【幕間2】 船霊祭 -素直じゃないリーザ-
アスラトルの街を黄昏色に染めていた夕日は沈み、辺りはすっかり夜になった。
だが街はほのかに温かみを感じるやわらかい光で照らされていた。
家々の軒下には月をかたどったランプが吊され、片手に提灯を持った子供達が、年に一度の『船霊祭』を楽しむべく、両親に連れられて商港に続くレンガ道を歩いている。
エルシーア海軍省本部でも一階の貴賓室では、主催のアリスティド統括将や将官達が、王都の役人や各界の要人を招いて恒例の晩餐会を開いていた。
一方、本部の二階にある大広間では、一般士官達が立食形式のパーティーを楽しんでいる。豪勢なシャンデリアが煌めく光の中、白い礼装姿の士官達は将官達がいないことを良い事に、好きなだけワインを飲んだり招待客の女性とダンスに興じている。
「今日は大いなる銀と金の月が、一つに重なる特別な夜……『船霊祭』か」
「なに、カッコつけてつぶやいてるんですか、航海長?」
クラウスは柱にもたれ、独りワインのグラスを片手に、窓の外をながめていた航海長シルフィードに話しかけた。シルフィードはクラウスが見上げる程の大男だが、先日海賊を捕らえる際に右腕を折られ負傷したので、白い包帯でそれを吊っている。痛々しい姿だが、白い礼服のせいもあり、あまり目立たない。第一シルフィードの表情はとても明るかった。
「カッコつけてるのはそっちの方じゃないのか? クラウス」
シルフィードは一瞬照れたように肩をそびやかし、クラウスに向かって人懐っこい笑みを浮かべた。
「そうしていると、お前も貴族の子息みたいだぜ」
「えっ、ええっ? そうですか?」
クラウスは襟元や袖口に金の刺繍が施された礼服に視線を落とし、少し戸惑った表情を浮かべながらマントの裾をつまんだ。
今夜は『船霊祭』というイベントに便乗した、内輪向きのパーティーであるが、正装しないと入口で門前払いを喰らう。動く度に体にまとわりつくマントはうっとおしかったが、これも軍規で定められている格好なので、嫌々ながら着てきたのだ。
「ま、船霊祭のパーティーなら、絶対マスターは、どんなことがあっても来ると思ってましたからね。なにしろ、たくさんの女性がやってきますから」
そこでクラウスは不意にシルフィードの顔を見上げた。大きな青い目をきらきらと光らせて、妙に大人びた表情でにやりと笑う。
「それで、今夜はどうなんです? どなたかと踊ったりしましたか?」
シルフィードが息を飲んだ。
「ク……クラウス……。お前もずいぶんとませたガキだな」
「マスター。言っておきますが、僕は十八才です。だからもう大人です。ガキではありませんよ!」
シルフィードは黙ったままクラウスの金髪頭をこずいた。今日はことさら丹念に櫛を通しているようだが、元々くせ毛のそれは、つむじのあたりからぐるりぐるりと渦を巻いている。
「うわっ、何するんですかー! マスター!」
「ふっ。うるせえな。……見ればわかるだろ。それができればここで一人、酒なんか飲んじゃいねぇよ」
クラウスはシルフィードにこずかれた頭を右手でさすりながら、ゆっくりとうなずいた。それもそうだと納得しながら。
「あら、あなたたちも来ていたの?」
その時、頭を抱えたクラウスの後ろから、赤いドレス姿の女性が近寄ってきた。
「これはこれはマリエステル艦長! 今夜は……随分とお美しいですなぁ」
シルフィードがクラウスの肩を押し退け、リーザの前に出る。
「マスター!?」
クラウスはよろめきながらシルフィードをにらんだ。
リーザはそんなクラウスの様子に、口元をほころばせて笑ったようだった。
普段肩に流している緑がかった黒髪は、頭上で一つに結い上げて、両の耳には瞳と同じ色をした、カーディナルレッドのピアスが揺れている。
真珠のようなしっとりとした光沢を放つシルクのドレスは袖がなく、両肩と背中が開いているので、リーザは薄いレースのショールを羽織っている。
