3-2 休暇
エルシーア海軍・造船主任のホープは軍船を作って四十年になる。
大砲を100門搭載できる1等軍艦から、疾風の様に走る快速船まで、建造に関わったその数は六十隻を下らないだろう。
どの船も気に入っているのはいうまでもないが、最近造ったばかりのスクーナー船、ロワールハイネス号は特別深い想いがあった。
だからこそ彼女の姿が造船所の修理用ドックにあるのを見た途端、ホープはいてもたってもいられず駆け寄った。
「おいおい、一体どうしたんだ?」
目の前の現実を疑いつつ、ホープは罵声を発した。
速さを求めるため乗り心地や物資の格納スペースを犠牲にした船体は、飛魚のようにすらりとした細身に作られている。その船首右舷側の下、巻き上げられた錨がぶら下がっている所だが、無数のひっかき傷と共に碧海色のペンキがはげているのだ。
しかも、船体の強度を増すために張った銅板が露出しており、おまけに大人の頭ぐらいのへこみまでついている。シャインに限って暗礁や岩にぶつけたとは思わないが、例えば船と接触した衝撃でできた傷と思われる。
ホープは白髪混じりの髪をこわばった両手でがしがしと掻きむしった。
好きなパイプを吸っていればその口からころりと転げ落ちているだろう。
ホープはロワール号のフォアマストを見上げた。驚愕のあまり口はぽかんと開けたまま。
「なんてこったい……!」
深いしわをきざんだ眉間が、一層くっきりと浮かび上がる。
フォアマスト(一番前)を左右両脇から支える静索のロープの色が違うのだ。
マストを登る時足場になるそれは梯子状に編まれているのだが、ロープの色が違うのは補修したからだ。それが意味することは、なんらかの理由があって静索を傷めてしまった。もしくは止むを得ず切断したかのどちらかだ。
「ホープさん」
「グラヴェール艦長」
ホープは甲板へ姿を見せたシャインに声を掛けた。
ロワールハイネス号の甲板には人気がなく、ケープのついた青い航海服姿のシャインしかいない。
副長ジャーヴィスや他の士官、水兵達は先程全員下船命令が出たという事でロワール号を降りたのだ。
ホープはロワールハイネス号の中央部にかかっているタラップ(といっても手すりのないただの一枚の渡り板)を歩いて乗船した。
そのまま、メインマストの前に佇むシャインの所へと向かう。
シャインはホープを強ばった笑みで出迎えた。
悪戯をしでかした事を隠す子供のように、気弱な表情で唇を引きつらせている。
ホープは軽くため息を吐き、両手を腰に当ててシャインを見下ろした。
もう齢六十を迎え、シャインと同じくらいの孫娘がいるが、気力はまだまだ衰えてはいない。
シャインと視線を交わしたホープは、やおら太い右腕を上げて、徐にその細肩へと回した。
シャインの足がよろめく勢いで自分の方へ引き寄せる。
「皆が噂しとった。ロワールハイネス号は命名式を失敗したせいで、処女航海で沈むんじゃないかとな。聞きたいことは沢山あるが、まずは無事に戻ってきて何よりだった」
「……すみません、ホープさん」
ずっと緊張していたのだろうか。シャインの声は幾分小さかったが安堵に満ちていた。
ホープはシャインを安心させるように数回、背中に回した手でその細肩を叩いた。
「さて、お前さんの懺悔の時間じゃな。どうして船がこうなったのか」
抱擁を解くとシャインの青緑の瞳が困ったように再び細められるのが見えた。
「その前にホープさん。会わせたい人がいます」
「えっ?」
ホープはその時シャインの背後に佇む人影に気付いた。
乗船した時に気配は感じなかったが。
「ごめんなさい、ホープさん。船体を傷めてしまって。でもそれは全部シャインのせいなのよ」
しおらしげなその声は紛れもなく少女のものだった。
彼女はいつの間にかシャインの隣に並んで、ホープを見上げていた。
年の頃十七、八ぐらい。夕日のような黄昏色の長い髪。それはヴェールのように長く、華奢な肩の上にゆるゆると流れて落ちている。
ホープを見ても物怖じせず、真正面から見据える澄み切った水色の瞳。
どことなく人間離れした気配の神秘的で不思議な少女。
ホープは少女の正体に気付いた。
伊達に四十年船を造っているわけではない。
「これはこれは初めましてじゃな。お前さんがロワールハイネス号の『船の精霊』というわけか」
「はい。あなたがこの船を造ったホープさんね」
