2-23 かけがえのないもの
チィン!!
耳につく高い金属音でシャインは目が覚めた。
頭にはクッションが当てがわれており、膝にはまとっていたはずの紺のマントが被せられている。
あたりは白い薄明かりに包まれている。
夜が明けようとしているのだ。
見慣れた木の天井が目に入ったので、シャインは自分が自室(艦長室)の、応接用の長椅子へ仰向けに寝かされている事を知った。
「起こしてしまいましたね、すみません」
低い、けれど落ち着き払った、ジャーヴィスの声がした。
声のした方へ――首を右へ傾けてみる。対面の卓上のランプごしに、青い航海服姿のジャ-ヴィスが、心配げにこちらをのぞきこんでいるのが見えた。
「最近、こんなことばっかりだね。俺は」
シャインは自身の不甲斐なさを口にした。
「そうですね」
答えたジャーヴィスの目が細くなる。しかしその顔はとても穏やかだった。
「……どれくらい眠ってたんだ?」
「今、午前4時ですから……8時間くらいです」
応接机の傍らに立つジャーヴィスの口調は淡々としている。
シャインは長椅子に寝そべったまま両手で顔を覆った。誰かが手当てをしてくれたのか、掌には真新しい包帯が巻かれている。
消毒薬のすえた臭いが鼻についた。
「ストームは、捕まえたのかい?」
ジャーヴィスに指輪を渡そうとした所までは覚えている。それから後の事は記憶にない。
けれど落ち着き払った副長の様子をみれば、すべては終わっているのだ。
その考えを肯定するジャーヴィスの声が聞こえた。
「はい。あなたがチャンスを作って下さいました。私はそれを無駄にしたくなかったのです」
淡々と語るジャーヴィスの言葉に、シャインは唇を噛みしめていた。
チャンスだと? そんなつもりは微塵もなかったというのに。
シャインはけだる気に椅子から身を起こした。なかなか腕に力が入らない。
体が重くて、自分の物ではないようだ。
身を起こすとシャインは溜息まじりの息を吐いた。
「ストームは俺を信じてくれた。それなのに、俺は……」
「もう終わった事です。こちらが動かなければ、ストームがきっとあなたを裏切っていた」
「何の根拠があって?」
シャインは咄嗟にジャーヴィスを見上げ、ランプの揺れる炎にその青白い顔を照らされながら、語気強く言い放った。
正直あまり気分が良いとはいえなかった。
ストームとロワールハイネス号及び乗組員全員の命をかけて、熾烈な駆け引きをしたせいで神経が昂っているせいだろう。
それは妥協したり負けることは絶対に許されない厳しいものだった。
その緊張感から解放されたにもかかわらず、シャインは自分の心が晴れないのを感じていた。いや、むしろ重くのしかかるその感情で、気が滅入っていた。
「あの女は海賊です。海賊は自分の利益しか考えません。そんな相手をいちいち信じていたら、命がいくつあっても足りません」
ジャーヴィスが感情のこもらない声で答えた。
シャインはジャーヴィスを睨み付けた。簡単にそう言い切る彼の神経が信じられない。
「だからといって、相手が海賊ならどんな手段を用いても、許されるというのかい? 海賊だって人間なのに。俺は……そういう考えでいたくない。君も、あの人と同じだ。あの人のように、勝つためなら手段を選ばない……俺は、そんなやり方だけは絶対に嫌だ!」
「……」
ジャーヴィスはすぐに言葉を発しなかった。
けれど鋭い青い瞳は逸らされることなく、シャインを真っ向から見つめている。
シャインもまた熱を帯びた青緑の瞳をジャーヴィスから逸らせなかった。
ジャーヴィスが沈黙しているのは、シャインの言うことに正当性を感じているからだろうか。
ジャーヴィスが意を決したように口を開く。
「確かに私はストームを騙し討ちにしました。そうしなければ、あなたを助ける事ができなかったのです」
