途端、いつもの間にか彼の腕の中で、その暖かさに包まれているような気がしたのだ。


『ここにいてくれ。君の所へすぐに行くから――』


 心に響くその声は力強くて明瞭だった。まるですぐ隣に彼が立っているみたいに――。

 これほどまで間近で聞こえるシャインの声に逆らい、大広間を立ち去ることなどどうしてできよう。

 できるはずがない。


 ロワールは出入口の扉の前で立ち止まり、両手で己の肩を抱くと大きく息をついた。

 シャインの声で思わず足を止めたが、振り返る勇気はない。

 振り返ればあの財閥令嬢の、心を凍り付かせるような恐ろしい視線が、身を切り裂くような鋭い声が、まだ背後から放たれているような気がしてならない。それがとてつもなく恐ろしい。


「黙っていらっしゃいますけど……お認めにならないのですか?」


 スディアス財閥令嬢が、とげとげしい口調でシャインに詰め寄るのがわかる。ロワールは肩を抱く手に力を込めた。様子を目にすることはできないが、気配でわかる。シャインのことを意識すればするほど、ロワールは自分の感覚が研ぎすまされ、数リール離れているというのに、彼等の会話が聞き取れるのを感じた。


「いえ、あなたのおっしゃる通りです。俺は彼女に気を取られました」


 答えたシャインの声はとても落ちついている。

 どんな非難も受けようと腹をくくったのだろうか。


「ですが、そこにどんな理由があったとしても、あなたとのダンスを中断した俺の非礼は、許されるものではありません。それは重々承知しています。ですから、俺にはもう――あなたの相手を務める資格がありません」


 はっと財閥令嬢が息を飲む小さな声が聞こえた。

 公衆の面前で、ダンス中に転んでしまった失態を披露したことに、ただならぬ怒りで一杯だった彼女の感情が、燃え尽きるろうそくのように、みるみる消沈していくのがわかる。


「シャイン様。私は、そんなつもりでは……!」

 すがるような財閥令嬢の細い声。

「いいえ」

 シャインの淡々としたそれが、彼女の思いを突き放すように答える。


「俺はそれだけのことをしてしまったのですから。本当に申し訳ありませんでした。それでは、これ以上あなたにご迷惑をかけないよう、今宵はこれにて失礼いたします」

「あっ、あの……!」


 一礼してから、戸惑うスディアス財閥令嬢の声を振り払うように、シャインが出入口の扉へと向かう気配がする。


『ロワール、外に出て。すぐに行くから』


 背中を押すように、同時にシャインが呼びかけてきた。


『う、うん』


 ロワールは一瞬びくりと体を震わせて、そして肩から両手を振りほどくと目の前の出入口から廊下へと出た。あたふたとよろめきながら。

 緊張のせいか上手く両足が動かない。

 ぎしぎしと関節の音がしそうなくらい足の筋肉が引きつって、がくがくと膝が震えている。


「どうして、私がこんな目に……」


 急に腹立たしさを覚えつつ、一息つこうと思って、ロワールは廊下の左端に寄り、壁に支えを求めるように手をのばした。


「きゃあっ!」


 たわむドレスの裾と上手く動かない足のせいで、ロワールは体が前に倒れるのを感じた。前に右足を出したつもりだが、出ていなかったらしい。左足がひきつって、右足と絡まったようだ。

