【幕間2】 船霊祭 -孤独な王女-
街や港を案内した時、ミュリン王女は実に楽しそうにそれらに見入り、シャインに「あれは何のためのものか?」とか「あれは何をしている所か?」と、質問攻めにした。
肩を超すほどのセピアの髪をゆるゆると巻き髪にし、深い湖のように碧い瞳を持つ王女は御年十才。瞳をきらきらと輝かせて、アスラトルの街を見つめる態度や言動は子供のそれであるが、だからといって子供扱いするほど幼くもない年である。
シャインはそんな彼女の問いに耳を傾け、自分の答えられる範囲で、かつ、理解しやすい言葉を選んで説明した。そんなところが気に入られた理由だと思うが、海軍本部で行われた晩餐会が終わり、王女の案内役としての務めもこれで済んだと思った時、事件は起きた。
ミュリン王女はアリスティド公爵邸で一泊して、翌日、王室専用艦でエルドロイン河を遡り、王都ミレンディルアへ帰る事になっていた。
海軍本部の正門の前には、四頭立てのアリスティド公爵家の馬車が王女を迎えにすでに待機しており、主催であるアドビス・グラヴェールを含め、何名かの海軍関係者も見送りに門まで出ていた。
シャインは――王女と一緒だった。彼女が何故か腕をつかんだまま離してくれないので、そのまま一緒に迎えの馬車まで、つきそったのである。
だが、いざ馬車の前まで来た時、王女ミュリンはシャインに言った。
『私……シャインとこのまま別れるのは嫌。いつも私の側にいて欲しいの』
シャインは狼狽しつつ、なんとか平静を保って王女を諭した。
そんなことができるはずがない。今、彼女に腕を掴まれている姿をアドビスに見られている事だけでも、シャインとしてはかなり焦っているのだから。
シャインはゆっくりと首を振って、共に行けない事を王女に告げ、腕を離してくれるように頼んだ。すると王女の表情が見る間に険しくなり、彼女は一層強くシャインの腕にしがみついた。
『私は離れたくないの! 一緒じゃなければ私――帰らない!』
それから小一時間、王女は馬車の前でだだをこね続けたのだった。
海軍の将官達は眉をひそめるし、王女の護衛の近衛兵も互いの顔を見合わせてため息をつく始末。
外のさわぎをききつけて、海軍本部の窓からこの光景を眺める者達もいた。
とにかく、王女を馬車に乗せなければならない。
シャインは王女を必死になだめた。
だが王女は『離れたくない』と繰り返すばかりで、挙げ句の果てに『海軍なんかやめて、王宮に仕官しなさい』と言い出した。
『いい加減になされませ! エルシーア王女たるものが、往来でこのような騒ぎを起こして恥ずかしくないのですか!』
シャインと共に、王女をなだめていた年かさの侍従長が、ついに王女に向かって怒鳴りつけたが、それはまったくの逆効果だった。
王女はシャインの腕を両手で握りしめたまま離そうとしない。
『王女だからって何よ。私にはシャインさえいればいい。他には何もいらない!』
流石にこれにはシャインも絶句した。しかしシャインは、王女に強い態度で、腕を離すよう言う事がどうしてもできなかった。
彼女が王女だからということもあるが、この執着ぶりは普通ではない。なにか理由があるのではないかと訝しんだ。
その時だ。アリスティド公爵令嬢――ディアナが来たのは。
ディアナは王女の休む部屋がちゃんと整えられているか、確認しにひとまず先に屋敷に戻っていた。けれど、王女が中々馬車に乗らないという連絡を受けて、再び海軍本部へやってきたのだった。
ディアナは自分の乗ってきた馬車から降りて、シャインの腕を掴んで離さない、ミュリン王女のそばに歩み寄り、その視線に合わせるために地に膝をついた。
『殿下、このグラヴェール中尉は、船霊祭のご案内をするのが役目でした。殿下に船霊祭を楽しんでいただけるよう、今朝は早くから起きて準備しておりました。ですから、彼も今宵は疲れております。殿下もお疲れでしょう。さあ、私と一緒に屋敷へ戻りましょう』
