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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第2話 かけがえのないもの
61/332

【幕間】 ささやかな反抗

挿絵(By みてみん)




 ひたひたと足首まで満ちてくる真紅の液体。

 ろうそく一本を入れたランプの薄暗い光の中で、それはまるで闇の海のようにシャインは感じた。

 屋敷の地下にある、鍾乳洞を利用して作られたワイン蔵に閉じ込められて、どれほどの時が過ぎただろう。

 事の発端は、あの男の前で、死んだ母親の事を口にしたせいだった。

 

 十四才になり、シャイン・グラヴェールはアスラトルにある、エルシーア王立海軍の士官学校へ入学することが決まった。

 アスラトルは北の王都ミレンディルアの山奥を源流とする大河、エルドロインが海へ注ぐ河口にある古い都だ。

 エルドロイン川を船で上流に遡れば王都に行くことができるので、(許可がいるが)その警備のためこの街に海軍本部が設置されている。

 グラヴェール家はアスラトルで十指に入る古い家で、代々、海軍将校を輩出していることで知られている。


 当主で父親のアドビス・グラヴェールもその例にもれず、現在参謀司令官の地位にある。

 そんな家柄であるから、一人息子のシャインが海軍へ入れられるのは必然であった。自分の意志とは関係なく決められたことだったが、シャインはあっさりとアドビスの言葉に従った。

 ひとり乗り用の小帆船は自在に操れるし、常に風を感じられる船に乗ることはとても好きなのだ。本音を言えば、軍人より気楽な商船に乗りたかったのは言うまでもない。



 その日は父アドビスが、アスラトルの<西区>にあるグラヴェ-ル屋敷へ珍しく戻っていた。海軍省本部に詰めているため、二、三ヶ月帰ってこないことはざらなだけに、その父親を客間で待たせているシャインは、自分が緊張しているのを嫌と言うほど感じていた。

 エルシーアの碧色の海が見える出窓は開かれ、潮の香りが柔らかな風と共に鼻をくすぐる。白を基調とした壁紙のせいで室内は明るく、それ故に、アドビスの黒い将官服がくっきりとした輪郭を浮かび上がらせている。

 アドビスは、まるで軍艦のマストのようにそびえる長身の持ち主で、四十を目前にしながらも、金色の獅子のようにかき上げられている髪は少しも色褪せていなかった。


 慌てて客間へ姿を見せたシャインへ、アドビスは鋭い鷹のような水色の瞳をちらりと向けた。ひきしめられた口元。眉間に寄せられた彫の深いしわ。相変わらずの無関心面。

 怒ることはあっても、アドビスが声を立てて笑うところなど、シャインは一度も見たことがない。

 いや、あの男にそんな顔があるのだろうか。

 シャインは左右に分けた前髪を、そっと右手で払った。

 淡い色の金髪と、優し気な印象をあたえる青緑の瞳をもつシャインは、アドビスにちっとも似ていない。

 自分に対するアドビスの態度はいつもそっけなく、機嫌がかなり良くないと、会話は用件のみで終わってしまう。実はわけありな親子関係だ。


「お待たせしてすみません」

 シャインが詫びる声を聞いているのかいないのか。

 アドビスの顔には何の表情も浮かんでいない。


「ぴったりに仕上がりました。立派な紳士ぶりです。いかがでしょうか?」 

 シャインの後ろから、小太りの黒髪の男が続けて部屋の中に入り、彼はアドビスに向かって会釈した。黒髪の中年男は仕立て屋で、シャインは出来上がったばかりの、士官学校の制服を身にまとっていた。白いダブル襟のコートタイプで、ウエストを黒のベルトで締めたシンプルなデザインだ。

「お前はどうなのだ。お前に不都合がなければ、それでよかろう?」

 低い、ややかすれがかったアドビスの声が、シャインの耳に響く。

「サイズは合っていると思います。動きにくい所も別にありません」

 軽く身をよじってシャインは答えた。

「ご満足いただけて光栄の至りです。シャイン様」

 仕立て屋は目元を細めて、うれしそうに微笑した。細長い指をすり合わせ、さらに深く腰を折る。

「晴れて士官学校を卒業され、任官が叶ったその暁には、ぜひとも私めに新しい軍服をご用命下さいませ」

「ありがとう。その時がきたら、お願いいたします」

 大きな黒い鞄を小脇に抱え、仕立て屋はもう一度アドビスとシャインへ頭を下げると部屋を出ていった。

 それを見送ったアドビスは、いそいそとドアへ自分も歩み寄った。


「用件は終わった。私も海軍省へ戻る」

「……あの」

 ドアのノブへ手を伸ばしたアドビスが、けげんな顔をして振り返った。

「何だ」

 その瞳は、アドビスの肩までしかないシャインを、高みから見下ろすことで圧倒的な威圧感を漂わせている。気後れしそうな自分を叱咤し、シャインはごくりと生唾を飲み込んで、だが、その視線はアドビスを見据えたまま口を開いた。

