【第2話・後日談】 奇跡の赤(終)
シャインがロワールハイネス号に戻ったのは、間もなく19時がこようかという時間だった。
ストーム一味の最後の一人を馬車で海軍の詰所まで連行した時、すでに18時を30分も過ぎていた。
それから軍港の詰所からロワールハイネス号が係留している突堤まで、全力疾走で約15分。
「すまない。遅くなった」
ジャーヴィスは遅刻をするのもされるのも嫌う。
だが彼は、今宵の主役が不在なまま祝宴を始める男ではなかった。
パーティーの開始時間は18時だったが、予想通り彼は水兵達と共にシャインの帰りを待っていた。
「お帰りなさい。艦長!」
出迎えたクラウスの明るい声で、甲板に座り込んでいた水兵たちが一斉に舷門に姿を現わしたシャインの方を向いた。
「ありがてぇ。やっと酒が飲めそうだぜ」
「こら、お前、不謹慎だぞ」
隣の大男をたしなめたのは、右手を白い布で吊ったシルフィード航海長だった。
ストーム一味から痛めつけられたせいで顔は全体的に腫れており、まだ青アザがそこかしこに目立つが、至ってその口調は元気そうだ。
「もっとも、俺も早く飲みたくてうずうずしてたけどな」
白い歯を見せてシルフィードはにやりと笑った。
「さ、早く早く」
クラウスがシャインの航海服のケープを引っ張る。
「あ、ちょっと待ってくれ。走ってきた……から、息が切れちゃって」
シャインは両手を後ろに回して、舷側に背中を向けるようにして甲板を歩いた。この籠の中の酒は彼等に見つかってはならない。申し訳ないが。
ロワールハイネス号のメインマストとミズンマストの間の開けた甲板には白いテーブルクロスがかけられた机が用意され、ジャーヴィスが腕を振るったとみられる料理がずらりと並んでいる。一際目につくのはパンケーキを10枚以上重ね、その間に生クリームと木苺を挟んだ塔のようなケーキだ。
机には蝋燭を灯した燭台が十個ばかり机の上に置かれていた。その揺れる黄色い光に照らされて、人数分のグラスがまばゆく光り、乾杯の時を待っている。そのかたわらには酒のビンが入った木箱がちゃっかり三つほど並んでいた。
「よかったー。私、乾杯もせずに帰らなくちゃならないかと思ってたわよ。グラヴェール艦長」
ミズンマスト側の奥の場所で、航海服姿のリーザが少し皮肉をこめてシャインに言った。彼女の隣には、ジャーヴィスが立っている。
渋面を作っていると思っていたシャインの予想に反して、ジャーヴィスはそういう顔をしていなかった。恐らくリーザが、シャインが帰ってくるまで場をつないでくれたのだろう。
「私用が長引き戻るのが遅れました。すみません、マリエステル艦長」
シャインは後ろ手に持っていた籠を、舷側に束にしてまとめられた上げ綱の側にすばやく置いた。ここなら甲板が薄暗いこともあり、影になって誰も気付かないと思ったからだ。
「ええと。私、本当にぎりぎりの時間しかないわ」
リーザの視線は物欲しそうにパンケーキの塔へ注がれている。
「じゃ、すぐ始めないと。皆、本当にすまなかった。さ、めいめいグラスに酒をついでくれ」
「待ってました!」
歓声と共に水兵達が手を叩く。
「えっ……?」
シャインはしばし目を疑った。
水兵達は何時の間にか、ワインの瓶をめいめい手にして、乾杯の音頭がかかるのを待っているのだ。こぼれおちそうな満面の笑みで。
あのクラウスでさえも、シルフィードの隣で酒の瓶を持ち胸を張っている。知らなかったが、どうやら彼はかなりな酒豪のようだ。
「は、はは……。いいね、それ」
シャインは彼等に圧倒されつつ、自分も近くにあったワインの瓶を手にした。
「グラヴェール艦長?」
シャインのグラスに、リーザが差し入れに持ってきたワインを注ごうとしていたジャーヴィスが硬直した。