ロワールが頬を高揚させて微笑む。
白いスカートの裾を両手で掴んで片足を後ろに引く。
「私の名前はロワールよ」
ホープはロワールの挨拶を受け、すっと背筋を伸ばすと右手を胸につけて一礼した。
「レイディ・ロワール。会えて光栄ですぞ。何はともあれ、船とシャインを守ってくれた礼を言わんとな」
「そう。そうなのよホープさん。私がいなかったらどうなっていたことか。シャインったらひどいんだから!」
小一時間後。
「……そう言う事で、シャインが私を置いて一人で行こうとしたから、ストームの船に体当たりしたの」
「そうかそうか。そりゃ、悪いのはシャインだな」
ホープは新しい孫ができたようにロワールと会話に花を咲かせていた。
実の所、ころころと良く笑うロワールをはや、気に入ってしまったのだ。
一方シャインは居心地が悪そうに黙りこくったまま、ホープとロワールの会話を聞いていた。
けれどその表情がいつになく嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。
気難しいシャインにしては珍しい。
「事情は大体分かった。それでは艦長、修理箇所の案内をしてくれんか。確認をしようかの?」
「はい」
ホープはシャインと共に船首甲板へと歩いた。その後ろをロワールがついていく。
一緒に船体の破損状況を確認する。
「船首右舷側の船体のへこみ。フォアマスト静索の補修。メインマストからミズンマストまでの上甲板の亀裂――これは化粧板の張り替えで大丈夫だと思うのですが」
ホープはシャインが差し出した修理申請の書類にそれらが書き込まれていることを確認した。
「……よしよし。流石、長年造船所に出入りしているとあって、必要事項の記入に不備はないぞ。最近の新米艦長どもは建材の事も知らん輩が多くての」
「ありがとうございます」
ホープははにかんだように目を細めるシャインに頷いてみせた。
「わしも修理用の建材にこれを使うのは賛成なんじゃが――」
書類をめくりながらホープは嘆息した。
ちらとシャインの顔を見つめる。
「海軍省から経費削減の通達がきとってな。就航して二週間しか経たん新造船のロワールハイネス号に、いきなりこんな金額は回せんのが実情じゃ。せめて三分の一ほどお前さんが自己負担できるなら話は別じゃが――」
「ホープさん。それで構いません」
シャインは即答した。
手にした修理申請の書類には見積で約150万リュールという金額が出ていた。
「ロワールに約束しましたから。船の整備はきっちりすると」
「そうか。なら早速建材を手配して、届き次第修理にかかることにするぞ」
「よろしくお願いします」
シャインが頬にかかる前髪を揺らし一礼する。
「修理の日数じゃが、まあ一週間をみとってくれんか。完了の目途がついたら連絡するからの」
「はい。わかりました。じゃ、早速申請書を本部に提出してきます」
「シャイン。船を降りるの?」
踵を返したシャインの右腕にロワールが自らのほっそりした手を伸ばす。
シャインは足を止めて自分を見上げるロワールに頷いた。
「ああ。海軍省に君の修理申請と任務完了の報告書を出さなくちゃならないからね」
「どれくらいで戻ってきてくれるの?」
「……」
シャインはロワールの言葉に一瞬沈黙した。
戸惑うように瞬きを繰り返す。ホープはシャインの動揺を察した。
「ロワール。お前さんは船体を修理するため、このドックにいなくちゃならん。7日間な。その間乗組員は上陸休暇になるんじゃ」
「えーっ」
両手を頬に当ててロワールが水色の瞳を大きく見開いた。
「私、こんな寂しい所で7日間も一人ぼっちでいなくちゃならないの~?」
船の精霊は、船を愛する人間の『想い』から生きるための力というか、糧を得ているらしい。長年船を造り続けているホープは、今まで知り合った『船の精霊』達からそんな話を聞いたことがある。
「すまないロワール。ちょっと用事があるから毎日は来れないけど、君の様子は見に来るから待っていてくれないか」
シャインは拗ねたロワールの瞳を覗き込むように身を屈めた。
右手を上げて上気した頬に添える。
機嫌を悪くしたロワールが唇を尖らせてシャインを睨む。
「……わかってるわよ。あの人の所に行くんでしょ?」
「あの人?」
ホープは鸚鵡返しに呟いた。
途端シャインが当惑したように眉間に皺を寄せる。