一分の隙も見せない軍服姿とはうってかわり、実に女性らしい艶やかな夜会姿だ。
「エスコート役をお探しなら、僭越ながらこの俺が務めさせていただきます」
白い歯をきらりと光らせながら、シルフィードはリーザに向かってうやうやしく身をかがめた。
「まあ、今夜は随分と紳士なのね? シルフィード航海長」
「いえ、俺はいつだって紳士ですぜ」
リーザに褒められて、シルフィードは嬉しそうに目を細めている。
その時だった。リーザの後ろの人込みが割れて、背の高い士官が駆け寄ってきたのは。
「お、おい、リーザ!」
「……なにかご用かしら、ジャーヴィス中尉」
シルフィードに向かって手をのぼそうとしたリーザは、煩わしそうに後ろを振り返った。そこには早足でここまでやってきたのか、すこし頬を上気させているジャーヴィスが立っていた。
ジャーヴィスもまた他の士官達と同じように、白い礼装に階級を示す銀の鎖をつけ肩からマントを羽織っている。動く時に裾がばたばたするので、それを貴族式に左腕にひっかけている。
普段は真ん中で分けている前髪も、今夜は額を出してすっきりと後ろに流しているので、雰囲気がいつもと違う。軍人という強面っぽい一面が薄れ、そこに立っているのは優雅な青年貴族だった。
ジャーヴィスは周囲にそれを漏らす事はないが、一応王都ミレンディルアの近くに地所を持つ、子爵家の出なのである。
もっとも曾祖父、祖父の代でかなりあった資産は浪費され、ジャーヴィスが家を継いだ時には、古びた屋敷と小さな森がある、わずかな土地しか残っていなかった。
家は傾きかけているけれど、それでもジャーヴィスは貴族である。母親が病で死んだ後、彼女に代わって長姉ソフィーが、ジャーヴィスに貴族としての心づもりや、行儀作法をみっちりと教え込んだ。
そのおかげで、ジャーヴィスの立ち居振る舞いには洗練されたものがあり、口に出さずとも、高貴な出自であることがそれとわかるのである。
「あ、ジャーヴィス副長、今晩は」
クラウスがジャーヴィスに気付いて頭を下げた。ジャーヴィスはそれに黙ってうなずき、応えたものの、リーザの方へすぐ顔を向けた。
「私は君を無視したわけじゃない」
だがリーザはジャーヴィスから視線を逸らせた。
「あら……その割には随分と楽しそうに、スディアス財閥のご令嬢とダンスをなさっていたじゃない~? 王都流の素晴らしいステップで、私、思わずため息ついて見ちゃったわ」
「ええっ! スディアス財閥っていったら、このアスラトルの金融界を牛耳っている人達ですよ。すごい! ジャーヴィス副長」
クラウスが素頓狂な声をあげたが、ジャーヴィスはそれを無視して眉間を寄せた。別名苦労ジワとつけたくなる、その眉間の縦ジワが、ジャーヴィスの顔に影を落とす。
「君が彼女の後ろにいたのは見えたから知ってる。けれど、先に彼女に声をかけられたんだから、仕方ないだろう?」
リーザはシルフィードの方を向いたまま黙っている。そこで、リーザの代わりにクラウスが口を開いた。
「それとスディアス財閥令嬢との……ダンスの関係は?」
ジャーヴィスが唇を噛みしめて、はらりと乱れ髪が落ちた額に手を当てた。
「彼女はグラヴェール艦長を探していたんだ。だが私は彼の部下だが、どこにいるかまでは知らないと答えた。すると彼女は、『このような場で淑女が一人立っているのは恥ずかしい』というので、それで……ダンスを……」
「そう、ジャーヴィスは礼節を重んじる、ご立派な紳士ですからね」
「リーザ!」
リーザはシルフィードの隣に並んだ。目線でジャーヴィスに後ろを見るようにうながす。
ジャーヴィスは振り返った。そこには明るい金髪を露な肩の上に流した、白い夜会服姿の十八、九の女性が立っていた。リーザより背は低く小柄で、ほっそりとした顔に、二重のおっとりとした水色の瞳が印象的だ。