『……シャインと一緒でないと嫌です』
『殿下』
王女はシャインの腕を引っ張った。その力の強さから察しても、彼女が本気だというのは容易にわかる。
『そばにいて欲しいの。海軍なんか辞めさせて、シャインは私と一緒に王都へ行くの。だから、一緒ならあなたの屋敷に行くわ。ディアナ』
ディアナはゆっくりとかぶりを振った。じっと王女を見据えたまま。
『……そういう理由なら、私は同意できません』
臣下として一歩下がった態度をとっていたディアナが、王女が目を見張るほど、その温和な表情を一変させていた。穏やかなすみれ色の瞳さえも、今は王女への敵意を感じられるほど、険しいものになっている。
『わ、私はこのエルシーアの王女なのよ? ディアナ? ――あなたまで、ど、どうしてそんなことを――!』
王女はディアナの豹変ぶりによほど驚いたのか、声も肩も震えていた。
だがディアナは物おじしない態度のまま、王女の目を見据えて口を開いた。
それは明瞭で迷いがなかった。
『彼は、私の婚約者だからです』
『……!!』
驚きに目を丸くしたミュリン王女に、ディアナは再びその言葉の意味を強調させるように繰り返した。
『私とグラヴェール中尉は結婚の約束を交しております。ですから……私も殿下と同じように、彼と離れたくないのです』
『……』
王女は口を半開きに軽く空けたまま、信じられないといわんばかりにディアナと、そしてシャインをみつめていた。
『――それは、本当なの?』
腕にすがりつく王女の顔は蒼白で、ちょっとしたはずみでその場にくず折れてしまうのではないかと思うほど、弱々しく見えた。
シャインはディアナが言った予想外の言葉に、手が震えそうになるほど驚愕していたが、すぐに彼女が事態を収拾するために言ったのだと悟った。
そう考えると頭の中は意外なほど早く冷めていった。
『ええ……本当です』
シャインは王女の視線を受け止めて、淡々と、けれどはっきりそう答えた。
そう答えなければならなかった。
すると、あれほど強くシャインの腕を握りしめていた王女の手から、ゆっくりと力が抜けていった。
王女はその薄桃色の唇を震わせて、小さく首を振りながら、その場にかがみこんでいるディアナの前まで歩いた。
『……私、知らなかったから。だから、ディアナ……』
『――王女殿下』
『……』
ミュリン王女は何か言いたげにディアナを見つめていたが、やがて顔をあげて、しっかりとした足取りで迎えの馬車に自ら乗り込んだ。
それが合図だといわんばかりに、侍従長が近衛兵を呼びつけ、早く馬車を出すよう命じる声が辺りに響いた。
◇◇◇
「まさか、ディアナ様が公衆の面前で、あんなことを仰るとは思ってもみませんでした」
シャインは額に浮いた汗を、礼装の内ポケットから取り出したハンカチでそっとぬぐった。
シャインのそんな様子を見て、ディアナが口元をほころばせて密やかに笑う。
「ごめんなさい。だから余計に気になったのです。私が、あなたの邪魔をしてしまったのではないか……と」
ディアナは微笑するのを止めた。そしてシャインの心境を探るようにすみれ色の瞳を細めると、今度は思いつめた表情を浮かべながら口を開いた。
「王宮に仕官が叶えば、グラヴェール家も……かつて失った王の信頼と、世襲できる貴族の身分を取り戻す事ができます。けれど、私の軽率な言葉で、折角の機会を壊してしまいました」
ため息と共に言葉を吐き出し、ディアナは自らの行為を悔いているように頭を振るとそっとうなだれた。
なだらかな曲線を描く露な白い肩がゆっくりと持ち上がり、下がる。
「ですから、それだけを謝りたくて、今日という日を待ちました。あなたは船に乗っているから、こうして会う事がなかなか出来ませんし……」
「ディアナ様」
シャインは静かに首を振った。
「王宮への仕官など、俺は望んでいません。ましてや、それを出世の足掛かりにすることなど……。その気持ちがあったら、俺は貴女の言葉を否定して、王女殿下と共に馬車に乗っていました」