「うう……君に俺の心が筒抜けっていうのも困ったもんだね」
ホープは興味がある眼差しでシャインを見つめた。
ホープの視線に気付いたシャインが、ばつの悪い顔をして肩を竦める。
「船のレイディに隠し事はできんぞ、シャイン。観念して白状したらどうだ」
「酷い言いようですねホープさん。何もやましいことはないです。週末が『船霊祭』だったな、って思っただけで」
「そうそう。あの銀髪のお姫様と約束してたわよね。『船霊祭』は一緒に過ごしてあげるって」
「ロワール……」
ホープは絶句するシャインを面白いものを見るような目で――いや、好奇心を抑えるように見ていた。
こういっては何だが、シャインの外見はどちらかといえば人目を惹く方だ。
グラヴェール家は貴族ではないが、アドビス・グラヴェールの存在感は大きく、各界でも影響力を持っている。シャインはまさにそれを嫌って人付き合いを避けている所があるのだが。
「ホープさん、あの、誤解しないで欲しいんですけど」
ホープが下世話な想像をしていると思ったのか、おもむろにシャインが口を開いた。
『銀髪のお姫様』――ホープの脳裏にはディアナ・アリスティド公爵令嬢の姿しか想像できない。
母親がエルシーアの北方に位置する大国シルダリアの出身で、その容姿を色濃く受け継いだ彼女の事を、アスラトルの領民達もそう呼んでいる。
「いや、わしは気にしてはおらんぞ。ディアナ様のことなんてな。確かに週末は『船霊祭』じゃったな」
ホープがはっきりとその名を口にしたが、シャインは敢えて知らないふりをしている。
「ねえシャイン。気になってたんだけど『船霊祭』ってなんなの?」
幸か不幸か。ロワールの関心事は公爵令嬢ではなく『船霊祭』の方が強いらしい。
ホープはシャインと一緒に顔を見合わせた。
「君が知らないのは当然か」
「そうじゃな。『船霊祭』っていうのは、今は単なる祭りにすぎないが、元々は海で沈んだ船や、役目を全うして廃船処分になった『船の魂』を鎮めるための儀式じゃった」
「船の魂――」
「そう。金の月「ドゥリン」と銀の月「ソリン」。双子の月が一年に一回、一つに重なる日があって、この日の夜、海で亡くなった人々の魂がアスラトルに帰ってくると信じられているんだ」
「彼らと共に沈んだ船に乗って――な」
ホープはしみじみとシャインの言葉の後を引き継いだ。
「……」
ロワールは黙っていた。
「まあ、それが元々の『船霊祭』のいわれなんだけど、『船霊祭』の夜は港の夜景がとてもきれいなんだ。王都ミレンディルアから去年はミュリン王女も視察に来たくらい、街は観光客で溢れる。アスラトルの街は三日月を象ったランタンを家の軒下に飾って、海で亡くなった人が帰ってくる目印にする。そして今は無き、名のある船の模型が飾られて、その歴史と雄姿に思いを馳せる。港で停泊している船もこの日の夜はずっと明かりを灯すんだ」
「そう――お祭りっていうのが、なんとなくわかったような気がするわ」
ロワールはシャインから顔を背け小さく呟いた。
「じゃ、楽しんできて。きっとあの人、喜ぶわよ」
「ロワール」
鮮やかな紅の髪を揺らしながらロワールがふわりとその身を中空に躍らせた。
彼女の肩を掴もうとしたシャインの右手は誰もいない空間を掻く。
「約束したんでしょ。ちゃんと守らなくちゃだめよ?」
ロワールの声が甲板に響いた。
シャインはメインマストをその青緑の瞳を見開いて見上げていた。
ホープにはロワールの姿がそこには見えなかった。けれどシャインは目が痛くなるほどマストを見上げ続けていた。
「シャイン」
たまりかねてホープはシャインに呼びかけた。
船の精霊に心を寄せるシャインのことは以前からよく知っていた。
複雑な家庭環境も一因だろうが、造船所を遊び場にしていたシャインはどの船に『船の精霊』がいて、こんな話をした。もしくは誰も気づいていないが、あの船のどこそこには破損個所があって、修理する必要があると精霊が教えてくれた、とホープに語ったことがあったからだ。
だからこそ危惧していることがある。
もしもロワールハイネス号に危険が迫った時――嵐でも砲撃でも事故でも――彼女が沈むようなことになったら。
シャインはきっと船に残り、彼女を置いてはいかないだろう。
『船の精霊』の魂は「船鐘」に宿るが、体――船体を失えば精霊は存在し続けることができなくなり、消失してしまうからだ。