「明後日、俺は<東区>の士官学校の寮に行きます……」

「それがどうした」

 アドビスはきびすを返し、ドアのノブを回す。

「しばらくこちらへ帰ることはありませんし、自由な時間もとれなくなります。ですから」

 かすかなきしみ声を上げて扉が開く。

「一度母の墓へ行って報告をしたいのです。お願いです、場所を教えて下さい」

 シャインの視界は黒い影が落ちてさえぎられた。息を詰めて顔を上げると、自分を見つめるアドビスの目は、光を失いぽっかりとあいた空虚のようだった。


「……その必要はない」

 これまで幾度となく聞いた無情の言葉が、アドビスのかすれた声で紡がれる。

「何故です。母は俺が生まれてから、間もなく亡くなったのでしょう? どうしてその墓に行くことが駄目なのです」

 アドビスの節くれた指がぐっと握りしめられる。

 眉間の縦ジワがさらにくっきりと浮かび上がり、アドビスはゆっくりと首を振った。

「行った所で……無駄なことだ」

 シャインは胸の内に熱いものが込み上げるのを感じた。

「どうして無駄なのですか? あなたの行為は、まるで母の存在を忘れ去るような仕打ちに感じます」

「黙れ。お前に何が分かる」

「分りません。あなたこそ、俺の気持ちを分かろうとしないくせに!」

「……」

 アドビスの落ち窪んだ瞳が、一瞬鋭い光を帯びる。

 シャインは突如アドビスに、右腕を掴まれて後ろ手にねじり上げられるの感じた。

「つっ!」

 あまりの痛さにこめかみから冷たい汗が流れ落ちる。

 鷹の太い足に押さえ付けられたウサギのような心境だ。


「シャイン、私は忙しい。お前の戯れ言に付き合っているヒマはないのだ」

 背後から重苦しいアドビスの声が響く。腕を掴むそれに力が込められる。

「……一体、母の、何を、隠しているんです」

 うつむいてシャインは息を吐きながらつぶやいた。

 だが、その言葉がさらにアドビスの癪に障ったらしい。

 アドビスはシャインの背中を左手で押し、無理矢理前へ歩かせた。右手をがっしりと掴んだまま、客間を出て青いじゅうたんが敷かれた廊下を歩く。

 すれちがった執事のエイブリーが、その光景をみて立ちすくんだ。

「アドビス様! 一体何を……」

 アドビスはそれに応えず、調理場の方へシャインを引きずっていった。

 その手前にある緑の小さな扉の前に立つと、空いた左手でそれを開く。扉の奥からひんやりとした空気が出てきて、その冷たさにシャインは肌が粟立つのを感じた。

「私を煩わせるな。しばらくここで頭を冷やせ」

「……!」

 流れるような仕種でアドビスは、シャインを扉の中へ押し込んだ。

 シャインが思わず振り返り、扉の取っ手へ手を伸ばそうとした瞬間、それはぴったりと閉ざされた。

 シャインは閉じた扉を両手で叩いた。アドビスの足音が、気配が遠くなっていくのが分かる。

「……」

 声を上げかけて、シャインはそれをやっとの思いで飲み込んだ。

 アドビスの癇癪は今に始まったことではない。ただ、あそこまで怒りをあらわにした顔を見たのは初めてだった。ずきずきと痛む右肩をそっと左手でかばい、シャインはドアに背を預けたまま静かにその場へ腰を下ろした。

 ここは、屋敷のワイン蔵だ。シャインは石造りの階段の一番上の段に座っている。天井にあるろうそくを立てたランプが唯一の灯りだが、その光量は暗く、十段ばかりある階段の一番下まで照らせる程明るくない。

 周りを闇で覆われたこの場所は、うるさい子供を黙らせるには最適の場所かもしれない。

 シャインはそう考えながら、ぼんやりと暗い闇へ目を走らせた。


 グラヴェール屋敷は岬のふもとに建っていて、その下の崖にはいくつも洞窟が口を開いている。その洞窟の一部が屋敷の地下でつながっており、初代当主がワイン蔵として改造した場所だった。