「ジャーヴィス……」
シャインはかぶりを振った。
どうして、どうしてそういう風になる。
「俺の事は心配いらないはずだ。身代金を払えば、一ヶ月で解放されるんだから。今回はたまたま、上手くいったかもしれない。けれど、君のやったことが失敗していたら、どれだけの犠牲が出ていたかわかるかい? 船だって奪われていたかもしれないんだ! 賢い君ならそれくらいのこと、わかっていたはずだ」
シャインは苛立ちを抑えきれずに言った。
もう済んでしまった事で、ジャーヴィスを責めるのは忍びなかった。
けれど彼ならそう考えるはずだと思っていたのだ。
それなのに……。
ジャーヴィスは応接机の傍らに立ったまま、黙ってシャインを見下ろしていた。
そして手袋をした右手を上げると、形の良い額へ当てて溜息をついた。
「ええ、わかっていましたとも。あなたを行かせたら、それは見殺しにする事と同じだと。私はグラヴェール中将のご気性を存じています。あの方は決して海賊に屈しません。いくらあなたの身代金でも、海賊であるストームに、1リュールたりとも金を支払う事はない。
あなたはそれを知っていて、けれど、私達を助ける為に敢えて取引の材料にしたのです。私に指輪を託そうとしたのも、中将に自らの形見にするつもりだったのでしょう?」
「……」
ジャーヴィスはシャインが考えていた以上の事を言った。まさにそれは真実であったため、シャインはすぐに言葉を返すことができなかった。
あまりの気まずさに、シャインはジャーヴィスから視線を逸らせた。
どういう風にとりつくろうかと悩みながら、視線は卓上のランプへと彷徨った。
そこに透明感のある青い光が瞬いていた。
シャインのブルーエイジの指輪だった。
目が醒めたときに聞いたあの金属音は、ジャーヴィスがこれを卓上に置いたときに立てたものだろう。
シャインはそっと手を伸ばして指輪を取り、右手の人差し指にはめた。
「拾ってくれてありがとう。これは……母の形見なんだ。だから、あの人へ返すつもりだった」
「……」
青白い光を放つ指輪を見つめていると、苛立ってきた心が落ち着いてきた。
シャインの顔には先程まで浮かんでいた怒りの色が少しずつ消え失せていた。
「ジャーヴィス副長。君の読みの鋭さには頭が下がるよ。でもね、これは俺が望んだ事なんだ。君達や船が無事なら……俺にとって、『かけがえのないもの』を護れるのなら――すべてを終わらせてもいいと思った」
「……艦長」
ジャーヴィスは納得いかない様子だった。冷静なその顔を大きく崩してはいないが、両手の拳が小さく震えていた。
「私は、可能性があるかぎり、誰も失いたくなかった」
「誰も?」
シャインは困ったように眉根を寄せた。彼の言う意味が良く分からなかった。
「俺にとってはあれが最善の方法だった」
「いいえ。あなたはストームをだまし討ちにするくらいなら、自らの死を選んだのです。一時の非難を浴びるだけで皆が助かったのに、あなたはそれができなかった。本当にすべてを失ってもいいと思うのなら、ストームの約束を破る事だってできたはずです」
ジャーヴィスの言う事は正しかった。
いつだって彼の言う事は正論で、シャインはそれに反論できずにいた。
けれど今回だけは違った。
「俺は……良心の呵責に耐えて生きていけるほど、強くはない。所詮、俺の行為はただの綺麗事さ。俺は自分の手を汚す勇気すらないのだから。君の言いたいことはそういうことだろう?」
ジャーヴィスの顔に憂いに似た陰りが落ちた。彼は肯定するようにゆっくりとうなずいた。