 青い絨毯の床がみるみる眼前まで迫り、ロワールは両手を突き出して、なんとか顔面からぶつかるのだけは避けようと、それだけを思った。

 ただでさえ子供っぽいだのガキだの言われるのだ。床に顔をぶつけてこれ以上ひどい有り様になったら、いくらシャインでも大笑いするに違いない。


「……あれ……?」


 だが何時まで待っても床にぶつかる痛みは感じない。

 ロワールは我に返って両目をさらに見開いた。


「今日は俺に関わると、みんな転んでしまう日なのかな?」


 その代わりため息をつきながら、冗談とも本気とも言えない声がささやいた。

 すぐそばで。


「そうよ、みーんなシャインのせいよ!」


 ロワールは身をよじった。シャインが彼女の腰に腕を回し体を支えてくれている。それに安堵を覚えつつも、ロワールは自分の顔を覗き込んでいるシャインをにらみつけた。

 シャインの首筋に手を伸ばし、細身だがひきしまった体躯を感じられる彼の胸元へ額を寄せる。


「シャイン、私……私……」

「驚いた。やっぱり本当にロワールなんだ」

「――なんですって?」


 シャインの言い方にむっとして、ロワールは顔を上げた。 

 ランプの光でほのかに輝く金色の前髪が揺れて、その間から青緑色をした鋭い双眸と、薄く結ばれた唇が笑みを形作った。


「立って。ここではちゃんと話ができない」

「あっ、シャイン」


 ロワールはシャインに支えられて何とか両足を踏みしめた。すると今度はシャインの左腕が伸びてきた。


「君の腕を俺の腕にかけるんだ。これで君を支えられる」

「う、うん」

 ロワールはシャインに言われた通り、彼の左腕に自分の右腕を回して顔を上げた。シャインはゆっくりとうなずき、

「じゃ、歩くよ。この先に落ち着ける部屋があるんだ。そこで事情をきかせてもらおうじゃないか」

「あ、ちょっと! シャインったら」


 シャインが濃紺の絨毯がひかれた廊下を歩き出す。ロワールはその腕にすがりながら自分の足を動かした。始めはやはりぎすぎすして上手く歩けなかったが、今は自分一人ではなく、隣にシャインがいて支えてくれることを意識した途端、胸の中一杯に安堵感が広がり、気持ちにゆとりを感じることができた。


「上手いぞ。もう一人で歩けるんじゃないか?」


 大広間へと続く廊下を歩き、下のエントランスホールへ降りる階段の近くまで来てシャインがそう言った。


「いや、やめて。手を離さないで。まだダメよ」


 ロワールはひしとシャインの腕にすがった。

 シャインはやれやれと肩をすくめ、ロワールを伴ったまま階段へと近付く。


「船から出てきた君は、陸に上がった人魚みたいだ」

 ため息混じりに出てきたシャインの言葉に、ロワールは眉をしかめた。

「人魚――? 何、それ」

 シャインは戸惑ったように、視線を虚空へさまよわせた。


「上半身は女性の体で、下半身は巨大な魚の尾を持つ種族さ。今もどこかの海にいるらしいけど」

「シャイン。私はお魚じゃないわよ。言っとくけど」


 ロワールは大真面目でシャインの顔を見上げた。だが彼は困ったように、ロワールの視線を受け止めて小さく笑っただけだった。


「それで、どこに行くの?」

「この階段を上がったらすぐさ」

 


 ◇◇◇



 ロワールは相変わらずシャインの左腕に自らの右腕を絡めたまま、大広間がある二階とはうってかわり、落ち着いた雰囲気の三階の廊下を歩いていた。

 等間隔に廊下の右側には窓があり、左側には同じような造りの木の扉がいくつも並んでいる。

 シャインはその中の一つの扉に立ち止まり、まるで自分の部屋のようにそれを開けた。


「入って」

「うん」


 ロワールはそこでシャインの腕から自らのそれを外し、おずおずと部屋の中へ入った。部屋はこじんまりとした書斎のような感じだった。

 深い緋色のカーテンが引かれた窓の前に、アンティーク調の凝った机と肘掛け椅子があり、背の高い本棚がそれらを囲むように、壁際に沿って置かれている。


「この部屋は何なの?」

 ぐるりと中を見渡し、ロワールは振り返った。

「閲覧室の一つさ。海軍本部の資料を見るためのね。ちょっと海図を探していたんだ」

 扉を閉めたシャインは本棚へと近付き、そこにおいてあった椅子を机の側まで運んだ。


「座って」

「うん」


 椅子に腰を下ろして、ロワールはふうと息を吐いた。

 やっと落ち着いた気がする。


「疲れたのかい? 無理もないと思うけど」


 机に寄り掛かり、シャインがロワールを見つめている。けれどその顔はいまいち精彩に欠けていた。

 ロワールは肩に流している鮮やかな紅髪を手で払いのけ、ゆっくりと首を横に振ってみせた。


「ううん。大丈夫よ。それよりシャイン――さっきはごめんね?」

「えっ?」

「ほら、ダンスの邪魔をしちゃったこと」

「……そのことか」


 シャインは普段そうしているように、気にしていない風を装って微笑した。


「あれは俺が悪かったんだ。君のせいじゃない。でも、本当に驚いた。君が――あそこに立っている姿を目にした時は……そうだよ!」


 シャインはやおら身をかがめてロワールの顔を覗き込んだ。


「何で君がここにいるんだい? 船の精霊は自分の船から外へ動けないはずだ。一体どうして――?」


 ロワールは頬の筋肉がひきつるのを覚えながら、にんまりと笑ってみせた。


「今夜限りの『魔法』ってやつなの。いろいろ大変だったんだけどね」


 そこでロワールはシャインに語った。

 銀の月ソリンと金の月ドゥリンが一つに重なる『船霊祭』の夜には、大気に大いなる力が満ちて、それを内に取り込む事により、船の精霊は外を歩くための姿を手に入れられるのだと。


「修理ドックに、クレセント号とハーフムーン号っていう海軍の船がいるんだけど、彼女達は毎年その方法で『船霊祭』を楽しんでいるそうなの。それで私も……シャインに会いたかったから、その方法を教えてもらったの」