 蔵の壁は天然の鍾乳石で、中を満たす空気は心地よい冷気を伴っている。だが、汗に濡れた肌がどんどん冷たくなり、息を吸い込む度に、身体の内をもゆっくりと凍らせていくようだ。

 シャインは足を抱えながら、膝に顔を埋めた。

 頭どころではない。すぐさま凍えるというほどではないが、このまま何時間も閉じ込められるなら、体はすっかり冷えきってしまうだろう。


 どうして自分がこんな目にあわなければならないのか。まったくもって理不尽だと感じる。アドビスは、死んだ母親の事を口にすると、何故か機嫌を悪くした。すぐ変化する山の天気のように。

 だからその事はなるべく触れないように気をつけていた。本当は何が原因で死んだのか知りたいし、どんな人だったのか聞いてみたかった。

 けれど尋ねてみたところでアドビスが、母親の事を話すことはまったくなかった。先程のように。

 考えれば考える程、アドビスに対する怒りがシャインの胸の内で沸き起こった。



 シャインはゆっくりと立ち上がった。後ろを振り返り、扉を内から閉めるかんぬきの木の棒を、真横へさし渡す。外から開けようと思っても、これを外さない限り扉は開かない。そして、暗いろうそくの灯りを頼りに、慎重にワイン蔵の階段を下へ下りていく。

 

 辺りはまったく闇の中で、どこに何があるのかおぼろげにしかわからない。

 シャインは、は虫類の皮膚のように冷たい石壁を伝って、ワイン蔵の奥へ歩いていった。

 そこには棚が置いてあり、上下二段のそれには、シャインの背ほどある樽が十個程並べられていた。

 シャインは樽の前に行き、手探りで栓を探した。目指すそれを見つけ、ためらうことなく引き抜く。

 一瞬くらっとするほど濃厚で甘酸っぱい香りがしたかと思うと、栓が抜かれた樽からごぼごぼとワインが流れ落ち出した。傷口からあふれる血液のように。

 シャインは続けて隣の樽からも栓を引き抜いた。同じような音を立てて、ワインが流れていく。

 蔵の奥にあったすべての樽の栓を抜き終わり、こもってきたワインの香りにむせながら、鍾乳石の冷たい石壁を伝い、今度は反対側の棚の前に行った。

 手探りを繰り返し、ざっと五十本ほど横向きに並べられたワインのビンを見つけると、それを一本引き抜く。


「派手にいくか……?」

 鼻で小さく笑い、シャインは無造作に前方の闇の中へ放り投げた。

 ガラスが砕ける耳障りな音が、わんわんと蔵の中で反響する。

 また一つ、ビンを手にする。

 放り投げる。石床にビンが落ちて、砕け散る。

 むせ返るワインの濃厚な香りのせいか。

 ビンの割れる音は一種の音楽のようで、実に甘美だ。

 今度は反響する音が途切れないうちに、次のビンを取って遠くに投げる。

 何と心地よい響きであろう。

 

 ドンドンドン!


 ビンを割る音に混じって、ワイン蔵の扉を激しく叩く重い音が聞こえる。がなりたてる群集のように、実に騒々しい。


「シャイン様、一体何をしているのですか!」


 シャインは構わず手にしたビンを放り投げる。

 あの騒がしい音を消し去るために。今度は両手に一本ずつ持ち、階段に向かって投げ付けてみる。

「うわっ……!」

 自分の小さい手にそれは負荷がすぎたのか、投げた反動で体が前のめりに倒れた。床は樽から流れ落ちているワインで満ちていて、口に入ったそれに息が詰まりそうになった。

「ゴホッ! ゴホッ……」

 手を付いて必死に顔を上げる。辺り一面ワインの海だ。

 口の中を切った時のような、錆びた鉄の味のそれを少し飲んでしまった。アドビス達大人が、どうしてこんなものを好んで飲むのか理解できない。シャインは、えも言われぬ吐き気に襲われながら、ひやりとする石壁に手をつき、何とか体を支えた。