「ええ。あなたの行為はただの自己満足です。けれど、もう責めるつもりはありません。私も自分の自己満足のために、ストームを捕まえたのですから。卑怯者と罵られるのは一時です。でも、命は一度失えばそれでお終いです。あなたがこの船の艦長でいる限り、すべてを終わらせてもいいなど……軽々しく言わないで下さい。あなたが我々の事を思って下さるように、我々もあなたを失いたくないのですから」
「……」
シャインは包帯の巻かれた両手を組んで握りしめた。
気恥ずかしさもあってうつむく。長い前髪がすべり落ちてその面が隠れた。
「あの、真に受ける必要はないんですよ。私はただ自分の気持ちを言ったまでなんですから」
シャインは顔を上げた。そこにはジャーヴィスの心配をよそに、穏やかな微笑が浮かんでいた。
「今は素直に君の気持ちをうれしく思うよ。俺はここにいていいんだって許しを得られた気がする」
ジャーヴィスが身じろぎをしたが、シャインはそれに気付かなかった。
目を閉じて、このロワールハイネス号に乗る事になったてん末を、思い返していたからだ。
「今更何を言われるのです。出ていけといったって、この船があなたを放しませんよ」
それを聞いたシャインはやっと笑うだけの気力が蘇るのを感じた。
先程まで疲れきって生気の抜けた瞳が、今は本来の輝きを取り戻しつつある。
シャインは腕を伸ばして、背中を長椅子に預けた。視線を天井に彷徨わせる。
「ロワール……。よく覚えてはいないんだが、確かに彼女の声を聞いた。ジャーヴィス副長、あれからどうなったか状況を教えてくれるかい?」
ジャーヴィスの青い瞳が意味ありげに瞬いた。
「はい。ですが、その前に……支障がなければ、ツヴァイス司令官との会見はどうだったのかお聞きしたいのですが」
シャインは一瞬ジャーヴィスの言葉の意味を考えた。
そうだ。
ストームを後二日で捕らえることができなければ、自分は海軍の船で海賊行為を働いたとして懲戒処分になる所だった。
「大丈夫ですか? 急に顔色が」
床に視線を落とし考え込んだシャインにジャーヴィスが訝しむ。
「心配ないよ。君がストームを捕まえてくれたから。お咎めは無しだ」
「本当ですか?」
その声は尖って疑惑に満ちていた。ジャーヴィスがなかなか信じようとしないのは無理もない。
彼には今回、多くの事実を隠してきたのだから。
「本当だよ。やっと、この嫌な任務も終わったんだ」
自分でそう声に出すと実感が急に湧いてきた。
――このロワールハイネス号に乗り続けられるのだと。彼女の側にいられるのだと。
心からほっとしているシャインの様子に、ジャ-ヴィスは疑いの眼差しで見るのを止めた。
「そうですか。それなら……安心しました。艦長、今日は皆で祝杯をあげましょう。嫌とは言わせませんよ。それに、まだちゃんとした就任パーティーもしてなかったですから丁度いい。ストームを連れていったら、準備しましょう」
普段冷静なジャーヴィスが嬉々としていた。彼もこの息苦しい任務が終わった事をやっと実感できたのだろう。緊張感が解けた反動なのかもしれない。
「だったら、マリエステル艦長にも来てもらわなくてはね。彼女の協力なしでは、俺は自分の計画を実行に移せなかったんだから」
「えっ! ああ……そう、ですね……」
ぎこちなくジャーヴィスが返事をした。声まで何故だか裏返っている。
彼がリーザに好意を持っていると言う事は、先日の朝食の席で分かっている。
それを再確認したシャインはにんまりと微笑した。
「艦長、マリエステル艦長にはちゃんと連絡を入れておきます。それから、状況をお話したいのですが、よろしいですか?」
ジャーヴィスは話題をすりかえた。照れ隠しだろう。
うなずいて、シャインはストームをどうやって捕まえたかその詳細を聞いた。
みるみるシャインの顔が青ざめたのはいうまでもない。
シャインはしわだらけの礼装姿のまま、急いで自室を後にした。




