1-6 決意
「いい副長じゃないか。えっ?」
「……真面目な人だとは思いますが」
シャインはジャーヴィスのその気になれば人を睨み殺せるような、険悪な視線を思い出しながらつぶやいた。
シャインが名乗った時の彼の驚きようは凄まじかった。まるで魂が抜けたように表情が虚ろになり、声を上げることすらできず、ただただシャインの顔を凝視するばかりだった。
握手のつもりで差し出した右手も握ってはもらえなかった。無理もない。彼はシャインのことをホープの助手だと思っていたみたいだから、目の前の薄汚れた作業着姿が「お前の上官だ」なんて突然言いだしたので、頭の中が混乱してしまったに違いない。
シャインは自分の素性を隠していたわけではないが、すぐに明かさなかったことを彼に詫びた。そして、明日の命名式のために、下見がしたいのなら自由に船内をみればいいといったのだが、ジャーヴィスは青ざめた唇を固く結び、眉間に深い溝を作って首を振った。
そして一言、「お邪魔しました」と礼儀正しくつぶやいて、船から下りて行ってしまったのである。
日は完全に沈んだ。河岸にはぽつぽつと街の白い灯りが星のように瞬いている。
シャインとホープは新造船の後部甲板で、船縁に両腕を乗せてそれを眺めていた。甲板には新造船特有の真新しい木材から立ち上る、甘いつや出し油の匂いが香っていた。
「艦長だなんて――俺だって本当は驚いているんですよ、ホープさん」
そう。シャインはまさか自分がこの新造船の、よりにもよって艦長に任じられるとはこれっぽっちも思っていなかったのである。しかも海軍省の人事審査会から、艦長に任ずると知らせを受け取ったのは一週間前と最近の事だ。
シャインはこの船に乗れることを喜びはしたが、船内全てに責任を持たねばならないその身分に就くことを、いまだ実感が持てずにいた。
「別にワシは驚かんがな。お前は……ええといくつだったか?」
「二十才です」
ホープは短衣の内ポケットからお気に入りのパイプを取り出して口にくわえた。
「グラヴェール家は古くから多くの海軍将校を輩出して、アスラトルの街を守ってきた一族だ。お前さんの父上だって、それぐらいでアスラトルの警備艦を任されていた。今はアリスティド統括将を影で支える参謀部の長。その息子であるお前が艦長になったって、別に不思議なことじゃなかろう」
「しかし」
シャインは顔をしかめた。ジャーヴィスがいそいそと自分の前から立ち去ったのは、まさにそれが原因なのではないかと思う。彼はいかにも有能で潔癖そうだった。
現にエルシーア海軍では、戦時ではないため、有力者の縁故がないと出世は永遠に不可能なのである。貴族や裕福な商人が自分の息子のために少佐あたりの官職を買うことも、実は暗黙の了解で行われている。将官達は海軍内で己の力を強めるため、能力は二の次で要職へせっせと身内ばかり昇進させている。ジャーヴィスと同じ中尉だったシャインが、いくら小さな等級外の船とはいえ、いきなり艦長に任じられるのは通常ありえないのだ。
――あの人が人事審査会に圧力をかけて、そうさせたのだろうか。
シャインの顔は夜の闇と同じように暗さを帯びた。
裏で実質エルシーア海軍を牛耳っていると噂されている男。
参謀司令官として海軍省に詰める父親アドビス・グラヴェールとは、士官学校に入学して以来、六年会っていない。便りを出すことも受け取ることもない。何も連絡がないから、先方は愛する海軍のために、その身も心も捧げて元気に日々を過ごしているのだと思う。
父アドビスは、若い頃から軍艦に乗り、エルシーア海を荒らす海賊討伐に明け暮れていた。それは彼の妻――シャインの母親が早世したせいもあるだろう。アドビスは常に航海へ出ており、アスラトル郊外にあるグラヴェール屋敷へ帰ってくることは滅多になかった。