「だって、こっちのほうが景気良さそうでいいじゃないか」
シャインは同意をうながすように、リーザとジャーヴィスへ微笑した。
「そうね。私も瓶ごといっちゃおうかしら。ほら、ジャーヴィス、あなたも」
「えっ? 私もですか!? あ、はい」
ジャーヴィスはグラスを置いてワインの瓶を握り直した。
ワイン通の彼には我慢がならない飲み方かもしれない。けれど。
どうにでもなれ。苦笑を浮かべた彼の顔にはそう書いてあった。
料理の置かれた机を全員で囲み、シャインは酒の瓶を高々と松明のようにかかげた。
「これにてストーム拿捕の任務を完了する。お疲れさま。乾杯!」
「乾杯!」
ロワールハイネス号の甲板に、勝利を祝って酒瓶を打ち鳴らす音が響き渡った。
「私もお邪魔したいけど。今回は船らしく、黙って皆が楽しそうにしている所をみているわ」
ロワールはミズンマストの帆桁の上に立ち、下で行われている祝宴を一人ながめた。その姿はやがてしっとりした夜気に紛れ消えていった。
◇◇◇
甲板では依然、水兵達が酒盛りを続けている。
彼等の間では誰が最後まで酒を飲み続けられるか、地味で無意味な戦いが繰り広げられている。
「悪いけど俺はもう休むよ。当直は今夜なしにするが、明日の朝直はちゃんと立ってくれ」
「了解しましたー」
水兵達は機嫌良さそうにシャインへ手を振った。
多分、シャインの言った事を朝まで覚えてはいないだろうが。
シャインは祝宴が始まる前にこっそりと隠しておいた籠を、上げ綱の束の影から取り上げた。
ジャーヴィスは今ロワールハイネス号にいない。
もう40分ほど経つが、リーザをファラグレール号まで送っていったのだ。
軍港の敷地内とはいえ、女性を一人で深夜出歩かせるのは好ましくない。
最初からジャーヴィスに行かせるつもりだったが、実は本当に彼以外に適任者がいなかった。
何しろシルフィードもクラウスも、すっかりへべれけになってしまい、今は二人してメインマストの根元にもたれ眠り込んでいる始末だ。
シャインはメインマストの後ろにある後部ハッチの扉を開けて、一人下甲板へと下りていった。
階段を下りた突き当たりはシャインの艦長室の扉があるが、そこには入らず、右舷側の扉の方へ足を進める。
そこはジャーヴィスの個室だった。
彼が鍵をかけていなければ良いが。
把手を手前に引いてみると、扉は音もなく開いた。
「失礼するよ」
部屋にジャーヴィスがいないのはわかっているが。
でも声をかけて中に入る。
ロワールハイネス号で個室を持っているのはシャインとジャーヴィスだけだ。けれどジャーヴィスの部屋は窓がなく、シャインのそれと比べるとかなり狭い。
吊り寝台と小さな机と椅子が一つ。壁にはフックが打ち付けられていて、しっかり糊のきいた彼の航海服がひっかかっている。
シャインは机の上の蝋燭に発火石をこすりあわせて火を灯した。
そして籠からアバディーンにもらったワインの瓶を取り出した。
こんなもので埋め合わせはできないけれど。
今の俺にできる事はこれぐらいしかない。
シャインはワインの瓶を机の上に置くと、蝋燭を静かに吹き消した。
ジャーヴィスの部屋を出て誰もいない事を確認し、そして艦長室に入った。
船尾の四角い窓から入る双子の月の光のせいで、部屋はぼんやりとした青い闇に包まれている。
「おっと」
シャインは足をとられて、応接用の長椅子に座り込んだ。
どうやら自分の部屋に入ったことで気が弛んだらしい。
それに左手の切り傷が疼くので、痛みを紛らわすために嫌いなワインを1本も開けてしまったせいだろう。
そうじゃないとワインなんか飲めるか。
腰を下ろした長椅子はまだ新しくて柔らかく、シャインを心地よい眠気に誘う。
