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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第1話 レイディ・ロワール
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1-5 黄昏の邂逅

 エルシーア王立海軍造船所。

 それが設置された歴史は古く、アスラトルの街がエルシーアという国に統合される二百年前からあった。


 現在の規模はアスラトルに十か所ある造船所の中でも最大の敷地面積を誇る。

 エルドロイン河の河口から東岸にそって、大型船を建造する船台が五つ並んでいる様は圧巻ともいえる。


 造船所はぐるりと赤茶けたレンガの壁で取り囲まれていて、アスラトルの中にできたもう一つの街といっていい。船は大きければ大きいほど建造に年単位の時間がかかるので、造船所で働く船大工やロープ職人。木挽き工、鋳物職人、帆を造る縫製職人などが、その敷地内に家を建てて住んでいる。


 造船所で船大工達をまとめるのが、船匠頭のホープだ。彼の家は設計士たちが詰めている事務所の隣にあり、他の職人達と同様、船を造る時に出た端材で建てられた一軒家だった。その出入口の梁の上には、おそらく樹齢四、五十年の立派な楡の一枚板が、アーチを描いてはめ込まれている。本来なら船の船腹に使用する部品だと思うが、乾燥が不十分か何かの理由で廃材になったのだろう。木を知りつくしたホープは、端材とはいえど良いものばかりを選んでいる。


 療養院を出たシャインは約束通り、造船所内のホープの家で寝起きしながら、例の小型船の建造に参加した。

 そして半年が過ぎた。



 ◇



 尖塔が建ち並ぶアスラトルの街は黄昏色に染まっていた。

 海軍施設と商業施設が集まる東区と、領民達の居住区である西区に街を分断する大河エルドロインも、今は夕日に水面を錦の帯のように煌めかせながら流れている。ゆったりと、そして穏やかに、とうとうと流れゆく雄大なそれは、見る者の心を次第に落ち着かせてくれるものがある。

 この河沿いにある王立海軍造船所も、ひっそりと夕暮れを迎えようとしていた。


 帆柱マスト用の建材が林のように連なって立てられている、通称『帆柱マスト畑』の片隅に、件の小型船を建造するための船台は作られた。現在は水門から川の水を引き込まれ、細長い池のようになっている。そしてそこにはついに完成した新造船が浮かんでいた。船体は飛魚のように細長く、エルシーア海より濃い青緑色のペンキで塗装されている。舳先と三本のマストは深みのある金色で、船縁の手すりは上品な焦茶色だ。



「やれやれ……どうやら間に合ったみたいだな」


 シャインは夕日を浴びて黄金色に輝く新造船のメインマストを見上げた。

 それは淡い水色から黄色へと変わる空に向かい、一直線に天を貫いている。


 このマストを立てたのはほんの一月前の事だった。一本立てるのに半日がかりという重労働だった。ロバで移動式の起重機を作業小屋から運んできて、ホープたち船大工の面々と人力で帆柱を吊り上げて船に設置したのだ。長細くて低い甲板に、三本すべてそれらが立った時、シャインは船大工たちと肩を叩き合って成功を喜びあった。


 そして裸当然のマストに、支えのための静索が前後に張り巡らされ、帆を上げる時の足場になる格子状に組まれたロープが左右から張られると、今までただの『木の箱』が『船』という明確な形を帯びた。それを目にしたシャインは、マストを立てた時とは違った喜びが、心の奥から溢れ出てきたのを覚えている。




 河をするりと風が渡った。汗ばんで火照った身体に心地よい。

 シャインは半年の間、少し伸びた月影色の金髪を首の後ろで三つ編みにしていた。前に垂れたそれをつまんで肩の後ろへ放りやる。それから中央のメインマストから垂れ下がる真っ白な上げ綱の一本一本が、行儀良く並んだ綱止め棒に綺麗に巻かれている様を確認した。


 その後船首の方に足を進め、染みひとつない乙女の肌――そう、船は女性なのだ――真新しい甲板に木屑一つ、防水用のどす黒い樹脂油の一滴が落ちていないことを確認した。


 シャインは今朝から数人の船大工の助手たちと共に、仕上げの作業で働き詰めだった。

 船は完成しているが、点検するべき箇所は数多くあり、上げ綱の一本、滑車の一個、帆の一枚、足元の甲板の板の隙間まで、すべて異常がないことを自分の目で見なければ満足できなかった。


 なにしろ明日は彼女にとって『特別な日』となる。


 だから万全の状態にしてやりたい。

いや、しなくてはならない。


 明日は彼女に名を与え生命を吹き込む大切な儀式――「命名式」が午後から行われる。

 それが終われば彼女は百八十六番目の海軍の船として登録され、新たな乗組員の元へと引き渡される。勿論、その中にシャインも入っている。

 長期航海に出ていた特権を利用して、この船への転属願はとっくに受理され認められていた。


ついに彼女と共に海へ出る時が来た。

それをどれほど待ち望んでいただろう。


 シャインはともすれば込み上げる笑みを噛み殺し、つややかに光る左舷の船縁を左手で軽やかに滑らせながら、誰もいない船首部に向かって甲板を歩いた。けれど傍からみれば、やっぱり顔を始終にやにやとさせていることにすぐ気付くだろう。