ディアナがそっと肩を震わせて、膝の上で組んだ両手にぐっと力を入れるのが見えた。月の光に照らされて青白い横顔は、まだ少し思いつめているような硬い表情が浮かんでいる。
シャインはその横顔を見つめながら、拗ねた時のロワールをなだめるように、ディアナが身構えないように優しい口調で話しかけた。
「俺の気持ちをお疑いなんですね? ディアナ様」
ディアナがおずおずとこちらへ顔を向ける。そんなつもりではないと、すみれ色の瞳が瞬いた。
「……いいえ」
一呼吸置いて、ディアナは銀糸のような髪を揺らしてうなずいた。ほっとしたように、手の緊張を和らげ息をつく。けれどディアナは、シャインと視線を交したかと思うと再び顔を伏せた。
「どうかなさいましたか?」
シャインはそんなディアナの態度に一瞬焦って声をかける。
「いえ! あ、その……」
ディアナの頬はほのかに上気して赤くなっているような気がした。
「な、なんでもありません。でもミュリン王女殿下が、あれほどまであなたの同行を望んだのには、理由があったのです」
「……やはりそうでしたか」
シャインは王女を馬車に乗せるためとはいえ、彼女の気持ちを傷つけた事に後ろめたさを感じていた。
ディアナとの婚約は事実無根の虚偽であるのに、それを真実だと偽ってしまったからだ。
しかし王女が王都に戻ってから、なんの音沙汰がないのも気になっていた。
往来であのような騒ぎを起こすことになった原因は、少なからずシャインにもある。王女の名誉を傷つけたとして、なんらかの処分を受けるだろうと思っていたからだ。
「シャイン様。ミュリン王女は……寂しがっておいででした」
「えっ」
ディアナは顔を上げ、今はそれを青白い月の光の下にさらしていた。
「屋敷へ戻ってから王女殿下はただ一人、用意した部屋にこもりきりでした。けれど、深夜を過ぎた頃、私は王女殿下に呼ばれて部屋に行きました。そして、ひとしきり話をいたしました」
「ひょっとして、例の『婚約』の事を――?」
シャインの言葉にディアナはゆっくりとうなずいた。その動きに合わせて、一つにまとめられた長い三つ編みが、月の光に照らされて銀色に輝く。
「――結論から言えば、王女殿下に本当の事をお話しましたわ。とにかく、そのことは後でお話するとして……王女殿下は私に話して下さいました。港を案内してくれたあなたが、どんなに優しく接してくれたかを――。王女殿下は、広い王宮でいつもお一人で過ごしていたそうです。父君のコードレック王は王女殿下を大切に思っているからこそ、お付きの者や教育係など一切をご自分でお選びになり、その方達以外の者と王女殿下が接することを、特に禁じておられました」
シャインは眉をひそめた。これだけでも十分、王宮という場所に息苦しさを感じる。それはディアナも同感なのか、シャインの表情を見て寂し気に微笑した。
「王女殿下は自らを『籠の鳥』だとおっしゃってました。いつも変わらぬ者達の顔を見て過ごし、王宮の窓の外の光景をただ眺める日々に飽いておいででした。そしてついにご病気になって――」
『あれは何? みんな、何を手に持っているの?』
『あれは船ね。こんなのが水の上を走るなんて信じられなかったわ』
『……これが海なのね。すごく広くて大きいわ。あなたの瞳と同じ色……』
「シャイン様?」
シャインはふと我に返った。ディアナがシャインの左腕に軽く手をかけてそれを揺さぶっている。
「……失礼いたしました。ちょっと王女殿下のことを思い出していました。ええと、王女殿下が、ご病気に?」
「ええ。先月まで寝台から起き上がれないくらい、衰弱しておいででした。でもなんとかお体の具合が快方に向かい、そこで王女殿下は父王に願い出たのです。一度で良いから外へ出てみたいと。本の中ではなく、本当の外の世界をこの目で見てみたいと。それで、『船霊祭』への視察が決まったそうです」