すっかり長椅子で寝てしまう習慣がついてしまったが、ここなら仕方ないのかもしれない。都合良くクッションも置いたままだ。
それを手元に引き寄せ、夢を見ない眠りに滑り落ちかけた時――。
誰かが艦長室の扉を叩く音がした。
シャインは反射的に目を開いた。
基本的にシャインの眠りは浅い。船乗りの職業病みたいなものだ。
航海中、風が変わったら、それが就寝中でも乗組員は総員甲板へ上がり、帆を張り直す作業をしなければならない。一度で済む事もあれば、寝床についたとたん、再召集がかかることもある。
ロワールハイネス号の艦長になった今、シャインが夜中に起こされる事は滅多にない。だが長年ついた習慣は、すぐには抜けないものだ。
「誰だい?」
けれど今夜は酒を飲んでいるせいか、身を起こしてもすぐに目蓋が塞がってくる。
「ジャーヴィスです。失礼します」
「……」
部屋が明るくなった。ジャーヴィスが応接机のランプに持ってきた蝋燭で火を灯したのだ。
シャインは眩しげに目を細めた。
「何か急用かい? 明日でもいいなら、そうしてくれたほうが……」
「いえ。それでは私の気が済みません」
ジャーヴィスは先程シャインが彼の部屋の机の上に置いたワインを手にしていた。
「私の部屋に戻ったら、机の上にこれが置いてありました。けれどパーティーの前にこのワインはありませんでした。これを下さったのは艦長、あなたでしょう」
ジャーヴィスはそっとワインの瓶を机の上に置いた。
シャインは長椅子に腰掛けたまま、ジャーヴィスの視線を静かに受け止めた。
「まあ、座ってくれ。――何故俺だと思った?」
ジャーヴィスは机を挟んだシャインの向いの肘掛け椅子に腰を下ろした。
あの冴え冴えとした青い瞳で、真っ向からシャインを見据えている。
「マリエステル艦長をファラグレール号まで送る時、詰所の検問で聞きました。あなたは逃亡していたストーム一味の海賊を捕まえたそうですね。その時に応対した中尉が話してくれましたよ。冗談であなたに『そのワインを差し入れで下さい』と言った時、あなたは『これは部下への土産だから駄目だ』と言ったそうですね」
シャインは肩をすくめた。
そんな所で自分の所行がばれるとは思わなかった。
シャインは詰所で応対した中尉を恨めしく思った。けれどすべてがばれた今、ここは潔く腹をくくるべきだろう。
「ああ、そうだよ」
ジャーヴィスはさらに瞳を細めた。
「ワインの事もお聞きしたいですが、それよりも艦長。ストームの手下に会った事をどうして話して下さらなかったんです? ルシータ通りで出くわしたそうですが、何故あんないかがわしい場所に行かれたのです? 左手の怪我だけでは済まなかったかもしれないんですよ?」
「それは……」
シャインはますます詰所の中尉を呪いたくなった。
調書に書くため、あの副頭領を捕らえた場所を告げたが、そこまでジャーヴィスに話してしまうとは。
いや。驚いたジャーヴィスが、詰所の中尉に事情を話すよう強要したのだろう。その光景が目に浮かぶようだ。
シャインは目眩を感じて右手を額につけた。
「あの中尉は軍規違反だ。部外者に許可もなく罪人の事を話すなんて……」
「私は部外者ではありません。あなたの部下です」
シャインは呻いた。
これほど上官を追い詰める部下が他にいるだろうか。
「悪い。飲み過ぎて頭が痛い。この話は明日また……」
「申し訳ありませんが、それをお聞きするまで帰りませんし、こちらのワインも出所が判明するまで受け取るわけにはいきません」
ジャーヴィスは鉄壁のようにシャインの前にあった。
自分の言った事をそのまま跳ね返すような――堅固な壁。
――この偏屈め。
何も聞かず素直に受け取ってくれればそれでいいのに。
けれど自分がジャーヴィスの立場だったらどうだろう?