「……すみません」
ホープの呼びかけに気付いたシャインが気まずげに瞳を伏せている。
ホープは脳裏を過った不吉な考えを振り払った。
シャインは命名式の前の日に、ロワールハイネス号への想いを口にした。
『俺は彼女に命を救われました。だから、今度は俺が『彼女』を守ります。いえ、何があっても守ってみせます』
こんなことを考えてしまうのは、やはり『船霊祭』のせいかもしれない。
形あるものは生きとし生けるものは――いつか終わりが来る。
けれどシャインのような若者にはまだ未来がある。
「何じゃそのしけた顔は。永遠の別れじゃなかろうて。ロワールにも頼まれたから修理は最優先でやってやる。だからシャイン、お前も休める時には休むんじゃぞ」
急に生気が失せたシャインの顔をホープは苦々しく見返した。
「ありがとうございます。ロワールに寂しい思いをさせたくないので、時間がある時は来ます」
「ああ、そうしてやれば彼女も喜ぶだろうて。まあ安心してワシに預けておけばいい。ロワールはワシの孫娘が子供だった頃に良く似ておる」
ホープは再びシャインの背中を大きな掌で叩いた。
ようやくシャインが緊張が解けたように口元へ笑みを浮かべた。
◇◇◇
同時刻。海軍省の二階にある総務部の待合室は、航海を終えて帰ってきた士官や水兵、新規入隊希望者で混雑していたが、日が傾くと共に、そのピークは終わりを告げようとしていた。
ロワールハイネス号副長ジャーヴィスが待合室の緑色の扉を開けた時、濃紺のビロードの長椅子へ腰掛けていたのは十人にも満たなかった。
「なんだ……お前達、いたのか」
その声に壁際に座っていた水兵達が一斉に顔を上げた。
待合室にいたのはロワールハイネス号の乗組員だった。
「副長、ぎりぎり間に合いましたね~」
やけに馴れ馴れしく声をかけてきたのは、士官候補生のクラウスだった。
彼は椅子の上に大きな鞄を二個ものせていた。
「……家に帰るのか」
「はい。給料をもらったので、ちょっと両親へお土産を買って……それで」
少し照れたようにクラウスは頬を赤らめた。
「聞いたかい? お土産だって」
「俺はもう~お袋の顔、何年見てねぇかな……」
水兵達は少しふざけながらも、感心したようにつぶやいた。
「は、お前達も見習ったらどうだ? ほとんど酒代に消えるんだろうが」
ジャーヴィスの痛烈な批判に、水兵達は肩を落としてシュンとなった。
「……私も初任給を貰った時は、うれしくて実家へ手紙を書いたな」
ふっと鋭いジャーヴィスの瞳が細められた。あの頃を懐かしむように。
クラウスは立ち上がり、例の鞄を両手に下げた。
「じゃ、僕はこれにて失礼いたします」
「ああ、気をつけてな。たった十日ばかりだが、せいぜい羽根をのばすがいい」
クラウスはうれしそうに晴れやかな笑顔をジャーヴィスに向けた。
「副長も……いつも気苦労が絶えませんから、ゆっくりして下さい」
思ってもみなかった候補生の言葉に、ジャーヴィスは少し動揺して、言葉を詰まらせてしまった。
「あ、ああ……、そうする」
クラウスは軽くジャーヴィスに一礼して待合室を出て行った。
しばらくして、給金を手にした数人の水兵達が、一応にジャーヴィスに挨拶をして出ていった。
「……ジャーヴィス中尉」
名前を呼ばれので、ジャーヴィスは一番右端の窓口へ行った。
眼鏡をかけた四十代の女性職員が、営業スマイルをふりまきながら、彼に給与明細書の入った封筒と、赤い紐でとじられた封書の束を手渡した。
「二ヶ月分の明細と、あなた宛の手紙です」
「どうも」
ジャーヴィスは整然とそれを受け取った。
手紙の束は十通あまり。みな同じ水色の封筒だ。
かすかに、清楚なエルシャンローズの花の香りがした。
ジャーヴィスはそれらを右手に持った鞄の中へ放り込み、待合室の扉を開けた。
手紙に関しては見る必要がない。差出人もその内容もわかっている。
五年以上実家に便りを出していないのだ。妹が心配するのも当然だ。
けれどジャーヴィスは返事を出すつもりがない。
何か自分の身に起きれば海軍省が実家に連絡してくれる。
何も便りがないのは自分が無事だという証。
そう妹には告げたはずなのに――。
ジャーヴィスは軽くため息をつきながら、一人苦笑した。
「さて、久々にのんびりさせてもらうかな」