「あの、ジャーヴィス様」
声も水晶の鈴を振ったような透明感がある。
「可憐だ……」
思わず鼻の下を伸ばしたシルフィードがつぶやくと、リーザが顔色一つ変えないで、即座にシルフィードの足を踏み付けた。
ヒールがシルフィードの足の甲に突き刺されといわんばかりに食い込む。
「ぐおおおおっーーー!」
回れ右をして後ろを向き、シルフィードはその場にうずくまった。
一方ジャーヴィスは困惑した表情を隠そうとせず、隣にやってきた女性――スディアス財閥令嬢の顔を見つめた。
「何か……?」
すると令嬢は恥ずかしそうにうつむきながら、ジャーヴィスに向かって口を開いた。
「あの、やっぱりグラヴェール艦長は、まだこちらにいらしていないんですね?」
ジャーヴィスは大きくうなずいた。リーザはうっすらと愛想笑いをしている。だが、目だけがまったく笑っていない。目つきが怖い。
けれどそんなリーザの様子にはまったく気付く素振りもなく、小柄な財閥令嬢はまだ用件があるのか、子犬のような澄んだ瞳をジャーヴィスに向けたまま立ち去ろうとしない。
ジャーヴィスの額に冷や汗が浮いた。
「グラヴェール艦長なら、下の庭園で見かけましたわよ」
ジャーヴィスはぎょっとして、正面にいるリーザを見つめた。
「庭園ですか!?」
財閥令嬢の顔が一気に明るくなる。彼女はふときびすを返し、大広間の外に通じる出入り口の方へ顔を向けた。
「……けれど、今は行かれない方がよろしいかと思いますわ」
リーザはそっと額にかかる前髪をかきあげ、淡々と、だが意味深気につぶやいた。
「それは何故です? あの方は会食の時、後でまたお会いして下さると約束して下さいました。ですから私は……こちらに参りましたのに……」
不安なのか財閥令嬢の瞳が潤んでいる。リーザはゆっくりとうなずいて、彼女を安心させるように微笑してみせた。
「とにかく、もう少しお待ちになった方が、あなたのためです。グラヴェール艦長はアリスティド公爵のご息女……ディアナ様とお話をしていらっしゃったから……」
はっと令嬢の顔色が青ざめた。それは彼女だけでなく、ジャーヴィスもクラウスもシルフィードもだった。
「そう……ですか」
リーザのいわんとしたことを即座に理解したのだろう。スディアス財閥令嬢は肩を落とし、小さくため息を漏らした。
端で見ているこちらの胸が痛くなりそうなくらい、令嬢の表情は暗く悲愴感に満ちている。
「うちの艦長って、どうしてこう罪なことを……うぐっ!!」
リーザが踏んだシルフィードの足を、今度はジャーヴィスが踏み付けていた。
「スディアス財閥令嬢、グラヴェール艦長は約束を違える方ではありません。そのうち……あなたに会うためにこちらへ来るでしょう」
令嬢の悲し気な顔に胸打たれたのか、ジャーヴィスはそう声をかけた。
了承した印に令嬢はうっすらと微笑んだ。そして、ジャーヴィスに軽く会釈してその場を後にしようとした途端――。
「ねえ、待って! グラヴェール艦長が来るまで、このジャーヴィス中尉があなたのお相手をいたしますわ」
「……はぁ!?」
リーザだった。
がっくりと肩を落としていた令嬢が振り向いた。リーザの声に驚いた様子だが、その顔色は陰鬱とした雲がどこかへ去り、日が差してきたように明るくなった気がする。
ジャーヴィスは慌ててリーザの隣に並ぶと、令嬢に聞こえないように小声で口走った。
「なっ、何を言い出すんだ、リーザ。君は、あの令嬢と私が一緒にいるのが気に食わなかったんだろう? それで彼女の心を傷つけるような、あんな嘘をついたくせに、一体何を考えているんだ!」
リーザはゆっくりと頭を振った。顔を上げたリーザの目つきはジャーヴィスがはっと息を飲むような、とても真剣なものだった。
「嘘じゃないわ。グラヴェール艦長はディアナ様と一緒だった」