稀に帰ってきたとしても、アドビスは用事がある時しかシャインに会おうとしなかった。よってシャインはあの男と親子らしい会話など、生まれてから今までまともにした記憶がない。あの男が自分のことを息子だと思っているのか、口には出さないがいつも疑問に感じていた。
だからこそ歯がゆく思う。
あの男は父親らしく振る舞ってくれないが、決してシャインの存在を忘れているわけではないのだ。グラヴェール家の家風かどうかはわからないが、十四才になったとき、アドビスは有無を言わさずシャインを海軍士官学校へ入学させた。幸いシャインは船に乗ることが好きだったのでアドビスの決定に従ったが、本音を言えば軍艦よりもっと気楽な商船に乗りたかった。
「どうしてこんなことになったんだろう。ホープさん。俺だって、自分の技量がどれほどのものかわきまえているつもりです」
シャインは船縁に置いた両腕にほっそりとした顎をのせた。
自分はただこの「使い走り」に乗りたかっただけなのだ。彼女と共に海を駆けたいと思っただけなのだ。決して参謀司令官の息子という立場で、艦長職を欲しがったのではない。
「シャイン。ワシはお前のそういう謙虚な態度が好ましいと思っておる。だが人事審査会がそれを決め、お前もその決定に従ったのだ。いい加減腹をくくれ」
シャインはホープの力強いその言葉に顔を上げた。この老船匠は彼こそが父親のようにシャインのことを見守ってくれていた。嬉しい時も、苦しかった時も。
「すみません。つい……責任の重さに、気が弱くなってしまいました」
「……それだけではあるまい?」
シャインはホープに向かって微笑んでいたが、思わずその表情を凍り付かせた。
ちかちかとパイプの火を光らせながら、隣に立つホープが限りなく優しい目でシャインの顔を覗き込んでいる。
「正直言うとな。お前がもう一度船に乗れるのか心配じゃった。あんな目にあった後じゃったから」
「ホープさん」
シャインは無意識の内に右手で左肩を押さえていた。忌わしい出来事を思い出させるそれは、半年が過ぎた現在もまだ完全に癒えようとしない。
脳裏にその時の記憶が蘇りそうな気配を感じる。だがシャインはそれを無理矢理閉め出した。もう、終わったことだ。だからホープにもそのことで気を遣って欲しくない。気を遣って欲しくはないが、不安感がないわけでもない。
「だからな、お前に見せたいものがある」
「えっ」
ホープが手招きした。
シャインはその背を追って船尾へと向かった。
舵輪がある後部甲板には下の船室へ降りるための扉がついている。
その扉の前には、真鍮で造られた小さな鐘楼が置かれていた。
船内で時を告げるために鳴らされる『船鐘』を吊るすためのものだ。
鐘楼は向かい合う波をアーチ状に象った形をしている。
シャインはそこに吊り下げられている銀色の『船鐘』を目にして息を飲んだ。
大きさは子供の頭ぐらい。音を鳴らすために新品の真っ白なロープがぶら下がっている。だがこの『船鐘』は他にはない珍しい意匠の品だった。大抵の船鐘は真鍮製なので鈍い金色をしているが、この鐘は銀で表面を覆っているので特注品ではないだろうか。
だからこそ見覚えがあった。
「どうしてこれがここに……」
シャインが鐘楼に近寄ると、ホープが手にした角灯を『船鐘』へと向けてくれた。
鐘の縁をなぞるように、植物の蔓のような繊細な模様がぐるりと彫られているのが見えた。
「これは……アイル号にあった『船鐘』では」
動揺と驚きのせいで声が震える。
シャインは恐る恐る両手を伸ばし『船鐘』に触れた。
一気に謎が解けた気がした。
黄昏時に舳先で見た『彼女』――船の精霊は、幻ではなかったのだと強く思った。
「確かにこれはお前がアイル号から持ち帰った『船鐘』じゃ。お前が警備艦に救助された時、この『船鐘』を回収するよう、何度も言っていたそうじゃぞ?」