「ここを開けて下さい!」

 執事・エイブリーのヒステリックな声が聞こえた。女の悲鳴の様にも聞こえる。扉を狂ったように叩くその音が、頭に響いて割れるように痛い。

 棚を探る手に触れたワインのビンをしっかり握りしめて、シャインは階段めがけて投げ付けた。

 砕け散るビンの音。それにあわせて低く笑う。


「俺は閉じ込められたんだ。どうして、俺が、自分で、開けることが、できるのかい?」


 もう一つビンを放り投げ、それが砕ける音に唇をゆがめながら、ろうそくの光に照らされたドアを満足げに見つめる。

 鍵は外からしかかけられないが、内側はかんぬきを下ろせるようになっている。かんぬきは扉の真横に渡された木の棒で、それは外から開かれるのをしっかりと阻止している。

 いらいらと扉の取っ手を回す音。口々に自分を呼ぶ数名の使用人の声。

 それを聞きながら、シャインは自分が間違っているなんて、これっぽちも思わなかった。

 すべては、ここに閉じ込めたアドビスが悪いのだ。

 うるさい子供を黙らせるために、あの男が自分で放り込んだのだ。

 都合の悪い話を聞きたくなくて閉じ込めたのだ。

 ここに閉じ込めたことが正当だなんて、絶対に思わせたくなかった。

 

「早く開けたらどうだい? 急がないと、当主の大事なワインを、全部駄目にしてしまうよ?」


 絶句する執事のうめき声がした。当然だろう。このワイン蔵に入っているそれらは、歴代当主達が集めた年代物も眠っている。

 どうでもいいことだ。自分にとっては。

「シャイン様、お止め下さい! そんなことをして、一体何になるのです! 第一危のうございます! お怪我でもされたら私は……!」


 返事の代わりにビンを放り投げる。あっさりとそれは砕け散った。

 むせ返るワインの香りがさらに強くなったようだ。樽のくすぶった古い臭いと相まって、空気を吸うと胸が苦しい。

 何故か不安定に揺れる体に違和感を感じながら、手探りでワインのビンを探すと、棚には今触った一本しか残っていなかった。

「これで終わりか。つまらないな……」

 ビンを右手に持ち、ワインの海に体を晒すのが嫌で、下から四段ばかり階段を上がると、シャインは腰を下ろした。

 体は冷えきっているのに、何故か気分だけは高揚していた。ワインの香りのせいで酔ってしまったのかも知れない。

 手にしたビンを横向きに置いて、シャインは膝を抱えた。

 アドビスはきっと後悔するはずだ。自分をここへ閉じ込めたことを。

 自分は、いつまでも大人しく言うことを聞く、小さな子供ではないのだ。

 

 冷たくなった手から力が抜けて、ワインのビンが横向きのまま階段を転げ落ちていった。澄んだ音を響かせながら。

 顔をあげた時、それはすでに闇に飲まれて、ビンが砕けるような音を聞いた気がした。

 そして、すべてが唐突に何も見えなくなった。感じなくなった。

 寄り掛かった壁の冷たさも。なにもかも。




   ◇◇◇


『お前がこんな馬鹿なことをするとは、思わなかった』

 どこか遠くの方で自分に話しかける、低い、かすれ気味の男の声。

 シャインは未だ沈む意識の淵で、なんとなくそれを聞いていた。

 ワイン蔵から出してもらえたみたいだが、恐らく執事がドアを斧で叩き壊したのだろう。内側からかんぬきをかけておいたのだから、そうでもしないと開けられるはずがない。


『どこまで私を困らせる……』

 小さな嘆息。


 アドビスがシャインのベッドへ近付く気配がして、先程よりもその声が近く、明瞭に聞こえた。

 

『そんなに知りたいのなら、教えてやろう。私がお前の母を死に追いやった。私があのひとを殺したのだ。だから彼女の事を聞かれるのは、非常に不愉快だ。けれど……』

 ベッドの傍らへ膝をついたアドビスが、そっとシャインの額に手を触れ、節くれたごつい指で髪をすいていく。

 思いがけないその行為と告白に、シャインは身を強ばらせていた。目を開けることが怖かった。

 ここにいるのは、本当にアドビスなのだろうか。心臓の鼓動が早さを増して、シャインはえもいわれぬ不安で一杯になった。


 その時、アドビスが何かをシャインの手の中に握らせた。

 冷たい金属の輪の感触がする。――指輪。


『今回だけは私の負けを認めよう。リュイーシャの形見だ。お前が持つがいい。だが、二度とこんな手が、私に通じると思うな』

 きつい口調とは裏腹に、触れているアドビスの手はとても温かかった。

 あの冷たいワイン蔵へ引っ張っていった時のような、荒々しいそれとはまったく違う、大きくて優しい――父親の手。

 

 シャインは指を動かし、そっとアドビスの手を握りしめた。

 振り解かれると思ったそれは、いつまでもシャインの手を包み込むように、放さないでいてくれたのだった。

 心地よい、穏やかな眠りに落ちていくまで。




【幕間】ささやかな反抗 ―完―


                ・・・第3話へと続く






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