 一緒に点検をしていた船大工達は、半時前に自分の仕事を終えて船を降りた。ただひとり――ホープだけが、船尾の操舵索の具合を調整するためまだ残っている。


 シャインは陽が赤く空を染めて、すべてを安息の静けさに誘う夕暮れ時が好きだった。こうして完成を夢見ていた船の上で、その好きな時を一人きりですごすことができるとは。なんと自分は幸せなのだろう。


 シャインは船縁に背中を預けて、船の船尾から中央――そして今立っている船首前部の甲板を眺めた。船首部には一番前のフォアマストの後ろに小さな部屋がある。海図を見たり航海日誌を記入するための『海図室』だ。しかし今は海図はおろか定規の一本もこの部屋には置かれていない。


 明日命名式が終わったら、今度は備品の搬入で忙しくなるな。

 シャインは一瞬その煩わしい作業のことを思って肩をすくめた。

 そして再び船首の方へと顔を向けた。エルドロイン河に沈みゆく夕日の姿をもう一度見ようと思ったのだ。


 槍のように前方へ突き出している舳先の斜檣バウスプリットが、逆光のせいで黒い影を帯びている。

 だが不意にその影を何かが遮った。

 まるで誰かがそこに立っているかのように。


「えっ」


 シャインは思わずその影を凝視した。

 既視感に目を見開いた。

 舳先の向こうで赤い夕日が、風になびく髪のようにゆらゆらと揺れている。いや、それは確かに長いうねりをともなった髪だった。


 黄昏色をしたそれを後方へなびかせて、宵の明星を思わせる雰囲気を纏った少女が、シャインと同様、沈みゆく夕焼けを見つめるように立っていた。その姿は淡く、瞬きをした途端消えてしまうのではないだろうか。彼女の纏う白い花びらのようなドレス越しに、夕日の光が仄かに透けて見える。


「君は――!」


 シャインはその場から足を動かすことができなかった。しかし声は出せた。かすれてしまって出たか出ないか微妙な大きさだったが。けれど声に気付いたのか、少女がこちらへ振り返る気配がした。夕焼け色に染まった髪が大きく波打ち、その小柄な身体を覆うように宙を舞う。

 胸の鼓動が速さを増し、信じられない思いで息ができない――。

 まさか。


「ちょっと、すまないが!」


 下方から呼び掛けられた鋭い声で、シャインの注意は少女からそれた。ずっと見開いていた両目をぱちぱち瞬かせる。


「おい。聞こえているんだろう!」


 嵐の中でもよく通るような、いい声質のそれが再度鋭く響く。

 シャインは仕方なくちらりと後ろを振り返った。どこの誰だか知らないが、どうやら客のようだ。一人の背の高い男が船に近付いてくるのが見える。しかしシャインは大胆にもまだ気付いていない振りをして、再び船首の舳先へ視線を走らせた。


 今のは確かに――。


 けれど願いは虚しくそこには川面に消えゆく滲んだ夕日しか見えない。次第に薄暗くなる夜の気配と共に、少女の姿は消えていた。


 そんな。

 だけどあの姿は見間違えようがない――。

 シャインは俯き唇をきつく噛みしめた。


「おい! いつまで私を無視するんだ!!」


 少女の幻影を追いかけていたシャインは、また自分に呼び掛ける声で我に返った。

 内心湧き上がる不快感をぐっとこらえながら。


 こんな時間になんだっていうんだ。


 邪魔をした客のことを恨めしく思いつつ、シャインは人の良い笑みをその端正な顔に浮かべた。


「はい、なんでしょうか」


 そう返事をしてシャインは渡り板まで近づき、客を見下ろした。そこには栗色の髪にエルシーア海軍の青い軍服を着た男が立っている。ダブル襟の上着に腰の所でバックル付きのベルトを締め、糊のきいた白いズボンをはいている。年は二十七、八ぐらい。シャインより、七才ほど年上の若い男だ。きりっとした眉の下で、冷え冷えとした光を放つ切れ長の空色の瞳が威圧的でとても印象強い。


「私はエルシーア海軍のジャーヴィスという。この船が明日海軍に引き渡される後方の新造船か」

「ええそうですよ。ジャーヴィス中尉」


シャインは素っ気無く返事をした。ジャーヴィスと名乗った海軍士官は階級を明かさなかったが、夕日に鈍く光る肩章には、錨綱を模した白色の二本の筋が刺繍されているのが見えた。つい習慣で肩章をみただけなのだが、ジャーヴィスの顔には一瞬戸惑った表情が浮かんでいた。