ホープがパイプをくゆらせながら肩をすくめた。
「俺が、ですか?」
シャインは船鐘から視線を引きはがし、ホープを見つめた。
「覚えておらんのか? 聞いた話じゃずっと『船鐘』を抱えておったそうじゃぞ。お前にとって大切なものだったのか?」
シャインは唇を噛みしめた。
「大切なものというか、その時、俺は『船鐘』を守らなくてはならなかったのです。事情はよくわかりませんが、アイル号のヴァイセ艦長はこの『船鐘』を持っていたせいで命を落としました。俺も彼の命を奪った連中の襲撃を受けて……」
シャインは身震いしてそっと両手で肩を抱いた。
「シャイン」
名を呼ばれてシャインは我に返った。
ホープが右肩に手を置いて顔を覗き込んでいる。
「すまん。あの時の事を思い出してしまったか」
「いえ、大丈夫です。でもホープさん。何故、この『船鐘』を本船につけたのですか? それは禁忌だと教えて下さったのは、あなたですよ?」
ホープは口から紫煙を吐いた。昇っていく白い煙を睨み付けながら苦々しい表情で見上げている。
「良く覚えていたな。確かに、その通りじゃよ。『船鐘』は船の魂――『船の精霊』の宿る『魂の器』だ。だから新造船が造られたら、鐘もその船専用のものが作られるきまりになっておる。音色が気に入ったからだとか、形が良いからといって、他所の船鐘をつけたせいで船の精霊の怒りを買い、海の藻屑になった話は幾らでも知っておる――」
ホープはふうとため息をついた。
「早い話が、海軍省の命令じゃよ」
「命令?」
「そう。新造船の発注元の命令なら、ワシも断れん。三日前のことじゃった。海軍省が、本船にはこの『船鐘』をつけるようにと通達してきた。参謀部の使いと名乗った若い男から『船鐘』を預かった時、彫られているべき元の『船名』は削られて消えておった。だが銀を用いた鐘の意匠といい、名のある船のために造られたことは間違いない。ましてそれがお前にとって、自分の身よりも大切だと思えるものならば――」
ホープが渋面を和らげて苦々しく微笑した。
「『船の精霊』はこの『船鐘』に宿るだろう」
「――ホープさん」
寒さのせいではない。
シャインは体が震えるのを感じた。
再び両手を『船鐘』に伸ばし、鏡のように磨き上げられた鐘の表面に指を滑らせる。
そこには明日行われる『命名式』で、シャイン自らが彼女に与える『船名』が刻まれている。
鐘は黙ってシャインを見つめ返していた。
「俺は――『彼女』に命を救われました。この鐘に宿る『船のレイディ』に」
「なんと……?」
ホープが口を開けたままシャインの顔を凝視する。
それを見ながらシャインは瞳を伏せ小さく微笑した。
「死にかけた人間の幻想だったのかもしれませんが、アイル号をアスラトルまで帰港させたのは『彼女』です。今でもこの手に『彼女』に包まれた優しい『想い』を覚えています……」
「それなら、大丈夫じゃな!」
ホープが急にシャインの背中を叩いた。
「ホープさん!?」
老船匠は太い二の腕を上げてシャインの細い肩を抱いた。
「船の精霊の加護を受けた船は、滅多なことでは沈まんというぞ。そうじゃ、喫水線に穴が開いていたアイル号も、アスラトルに帰港するまで沈まずにもったからのう」
「えっ。アイル号は沈んだのですか?」
「ああ。お前たち生存者を警備艦に乗り込ませた所で一気に浸水が早まり、ものの三十分程で沈んだそうじゃよ。ワシも三十年船を造ってきていろんな話を知っておるが、まさに『船の精霊』の加護があったからじゃろうて」
「……ホープさん」
「ということなら、後はお前の心がけ次第じゃ。この船を生かすも殺すのもな」
「そうですね」
シャインはホープの手を肩から優しく下ろした。
川風に靡く前髪を手で払いのけ、決意に満ちた青緑色の瞳を『船鐘』に向ける。
「今度は俺が『彼女』を守ります。いえ、何があっても守ってみせます」