シャインは大きく溜息をついた。
確かに部屋に見覚えのないワインがあれば、誰だって薄気味悪いと思うに決まってる。
「ジャーヴィス副長。わかったよ」
シャインはすっかり観念してジャーヴィスに話した。
「君には処女航海の時からずっと迷惑をかけてばかりだ。俺はその埋め合わせがしたくて、何か君の気に入るものを贈ろうと思った」
「……えっ」
眉間をしかめていたジャーヴィスが小さく驚きの声を発した。
「今日、マリエステル艦長の所に行った時、彼女に教えてもらったんだ。君はワインが好きで、908年に作られたアメリゴベスの赤ワインを探しているってことを。だから俺は、もしもそれが見つかったら是非買って帰ろうとジェミナ・クラスの酒場をあちこち訪ねた」
「艦長……まさか、それでルシータ通りまで行かれたんですか?」
シャインはうなずいた。
「いろんな人に908年の赤はないって言われていたから、ふと闇市ならあるかもと思ったんだ。でも、偽物をつかまされるのが関の山と思って、やっぱり行くのをやめた。そしたらその帰りにストームの手下と出くわした」
ジャーヴィスが呆然とした眼差しでシャインを見た。
固く結ばれた唇が僅かに震えている。
「私は確かにリーザにワインのことを話した覚えがあります。でもそれは、908年のアメリゴベスの赤は、10年前に老舗の料理屋『帆柱亭』の主人がすべて買い占めてしまい流通はしていないこと。一度も『帆柱亭』へ行く事ができず、そのワインをまだ飲んでいないのに、在庫がなくなってしまったことが辛い、そう彼女に言ったのです。だから」
ジャーヴィスはおもむろにうつむいた。
「申し訳ありません、艦長。私のためにあなたは……」
「ジャーヴィス副長。顔を上げてくれ。これは俺が勝手にやったことだからもう気にしないで欲しい。それよりも、こっちのワインの話をしようじゃないか」
シャインは机の上に置いてあったワインの瓶を手にとり、そのラベルに書かれた年号がジャーヴィスに見えるように向けた。
ワインの瓶の色は黒だが、ランプの光に当たった場所は仄かに赤く光っている。
ラベルは洒落た羊皮紙みたいな紙が使用され、赤い宝石のような房を幾重にも垂らした、黄金の葡萄の絵が描かれている。
顔を上げたジャーヴィスは、それこそ固唾を飲んでワインの瓶を見つめていた。
「どこで、これを手に入れられたのですか?」
ジャーヴィスは明らかに驚いている。
傍目からみてもそれは顕著にわかった。
どうやらこのワインもジャーヴィスには心惹かれるものがあるようだ。
シャインは内心アバディーンに感謝した。
「今日アバディーンさんにストームを捕まえた報告に行った時、お祝いでこのワインを頂いたんだ。でも俺はワインが苦手だ。だから折角いいものを貰ったから、君に飲んで欲しいと思ったんだ。それだけだよ」
「アバディーン……」
ジャーヴィスの声が震えている。
「俺の話はこれで終わりだ。もう何も隠してない。そしてこのワインは君のものだよ、ジャーヴィス」
「艦長。あなたはこのワインがどれほどの価値があるか知らないんですか!?」
興奮を抑え切れなくなったのか、ジャーヴィスが椅子から身を乗り出してシャインに詰め寄ってきた。
「えっ。あ、どうも珍しいワインみたいだね。アバディーンさんいわく、このワインは今年の七の月まで飲んではいけないと、作った醸造家が遺言として遺したとか遺さないとか」
ジャーヴィスは大きくうなずいてシャインの顔を見ると、熱にうかされた様子で話し出した。
「ええ。その通りです。エルザリーナは自分の故郷、アメリゴベスを愛した女性醸造家でした。彼女は美味しいワインを作る事を生涯の仕事と定め、そして誰もが魅了される素晴らしいワインを作ったのです。彼女のワインは評判を呼び、それは遠く離れた王都ミレンディルアにいるエルシーア国王の耳まで届きました。エルザリーナのワインに魅せられた国王は、彼女に自分のためのワインを作るよう命じました。918年は王の一人娘、ミュリン王女がお生まれになった年なので、そのお祝いも兼ねて最高の赤ワインを作るよう、エルザリーナに言ったのです。ですが……」
