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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
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3-10 代役の航海長

「……お呼びですか?」


 シャインの後ろにある出入り口の扉が静かに開き、背の高い男が部屋の中へ入ってきた。

 真ん中で分けた銀髪を颯爽となびかせ、シャツの襟を立てた上に袖無しの赤い皮のジャケットを羽織っている。

 肌は褐色で、夜光石のような藍色の瞳がシャインの姿を鋭く捉えた。

「シャイン……か?」

 男の瞳が驚きのあまり大きく見開かれている。

 それはシャインも同じだった。

「……ヴィズル? ヴィズルなのか?」



「なんだ、知り合いか?」

 ツヴァイスは可笑しそうに口元へ手をあて小さく笑った。

「な……なんで君がここにいるんだ?」

 シャインは目の前の現実が信じられず、ヴィズルを頭のてっぺんから足の先まで凝視していた。

 確かに昨日の夜出会った彼に間違いない。

「……まあ、いろいろ事情があるんだがな……」

 ヴィズルはきまり悪そうに銀髪頭を手で掻いた。



「シャイン、君は私が海軍の司令官を勤めながら、海運業を営んでいることを知っているか?」

 ツヴァイスの言葉にシャインは首を振った。

「……いいえ、存じません」

「ヴィズルは東方連国の商船で、もう八年以上も主席航海士を勤めていた。私の取引先の会社だがね。もしも今の勤め先を辞めたら、いつでも海軍で養ってやると話していたのだ。腕のいい航海士でな。荷の期限を遅らせた事が一度もない。機会があったら引き抜こうと思っていた」

「それは褒めすぎですぜ、ツヴァイスさん」

 ヴィズルが照れた様子でうつむいた。


「ちょっと口の悪い所があるが、根はいいやつだ。一緒にいればそれはおのずと分かるだろう。でも、操船の腕は私が保証する。気に入ったらロワ-ルハイネス号の航海長として乗れるよう、アルバールに手続きをさせる」

 シャインはあまりにうまい話のような気がして考えがまとまらずにいた。

 ヴィズルの深い所の人格はわからないが、ツヴァイスと知り合いだということに、不安を感じずにはいられなかったのだ。

 しかしツヴァイスに何か裏があるとすれば、やはり昨日のアルバールの件をどうしてもアドビスに知られたくない、ということだろう。

 さらなる保険のためにヴィズルという切り札を出したのだ。

 他になにかを企もうにも……自分にどれほどの価値があるのだろう?

 害はないと考えたシャインは取引に応じる事にした。


「わかりました。この話お受けいたします。商船の航海士は大変技術が高く、願ったりです」

 シャインの言葉にツヴァイスは安堵の息を漏らした。

「そうか……よかった。実はヴィズルの口の悪さのせいで、軍艦に乗せる事は半分諦めていたのだ。それに君達は知り合いのようだし、その辺はなんとかなりそうだな」

 再びシャインとヴィズルはお互いの顔を見合わせた。


「はは……世間っていうものは意外に狭いもんだな。またあんたの世話になるなんてね」

「これも何かの縁でしょう、よろしくお願いします」

 ふたりを微笑ましく見ていたツヴァイスは、かぶりを振ってヴィズルに言った。

「言っておくがヴィズル。シャインはお前の上官だ。公共の場では、敬称をつけるのを忘れないようにな」

 ヴィズルはツヴァイスにたしなめられて苦笑した。

「ああ……“彼”がグラヴェール艦長だってことは、今了承した。気心しれた人間の船に乗れる俺は……運がいい」

 ヴィズルは本当にそう思っているのだろう。

 夜光石の瞳がにこやかに光っていた。


「ツヴァイス司令……どうも、ありがとうございました」

 ツヴァイスの唇が少し上向きに歪められる。

「礼などとんでもない。ただお互い“約束”は守る事にしよう。いいかね? グラヴェール艦長」

 ツヴァイスの懸念はよくわかる。

 シャインは了承の意を込めて、ゆっくりとうなずいた。

「それではこれで失礼させてもらってよろしいでしょうか? できたらヴィズルに船を見せたいので」

「ああ、そうしてやってくれ」

 いつもは冷たそうな印象を受けるツヴァイスの目が、気のせいか優し気に見えた。

 彼の事を誤解していたのかもしれない。

 シャインはそう思いつつ、ヴィズルと連れ立って貴賓室を後にした。



 ◇◇◇


「本当に驚いたよ。こんなところで君に会うなんて」

 別館を出たシャインとヴィズルは、ロワールハイネス号が格納されている修理用ドックに向かって歩いていた。

 海軍省の裏門から出て、目の前に広がる道を東に歩いて行く。


「はは、俺もさ。昨日話そうとは思ったんだぜ。あんたは海軍の軍人だ。だから、ロワールハイネス号のこととか、グラヴェール艦長ってどんな人間か、聞きたいなって思ってたのに……あれしきの酒で寝ちまってよ」