「リーザ……」
リーザはふふんといたずらっぽい笑みを浮かべて、ジャーヴィスにもう一度小声でささやいた。
「あのご令嬢、あなたのことまんざらでもないみたい。ほら、あなたが来るのを待っているわよ」
ジャーヴィスは焦っていた。リーザが何故こんな態度をとるのか。
「君は一体、私に何をさせたいんだ?」
リーザはうんざりしたように眉根を寄せた。
「……だからあなたは世渡りが下手だっていうのよ。こういうときこそ、グラヴェール艦長の評判が落ちないように、フォローするのが副官としての務めでしょ!」
「し、しかし……」
「しかしもへったくれもなーーい!!」
次の瞬間、ジャーヴィスはうれしそうに微笑むスディアス財閥令嬢の前に立っていた。
リーザに思いっきり背中を押されたのである。
「あ、あの……その……私は……」
内心リーザと、そしてシャインへの怒りを抑え込みながら、ジャーヴィスは頭をかいた。
そんなジャーヴィスの心情も知らず、可憐なスディアス財閥令嬢は、手袋をはめた手をジャーヴィスに伸ばした。白い頬をほんのりと赤く染めながら。
「私……実は、もう一度ジャーヴィス様と踊ってみたかったんです。あんなに上手く踊れる方に出会ったのは、初めてだったから……」
小首を傾げてふわりと笑う。こぼれるような笑みというのはこういうのをいうのだろう。
「あ……はい……」
礼節を重んじるジャーヴィスは、令嬢を拒むわけにはいかなかった。ここで断れば、彼女の心は本当に傷ついてしまうだろう。観念したジャーヴィスは、令嬢の小さな手を取ると、再び大広間の中央へと向かった。
シャインが早くここへ来てくれる事を願いながら。
何よりもそれだけを、とても強く、願いながら――。
「どうぞごゆっくり~。令嬢に失礼のないようにね~~」
ひらひらと右手を振り、リーザはジャーヴィスを見送った。
「本当に……これでよかったんですかー? マリエステル艦長」
びしっ。
手を振るリーザの動作が不意に停止した。ゼンマイの切れた人形みたいに。あるいは魔法をかけられて、石像になったように。
しかし、次の瞬間リーザは振り返り、紅の瞳を持つ黒猫のような、小悪魔的な微笑をクラウスに向けていた。クラウスはその迫力に一瞬ひるんだ。
「それってどういう意味かしら~? クラウス士官候補生?」
「どういう意味って……それは、マリエステル艦長はジャーヴィス副長のことが、す……わわっ!」
リーザは不意にシルフィードのごつい筋肉質の左腕と、対して小鳥の足のような細いクラウスの右腕をとった。
「今夜は私に付き合ってもらうわよ~。いいわね? 二人とも」
「えっ! そ、それはそれは……もう喜んで」
少年のようにシルフィードが年甲斐もなく頬を赤らめている。そんな彼を見つめていたリーザは、シルフィードに絡めていた手を放すと、やおらクラウスのもう一方の手をとった。
「じゃ、私達も一緒にダンスでもしに行きましょうか? クラウス士官候補生」
「えっ! ええーーっ!?」
クラウスが心から驚愕して肩をふるわせた。
「あなたも可愛い子と踊ってたわね。ジャーヴィスほどじゃないけど、結構上手だったわ」
「ちょっ……! マリエステル艦長! なんで、なんでクラウスなんですかい!?」
シルフィードがあからさまに不満げな顔でリーザに詰め寄る。
「……その腕」
「腕ーー?」
リーザの視線を目で追って、シルフィードは包帯で吊った右腕を見た。
「折れてるんでしょ? 怪我人のあなたに負担をかけたくはないわ。けれどその代わり――」
リーザはくすりと笑って右手を上げると、それで飲み物を飲む仕種をした。
「後で一緒に飲みましょう。こっちはクラウスちゃんじゃ、物足りないから」
「はっ、はい! それならいくらでもおつき合いしますぜ!」
シルフィードはリーザの言葉に、大きく何度もうなずいた。