ジャーヴィスは乗り出していた身を再び椅子の背に預けた。
「エルザリーナには弟子が一人おりました。彼女の甥でジャムスという男です。だがこの男は、エルザリーナに師事してかれこれ一年が経つというのに、一向にワインの醸造を手伝わせてくれないことを不満に思っていました。
今回エルシーア国王の為に作るワインも、エルザリーナはただの一度もジャムスに触らせませんでした。ジャムスの不満は更に募り、彼はこっそりとワインの醸造樽の中にアマルドの実を入れたのです」
「アマルドの実? 何だい、それは」
ジャーヴィスの話に耳を傾けていたシャインはつぶやいた。
「見た目は葡萄に似てます。アメリゴベスの丘陵地帯の森に自生する植物で、金色の蔓と葉を持ち、赤い宝石のような果実をつける美しい植物です。けれどその実には毒があって、一粒口にするだけで心臓が止まり死に至ります」
「……毒。それで?」
シャインは眠気も忘れ、ジャーヴィスに話の先をうながした。
「国王に製作を依頼されたワインは、既に寝かせるだけの段階までできていました。でも、ジャムスが王宮に密告したのです。エルザリーナのワインには毒が使用されている。国王を殺すためにあの女はワインを作っていたと。
すぐさまエルザリーナは捕えられ、王の審問官の所で厳しい取り調べを受ける事になりました。件のワインの樽も王都へ運ばれ検分が行われました。家畜に与えて毒味をする前に、栓を外すと樽から強い酸味を帯びた臭いがたちこめ、立ち会った役人が何人も倒れたそうです。これは通常のワインではありえないことです。すぐさま全部の樽が廃棄され、エルザリーナも王を毒殺しようとした罪で死刑が執行されることが決まりました」
「ちょっと待ってくれ、ジャーヴィス。全部の樽が廃棄されたって? じゃ、ここにあるワインは一体なんだい?」
シャインは卓上に置かれたワインの瓶を見つめた。
ジャーヴィスの冷たい瞳に一筋の仄かな光が浮かんで消えた。
「エルザリーナは他にもワインを作っていました。ただ、王に献上するワインで彼女のワイン蔵が塞がってしまったので、ジェミナ・クラスのアバディーン商会から酒蔵を借りて、そこで作っていた数樽が運良く残っていたのです」
アバディーンと聞いてシャインは驚いた。
あの社長は貴重なエルザリーナの最後のワインを守った人物だったのだ。
「でも、話はこれで終わりじゃないんですよ。グラヴェール艦長」
めずらしくジャーヴィスが目を細めてシャインを面白そうに眺めていた。
「終わりじゃないって?」
ジャーヴィスは椅子に背中を預け、机の上のワインを物憂げに見つめた。
「エルザリーナはジャムスにはめられた事を知ってましたが、アマルドの実をワイン樽に入れた事は認めたのです」
シャインは目を見張った。
「どうして……?」
「エルザリーナのワインは『奇跡の赤』ともいわれます。見ればわかりますが、血のように赤く、けれどどこまでも透き通った美しい色をしています。彼女は獄中で手記を綴っていました。それを読んでわかったことですが、彼女はこの色を出すために、葡萄の他にアマルドの実を入れてワインを作っていたのです」
「何だって? じゃあ……」
ジャーヴィスは静かにうなずいた。
「そうです。エルザリーナの作るワインには、最初からアマルドの実が使われていたのです。この実は唯一アメリゴベスに自生する植物で、血のように赤い。エルザリーナは故郷を愛するが故に、この色にこだわってワインを作っていたそうです」
「でも。アマルドの実には毒があるんだろう?」
「ええ。だからエルザリーナは弟子のジャムスにワインの製作過程を見せなかったんです。誤解を招く事を怖れたんでしょうね。けれど彼女は知っていました。アマルドの実は葡萄と発酵させることで、生じたアルコールがその毒性を飛ばしてしまうことを。年数が経つにつれて毒は薄まり、最終的には消えてしまう事を」