 涼し気な海風に銀髪がひるがえり、ヴィズルの精悍な顔をさらに際立たせる。


「すまない。普段酒を飲まないから酔いがすぐ回ったんだろうな。そうだリンゴ……ありがとう。朝食に頂いたよ」

 ヴィズルは大きめの口元をにやりとさせた。

「うまいんだよな、アスラトルのリンゴは。商船に乗っていた時、よく帰りの航海の前に樽ごと買っていたんでね。つい、食べたくなったのさ」


 初めて出会った時から感じていたが、ヴィズルには威風堂々とした船乗りの貫禄が有る。

 ツヴァイスが教えてくれた彼の経歴のおかげで、その裏づけはとれたが。

 しかし、一介の商船の航海士で満足するような人間ではない……と、シャインは隣を歩きながら思っていた。


 八年以上も航海士を勤めたのなら、それこそ自分の船を持って船長となる頃合だ。

 けれど金銭的な面で船を持てないのかもしれない。

 ならば航海士ではなく船長として契約を結んで船に乗った方が、断然給金は上がるはず。

 そう、ヴィズルはベテランの域に達しているのだ。

 だからこんなにも海の男としての貫禄が雰囲気として漂っている。


「ツヴァイスのために……商船を辞めたのかい?」

 ぶしつけな質問だが、シャインは好奇心を押さえきれずヴィズルに尋ねた。

「あ? ……違うさ。長年、いまいち会社とはうまくいってなかったのさ。誰のお陰で、荷を安全にしかも、定刻通りに届けているのか分かってないから、こっちから辞めてやったのさ。それを……ツヴァイスはどこからか聞き付けたみたいで、自分の船に乗らないかと誘ってくれたのさ。本当はあんまり乗り気じゃなかったんだが……あんたの船の航海長がいなくて困ってる話をきいた。二ヶ月限定って、ところがいいかな……っと思ってさ」

「気にはしてたんだけど、短期の契約になるんだ。本当にいいのかい?」

 シャインは心配げにヴィズルを見つめた。


「ああ。俺は軍人になる気はこれっぽっちもないからな。ロワールハイネス号の艦長があんたじゃなかったら、きっと蹴って、さっさと独立してただろうけどな。だから、願ったりさ」

「独立って、自分の船を持つのかい?」

 シャインは憧憬の気持ちを込めてつぶやいた。

 自分も海軍の船を預かる者であるが、少し意味合いが違う。

 シャインが密かに望む未来予想図は、ヴィズルのそれなのだ。


「そうだな。海軍の給金をもらったら、小型だが良い船が買えるぐらいの金がたまるんだ。これでちょっとがんばってみようと思う」

 前方をまっすぐに見据えるヴィズルは、実に良い表情をしていた。

 間もなく叶う自分の夢に、うれしさが押さえきれないようだった。

「……そうか」

 シャインは言葉少なげに微笑した。

 ヴィズルの眩し気な横顔を見る事ができなくなってうつむきながら。



「グラヴェール艦長」

 煉瓦造りの造船所の入口には驚いた事に、航海服姿の副長ジャーヴィスが立っていた。

「おはよう、ジャーヴィス副長。休暇中なのにどうしたんだい?」

 シャインは驚きつつジャーヴィスに近付いた。

「昨日、帰り際に発令部からあなた宛ての伝言を頼まれたのです。それでホープ船匠が、あなたが今日こちらに来るということを教えて下さったので、お待ちしていたのです」

 淡々とジャーヴィスは語ったが、その鋭い視線はシャインの隣に立っているヴィズルへと注がれている。


「そちらの方は」

 シャインはジャーヴィスの視線に気付き、ちょうどいい機会だと思った。

「ああ、紹介しておこうか。彼の名はヴィズル。怪我をして休職中のシルフィード航海長に代わり、復帰までロワールハイネス号に航海長として乗ってもらうことになった。これから船を見せる所なんだ」

 そしてシャインはヴィズルにジャーヴィスを紹介した。


「シルフィードの代役か。ふむ」

 ジャーヴィスはさらに目を細めて、ヴィズルをうさん臭く見回した。

 彼がいぶかしむのも無理はない。

 ヴィズルは銀髪を束ねる事なくなびかせていたし、文句があるなら相手になってやろうといわんばかりに、じっとジャーヴィスを挑発的な眼差しで見ていたからだ。


「――乗船経験は? 私より若そうだが」

 明らかにその口調はトゲがあった。

 ジャーヴィスは見かけで人を卑下する所はないが、どうもヴィズルの態度が大きいので、それが気に食わないらしい。


「俺は船で生まれてね。お袋が船乗りだったからな。船は俺の家だったよ。おもちゃがわりに舵を握り、いろんな所へいったものさ……二十五年間。その俺に乗船経験なんて言葉は無意味ってもんだろ? 副長さん」