シャインはそっと右手を上げて前髪を払いながら、眉間を押さえた。
「そんな事情があったのですか。そうとは知らず……俺は王女殿下の心を酷く傷つけてしまった……」
「いえ、それは私があのようなことを言ったからです。あなたが気にする必要はありません」
ディアナが強い口調でシャインの言葉を否定する。
「しかし……王女殿下は傷ついておられました」
「確かに、受けたショックは大きかったようです。けれど、王女殿下はご自分の行動を反省して、あなたに迷惑をかけたことを気にしておられました。あなたに会った時に、『ごめんなさい』と伝えてくれるよう、それだけを頼みたくて、私を部屋に呼んだのです」
そこまで言い終えてから、ディアナは気付いたように再び長椅子へと腰を下ろした。
シャインは内心複雑だった。
あの時、王女と共に行く事はとてもできないし、王宮へ仕官するなど考えてもいなかった。だが、一人でいる事の寂しさを知っているシャインは、彼女の孤独がなんとなく理解できた。
もっと、他に方法はなかったのだろうか。
すでに終わった事なので、今となっては何もできないのだが。
「王女殿下のお体の具合は、大丈夫だったのですか?」
気になる事といえばその点だ。一度精神的な事から病気になったのだから、再び体調を崩してしまったかもしれない。
だがディアナの顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。
「それは、大丈夫です。ミュリン王女は、他者を思いやる事ができる、優しい心をお持ちです。だから……」
ディアナはそっと目を長い睫で伏せて、シャインから視線を逸らせた。
きゅっと唇を噛みしめ、芝生が生えた地面の一点を見つめている。
「愛し合う者同士が、離れ離れになるのはいけないと――そう、王女殿下に言われました。まさか、まだ十才におなりの殿下からそんなことを言われるとは思ってもみませんでしたから……ですから私は、ついに本当の事を王女殿下に申し上げたのです」
シャインは一瞬だけ息を詰めた。
「それで、王女殿下はなんと――」
ディアナはまだ目を伏せていたが、シャインの言葉に顔をあげて、くすりとあどけない微笑を口元にたたえた。
そして再び長椅子から立ち上がると、腰に両手を当てて、シャインを見下ろすように前身を屈めた。
「――がんばってね、と」
「……」
シャインは瞬きを繰り返し、見下ろすディアナの顔を眺めた。
ディアナが目を細めて微笑したまま、まだこちらを見るので、シャインは困ったように眉間を寄せて、頬にかかった前髪をそっと払いのけた。
王女の言葉の意味がわからない。
ディアナはシャインとの婚約の話は、事実無根だと王女に説明したはずだ。それなのに、なぜそんな言葉が返ってくるのだろう?
「ディアナ様……それはどういうことなんですか?」
思わず訊ねると、ディアナが肩をそびやかし、小さくため息をついた。
しっかりとした印象を受けるすみれ色の瞳に影が落ちた。
「やはりご存知なかったのですね、シャイン様。私達、七年前に一応『婚約』してましたのよ。王女殿下には、口約束ですから正式なものではないということを、お話いたしました」
「……えっ?」
シャインは思わず絶句して両手で顔を覆った。ほんの短い時間そうしてから、そのまま頬を撫でるように前髪をかきあげ、ディアナの言葉を脳裏で反芻させる。
ディアナはこのアスラトルを治める公爵家の人間だ。王女の件はさておき、シャインを前にしてでまかせを言っているとはとても思えない。
けれどディアナとの婚約話など記憶にもないし、第一アドビスからもそんなことは一切聞いていない。
「ディアナ様、それは本当に本当の話なんですか? 俺は……その……」
万が一、本当だったら大変だ。焦るシャインとは対照的に、傍らに立つディアナは、その反応を面白がるように子供っぽい笑みを浮かべていた。