シャインはまじまじとワインの瓶を見つめた。
それほど貴重なものとは知らなかった。
「ということは、毒が消える年数が、約10年ということになるんだね。彼女の遺言では今年の七の月に飲むようにといわれている」
「そうです」
あっさりジャーヴィスが答えた。
シャインはそのすました顔を眺めながら、内心彼のワインの知識の深さに舌を巻いていた。
「ジャーヴィスって、本当にワインに詳しいんだな。驚いたよ」
「いいえ。驚いたのは私の方です。このワインが机の上にぽつんと置かれていたのですから」
ジャーヴィスは再び体を前に乗り出した。
「アバディーン商会はこのワインを1本600万リュールで売ってます」
「ろ、600万?」
海軍大佐の年俸と、この1本のワインが同じ値段とは。
ジャーヴィスが慌てて艦長室にやってきたことに、シャインはようやく納得した。
「まあ値段は法外だと思うけど、そんな事情なら仕方ないね。アバディーンさんも本当に商売が上手いよ。普通、エルザリーナが捕えられた時点で、預けられたワイン樽も処分してしまいそうな気がするんだけどな。それをとっておくなんて」
シャインはあの恰幅のよい好々爺を思い出して目を閉じた。
「アバディーン氏はエルザリーナにワインを作らせるため、資金援助をしていたそうですよ。彼女の作るワインの味を知るが故に、大切に今日までとっておいたんだと思います」
そっとジャーヴィスが立ち上がる気配がした。
シャインは再び目を開けた。
「どうです? 艦長。折角ですから、このワイン開けてみませんか?」
シャインは微笑しながらうなずいた。
「これは君のものだ。ジャーヴィス副長。君がそうしたいのなら、そうすればいい」
ジャーヴィスがはにかみながら目を伏せた。
「ありがとうございます。エルザリーナの『奇跡の赤』をこの目でみられることができるとは思ってもみませんでした。それでは、ちょっとグラスをとって参ります」
ジャーヴィスはそそくさと艦長室を退出し、数分と経たないうちに戻ってきた。右手に携えた銀の盆には小振りなグラスが二つ載っている。
そしてエルザリーナのワインの瓶を手にとり、それを感慨深げに眺めた後、注意してコルクを抜いた。
「じゃ、注ぎますよ」
慣れた手付きでジャーヴィスがグラスにワインを注いだ。
ランプの光が『奇跡の赤』と評されつつも、汚名を被せられ不遇の死を遂げたエルザリーナの遺作を優しく照らし出す。
血のように純粋な赤色。その液体は硝子のようにどこまでも透き通り、立ち上る薫りは採れたての葡萄のようで、目眩がするほどの瑞々しさに溢れている。
グラスの中で真紅のワインが踊る。そのさざめく光にシャインは暫し目を奪われた。これほど心が揺さぶられるような赤色を見たことがあるだろうか。
「海に沈む夕日のように綺麗だ」
「そうですね……本当に、美しい赤だ」
ジャーヴィスとシャインは目でワインを楽しんだ。
後は飲むだけだが、シャインはジャーヴィスが一向にグラスに口をつけようとしないことに気がついた。
「遠慮せずに飲んだらどうだい?」
「ええ……」
ジャーヴィスはためらいがちにそう答えた後、けれど何かひっかかるのかグラスの酒をただ見つめるばかりだ。
「何か気になる事でも?」
ふむ……。ジャーヴィスが口元に左手を添えて、小さく唸る。
「ふと思ったんですよ。アマルドの実の毒性は、本当に10年で消えてしまったのだろうかと」
シャインはグラスを取り落としそうになった。
すっと顔から血の気が引いていくのがわかる。
「エルザリーナがそう言い残したんだろう? それにそんな危険性があれば、アバディーンさんがこれを俺にくれるはずがないし、600万リュールという法外な値段で売る事もない」
しかしジャーヴィスは真面目な顔でシャインを見返した。