 自信たっぷりにヴィズルは微笑した。

 一方、ジャーヴィスは悔しそうに口元を歪めた。

「……それは頼もしいかぎりだな。腕はいずれじっくりと見せてもらおうか」

 精一杯の虚勢を張るジャーヴィスに、シャインは早くもこのふたりがうまくいきそうにない気配を感じ取った。


「船はこの中か、シャイン」

 ヴィズルはジャーヴィスの肩ごしに、修理ドックの中をのぞいていた。

「貴様……ここは海軍の敷地だ。上官を呼ぶ時は敬称をつけろ。どんなに親しくてもな」

 声を荒げてはいないが、怒気鋭くジャーヴィスが言った。

 その睨みは冷たく鋭い氷の針のように、ヴィズルを突き刺さんばかりだ。


「ふん……悪いが、俺の辞令はまだ出てないし、着任も六日後だ。それまではただの一般人だぜ」

 ジャーヴィスのにらみもどこ吹く風。

 彼より拳ひとつ分ほど背の高いヴィズルは、身を折り曲げ、にやっと笑ってみせた。

 ジャーヴィスはあまりにも態度がデカイ新参者の言う事が正論なので、言い返せないようだ。

 それが悔しいのか取り乱すまいと、必死に手の震えをこらえている。


「まあ、今日の所は許してやってくれないか、ジャーヴィス副長。彼は商船あがりで海軍のしきたりもまだよく知らないんだから」

 シャインは咄嗟に口を出した。

「商船でも船長の名前を呼び捨てにすることはないでしょう?」

 反論するジャーヴィスのいら立ちを、シャインは十分察していた。

 彼の肩を持ってやっても良いが、ヴィズルの様子からして、態度を改める気配がないのは誰の目から見ても明らかだ。

 シャインは取りあえず、ここで二人を引き離すべきだと考えた。


「ヴィズル、ロワ-ルハイネス号へ先に行っててくれないか? 三本マストのスクーナー船だからみればわかるよ。俺は副長から伝言を聞いて、すぐ発令部に行かなくてはならない……。戻る時間はいつ、と言う事ができないから、今日はここで別れよう」

「はいはい、了解しましたぜ、グラヴェール艦長。おっしゃる通りにいたしましょう」

 ヴィズルはわざとおどけたように、シャインへ頭を軽く下げた。

 そして何か言いたげなジャーヴィスの脇を黙って通り過ぎると、修理ドックの中へ入っていった。



「……何なのです、あの無礼な男は。海軍の人材不足はわかってますが、もう少しマシな性格の者はいなかったんですか?」

 ヴィズルの姿が消えた途端、ジャーヴィスは嫌悪感を隠す事なくつぶやいた。

「航海士としてはツヴァイス司令のお墨付きさ」

「えっ!」

 シャインはざっとヴィズルの経歴をジャーヴィスに語った。

 しかし副長は相変わらず固い表情のままだった。


「腕がいくらよくても……私は……あんな礼儀知らずな人間は嫌いです」

 どうもジャーヴィスとヴィズルの間には、はや亀裂が入ってしまったようだ。

 修復がかなり難しいほどの……。

「ジャ-ヴィス副長、確かにヴィズルは口が悪いが、人間としては君が思っているほど酷くない。それだけは信じて欲しい」

「あなたが決めた事です。私はそれを非難するつもりはありませんから」

 ジャーヴィスは傷ついた目で一瞬だけシャインを見つめた。


「さあ、発令部があなたを待っています。できるだけ早く来るようにと言われています」

 シャインは軽くうなずいた。

「ありがとう、ジャーヴィス副長。すぐ行くよ。……悪かったね、休暇中なのに」

「いいえ、これが私の務めですから」

 ジャーヴィスはやっと硬い表情を崩して微笑んだ。


「あっ、そうだ。その前にロワールへ顔を見せておかないと」

「は?」

 ジャーヴィスはあっけにとられてシャインの顔を凝視した。

「今日会いに来るって言っちゃったからさ。発令部へ行くと何時に出られるか分からないから、彼女に会ってから行くよ。……じゃ、また六日後に……」

 シャインはそこでふと思い出した。


「週末の海軍省主催の船霊祭には顔を出すよ。君も来るんだろう?」

「ええ。そのつもりです」

 ジャーヴィスの瞳が一瞬宙を泳いだ。

 いつも隙を見せない彼にしては珍しい。きっと『船霊祭』にはリーザ・マリエステルも来るのだろう。

 彼女はシルダリア方面へ航海に出ているが、急送連絡文書の運搬だから、それまでにはアスラトルへ帰ってこられるはずだ。

「発令部の内容は休暇明けに伝えるよ。じゃ、俺は行くから」

「あ、グラヴェール艦長」

 シャインは何か言いたげなジャーヴィスを残して修理ドックへと入った。


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