 シャインは黙ったままロワールの話を聞いていた。しかし腑に落ちないのか、何度か首をひねったり瞬きを繰り返したりしている。


「初耳だ。陸を歩くレイディなんて、きいた事がない」


 真顔でそう言うシャインを見て、ロワールはくすりと笑った。


「現に目の前にいるでしょ? まったく。だけどシャインでも知らない事があるんだー。船の精霊とは結構長いつきあいみたいだけど?」

「当然だ。でも――」


 シャインの右手が伸びて、それが静かにロワ-ルの頬に触れた。ゆるやかに波打つ紅の髪の房をすっと払う。確かめるように、何度も。


「今夜の君は、船でいつも会う君とは違う。同じように姿ははっきりと見えるけど、今は君に確かに『触れて』いると感じられる。髪の毛一本の質感や重み――滑らかな頬に柔らかな唇の温もりがわかる」

「そりゃそうよ。今の私は船にいる時のように、『魂』の存在じゃないんだから。かりそめとはいえ、外に出歩くための『体』を持っているんだから……」


 そう口にして、ロワールは胸に冷たい風が吹き込んでくるような、寂しさと物悲しさを意識した。

 自分は人ではない。どんなに望んでも、人になることはできない。


「ねえ、シャイン」

 ロワールはシャインの手を取り、頬からそれを離した。シャインがいぶかしむように目を細める。


「何だい?」

「あのね。シャインに聞きたい事があるの」


 ロワールは船の魂であることを、今は忘れる事にした。せっかく人の姿を手に入れて、ロワールハイネス号以外の場所を歩くということができるのだから、それを楽しまなければ意味がないというもの。

 しかも今はシャインと二人っきりなのだ。

 まさかこんなところまで、間の悪いジャーヴィスが邪魔しに来る事もないだろう。


「私の事、どう思う?」


 ロワールは椅子から立ち上がって、くるりとその場で回ってみせた。先程見た、多くの人間達が大広間で踊っていた時のように。

 揺れる炎のように鮮やかな紅髪を舞わせ、レースをあしらった深い青緑色のドレスの裾を片手でつまみ、足を後ろに一歩引いてシャインの顔を見上げる。


「ああ。……そのドレス、よく似合ってる」

「本当にそう思う?」


 ロワールはうれしさのあまり、頬が熱くなるのを感じた。このドレスを選ぶまでどれほどの労力と手間がかかっただろう。

 シャインは満足そうに微笑していた。


「うん。ロワールハイネス号の船体のペンキと同じ色だ」

「――ペンキ?」

「そう。エルシーア海より青味が強い色だけど。それが?」


 シャインの言葉にロワールは体を強ばらせていた。

 だがシャインは不思議そうにロワールを見つめている。


「どうかしたのかい? ロワール。口開けたまま、呆然としちゃって――」

「もうっ! そうじゃなくて!!」

 ロワールは思わず両手に拳を握りしめて叫んでいた。


「シャイン! もっと言い方っていうものがあるでしょ?」

「……言い方?」

「そ、そうよ」


 シャインは額に手をやり、眉間を寄せて考え込んでいる。鈍感なのかわざとなのか。

 ロワールはそれに体がむずむずするほどのもどかしさを覚えながら、何故自分がこんな恥ずかしい事を言わなければならないのか、それを疑問に思いつつも口にした。


「ほら、『今日はいつもと違うね』とか、『素敵だね』……とか……ねっ」


 語尾がもごもごしてしまったせいだろうか。シャインの顔色は冴えない。


「うーん。君がいつもと違うことは、さっき言ったような気がするけど。そのドレスだって俺の好きな色だし、君によく似合っていると思うよ。それ以上……何を言えばいいのか……」


 ロワールは拳を握りしめたまま、疲れたように大きくため息を一つついて再び椅子に座り込んだ。ふくらむドレスの裾をばさばさとさばく。


「はーっ。シャインって、実は女心がまったくわかってないのね。だから、あの銀髪の婚約者さんも泣かせちゃったんでしょ?」

「……えっ?」


 ロワールは半分やけになっていた。

 シャインに今の自分の姿をみせたくてやってきたというのに。だが彼にとっては、そんなことどうでもいい事なのだろう。


「私も泣きたいわ。もう船に帰ろうかしら」

「……」


 沈黙。

 ロワールは顔を上げた。シャインが何も言わない事に腹を立てつつ。

 だがその感情はすぐさま消えてしまった。

 シャインはロワールに背を向けて、机の端に両手をついてうつむいていた。頬にかかる長い前髪を払おうとせず、同じ色をした睫を伏せて、薄い唇を軽く結んでいる。

 どうかしたのかと話しかけようとしたとき、ゆっくりとシャインが目を開けた。机の一点をひたと見つめたまま口を開く。


「――彼女に会ったのか?」


 ささやくように、けれど押し殺すように吐き出されたその声が、今までのとぼけた彼の雰囲気をかき消した。

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