「でも万が一、ということもありますよ? この酒はエルザリーナの酒蔵で作られたものではありません。アバディーン商会の酒蔵に10年寝かされていただけなんですから。保管されていた条件によって、樽ごとに発酵の度合いが違う事も考えられます。だから……」
シャインはジャーヴィスの言わんとすることを理解した。
「毒性が残っているかもしれないというのか?」
ジャーヴィスは眉間に皺を寄せて深くうなずいた。
「私はその可能性があると考えます」
「じゃ、俺が先に飲もう」
「グラヴェール艦長、ま、待って下さい!」
血相を変えてジャーヴィスがグラスを手にしたシャインの右手を掴んだ。
そのまま押し付けるように、無理矢理机の上にグラスを置かせる。
「なんでそうなるんですか! 毒味をするなら私の方が先です」
シャインは首を振った。
「このワインをもらってきたのは俺だ。だからまず俺が安全を確かめてから君が飲むべきだ。手を離してくれ、ジャーヴィス」
シャインの言葉にジャーヴィスの顔が引きつる。
「あなたにそんなことをさせる訳には参りません」
「俺だって君にそんなことをさせるわけにはいかない!」
ジャーヴィスとシャインは互いを睨みつけ、机の上で互いの手に握られたグラスをもう片方の手で押さえ合うという、実に奇妙な格好を続けた。
「……何時までこんなことを続けるつもりですか?」
絶対に馬鹿げている。
ジャーヴィスの唇は歪んで引きつり震えている。
シャインもそれは思っていた。
「じゃ、一緒に飲むかい? 捨てるには惜しいワインだし、俺はアバディーンさんにこれを大切に飲むと約束した。このワインはジェミナ・クラスの海運業を営む人々からの、ストームを捕まえた俺達に対する感謝の気持ちがこもっている」
シャインはジャーヴィスに微笑した。
そう。
そんな善意の酒に毒なんか入っているはずがない。
険しい氷のような表情をしたジャーヴィスが、その面をふと和らげた。
「いいでしょう。あなたがそこまで言われるのなら」
「よかった。いい加減手が痺れてきたからね。おっと、手を離した途端、先に飲むのはなしだよ」
ぴくりとジャーヴィスの頬が引きつった。
「それはあなたでしょう? あなたこそ誓って下さい。抜け駆けしないと」
シャインはジャーヴィスの瞳を見据え、力強くうなずいた。
「ああ、しない。じゃ、離すよ」
ジャーヴィスとシャインは再び互いを睨み付けたまま、ゆっくりと互いを押さえ付けていた手を離した。
そして同時にグラスに唇をつけた。
味わう事など考えず、一気に喉に流し込む。
シャインは目の前で星がちらつくのを感じた。同時に濃厚な葡萄と薔薇のような香りが口の中に広がり、喉が焼けるような熱さを感じた。
「……どうだい? ジャーヴィス。気分は?」
ジャーヴィスもグラスの酒を干して、一瞬焦点が定まらないようにシャインの顔を見つめていた。だが彼は冷静に空になったグラスを机の上に置いた。
「どうやら大丈夫みたいです。グラヴェール艦長」
「そう……それは、よかった」
シャインはジャーヴィスに笑ってみせた。
そして彼の顔が不意に闇に溶けたことも気付かず、長椅子の上に倒れ込んだ。
「ふう……。確かにこれほどアルコールが強ければ、毒も何もふっとびそうだな」
疲れたようにジャーヴィスも椅子に腰を下ろした。
安堵の息を吐いて、すでに小さな寝息を立てている年下の上官へ、ほとほとあきれたような笑みを浮かべて眺める。
「このワインは確かに10年経ってから、瓶に詰められたようです。コルクが新しかった……。もしもコルクがぼろぼろになっていたら、気化できない毒が酒の中に残っていますから、私はすぐさまこのワインを叩き割っていたでしょう」
ジャーヴィスはワインの瓶に手を伸ばした。
――あなたの善意と贈り物に感謝します。
奇跡の赤が再びジャーヴィスのグラスの中で鮮やかに踊った。
【第2話・後日談】奇跡の赤 ―完―
・・・幕間へ続く