「あ、ああ……よくわかったな。それで作業中すまないが、ホープ船匠頭がここにいると事務所できいたのだ。彼に会いたいのだが、呼んできてはもらえないだろうか」


 シャインは川風のせいで額にまとわりつく前髪を右手で払いながらうなずいた。


 ジャーヴィスが自分をホープの助手と間違えるのは仕方ないかもしれない。彼とは面識がないし、第一今のシャインは軍服ではなく船大工たちと同じ服装をしている。

 防水油の染みが黒く点々とついた白い綿のシャツに深緑のズボンをはき、腰には使い込んだ革の工具入れを下げている。


「ホープ船匠頭は船尾で操舵索の調整をしています。呼んできますので、どうぞ船にお乗り下さい」

「いいのか?」

「ええ。ただ索具に手を触れないで下さい。防水用の油を塗っていますので汚れますよ」

「わかった。では、乗船させてもらうことにする」


 ジャーヴィスは礼儀正しくシャインに向かって軽く会釈をすると、きびすを返して新造船の中央部へと歩いていった。そこには水が入った船台に浮かぶ新造船に乗るため、手すりがついた渡り板が設置してある。人一人が通れるだけの幅しかない小さなものだ。


「ジャーヴィス……ジャーヴィス中尉、か」


 彼が渡り板を歩いて船に乗る様を見つめながら、シャインは口の中で名前をつぶやいた。

 どこかできいたことがあるのだが、すぐに思い出すことができない。ひょっとしたらこの新造船に乗ることになる士官のひとりだろうか。



 乗船してきたジャーヴィスは、物珍しそうにきょろきょろと甲板をながめている。シャインはその後ろを通り過ぎて、船尾にある舵輪の前まで歩いて行った。そこではしゃがみこんだホープが、舵輪の軸に巻き付けられたロープの張り具合を確認している。


「ホープさん。あなたに客が来てますよ」

「客?」

「メインマストを見上げているあの人です。知っていますか?」


 ホープはよっこいしょと立ち上がった。両手を添えて腰を伸ばしながら振り返り、ジャーヴィスの方を見た。


「知らんな」


 ホープは油まみれで黒ずんだ手を、腰にはさんでいた布で拭い歩き始めた。


「シャイン。取りあえず操舵用ロープの張りはぎりぎり調整しておいた。でも航海の度に擦り切れたり伸びたりしていないか、ちゃんと確認しなければいかんぞ」

「はい」


 ホープが甲板中ほどにあるメインマスト前まで歩いてくると、ジャーヴィスは彼を知っているのか、踵をそろえ直立不動の姿勢をとった。その後ろにいるシャインには目もくれずに。


「お忙しい所お邪魔して申し訳ありません。ホープ船匠頭でいらっしゃいますね」


 ホープは太い両腕を組んで重々しくうなずいた。


「ワシは堅苦しいのは好かん。普通に話してくれれば結構じゃ」

「ありがとうございます」


 ジャーヴィスは直立不動の姿勢を解き、軽く頭を下げてこほんと一つ咳払いをした。

 礼儀正しい人物なのだろう。


「私はこの新造船の副長に任じられたヴィラード・ジャーヴィス中尉と申します。もしよろしければ、明日の命名式の準備の為に、ちょっと下見をしたいと思ってこちらに参りました」

「ほう……そうか。それはご苦労なことじゃな」


 するとジャーヴィスは誇らし気に胸を張り、晴れ渡った青空のような微笑を浮かべた。


「命名式は大切な儀式です。それが滞りなく催されるよう、準備を整えるのが副長としての役目であり責務であります」


 ホープはジャーヴィスの頭のてっぺんから足の先まで視線を泳がせ、そしてくるりと後ろを振り返った。がしがしと肘でシャインの脇腹を突っつく。


「シャイン。お前も随分人が悪いな。お前の部下ならそうだと紹介してくれればいいのに」

「えっ?」

「――はぁ?」


 素頓狂な声を漏らしたのはジャーヴィスの方だった。あの冴え冴えとした切れ長の瞳が、どういう意味だといわんばかりにぐいとシャインを睨み付ける。シャインはその睨みを柔和な笑顔で(但し、見方によってはひきつった笑顔)で受け止めながら、人が悪いのはどちらだろうと口の中でつぶやいた。


隠すつもりではなかった。

けれどホープが口を滑らせたからには名乗らないわけにもいくまい。シャインは自分より頭半分背の高いジャーヴィスを見上げ、そっと右手を伸ばした。


「初めまして、ジャーヴィス副長。自己紹介は明日の命名式が終わった時にするつもりだが、俺がこの船の艦長に任じられたシャイン・グラヴェール少佐だ。どうぞよろしく」


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