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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第2話 かけがえのないもの
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2-14 不器用な優しさ

 アバディーンは入って来た時とは対照的に、とても静かに部屋から出ていった。

 甲板へはこの階段を上がるのか? と尋ねる声に、エリックが「こちらです」と答えるのが聞こえる。

 水兵達が艦長室の外で立ち聞きしていたのは間違いない。


 さて、これからどうする。


 シャインはアバディーンが出て行った扉を呆然と見つめていた。


 ――これですべては白紙に戻った。  

 今まで、一体何をしてきたのだろう?

 こうなることを俺は一番怖れていたのに。


 “その時”が来ても大丈夫なように、他の手を考えておくべきだったのに。

 今までが予定通りにいっていたから、その備えを怠ってしまった。


「グラヴェール艦長……大丈夫ですか?」


 ジャーヴィスがこちらを心配そうに見つめていた。

 だがシャインは副長に返事をする気力すら湧かないのを感じていた。

 シャインはふらりと応接用の長椅子に腰を下ろした。そのまま両手で頭を抱える。

 今の自分はきっと青ざめている。ジャーヴィスがいぶかしむような。

 それを考えただけで、シャインは顔を上げられずうつむいた。髪を結んでいないので、それが両脇から滑り落ちてこの情けない表情を隠してくれた。


 君ならわかるだろ……?

 今俺が、どうして欲しいか。

 いいや――。


 シャインは自分のわがままに気付き、ぐっと唇を噛みしめた。

 ジャーヴィスは自分の指示を待っている。

 アバディーン商船の協力を得られなくなったのだ。これからどうするのか早急に言わなくてはならない。

 かといって……。

 重苦しい沈黙の中、シャインにはひとつしか浮かばなかった。

 取りあえず、急がなくてはならないのは――。


「ジャーヴィス副長、君でもいい。誰か軍港へ人をやって、マリエステル艦長に作戦の中止を伝えて欲しい」

 ジャーヴィスがこちらへ近付く気配がした。

「艦長。それは早急では」

「もういいんだ。それと……これからのことは今から考える。だから、少しひとりにさせて欲しい」

 シャインは顔を上げた。

 ジャーヴィスの――こんなに不安げな表情は見た事がなかった。


 自分の言い方が悪かったせいだ。

 シャインは努めて明るい表情を浮かべようとした。笑ってみたかった。

 確かに失敗してしまったけれど、きっとなんとかなる。そう言って、彼の不安を取り除きたかった。

 けれど、そう思えば思う程、顔が引きつるのを感じた。

 そんなこと、思えるはずがない。

 これからどうしたらいいのか自分もわからないのに。

 嘘をついてまで笑うことなんか、できっこない。



「わかりました、おっしゃる通りにいたします。マリエステル艦長に、協力はもう不要だと言えば……よろしいのですね」

「ああ。そうして欲しい」

 シャインは再び俯いた。

 もう顔をあげられそうにない。

 限界だ。これ以上、話を続けることはできない。

 ジャーヴィス、頼むから早く出ていってくれ。


「ご自分をあまり責めないで下さい。あなたは間違った事をしていません。ただ、運がなかっただけです。我々が諦めない限り、ストームは必ず出て来ます。その機会を待ちましょう」

 ジャーヴィスの言葉はとても優しかった。

 彼とはいろいろと言い争いをしてきたが、励ましてもらったということはない。

 今はその気持ちにとても応えられないけれど。

「ありがとう……」

 ジャーヴィスはそれ以上何も言わず、そっと部屋から出ていった。


 扉が閉まる音と共に、シャインは長椅子に背中をあずけた。

 やる気はすっかり失せていた。

 ひと呼吸するたびに、気力がどんどん萎えていくのだ。

 ストームを捕まえるための希望の光が見えなかった。今はただ、先の見通しがきかない闇の中へ、置き去りにされた気分だった。

 その闇はシャインの上にのしかかり、身動きがとれなくなるような重圧感に満ち満ちていた。

 

 いや――自分が本当に恐れているのは。その重圧感の正体は。

 ストームを捕らえることができなかった時。

 捕縛命令を出したツヴァイスの気が変わって、ひょっとしたらこのロワールハイネス号から降ろされることにならないかという事だ。

 そもそもツヴァイスはシャインがロワールハイネス号に乗ることを気に入らないようだったから。

 シャインは急に重みを感じた体を長椅子に横たえると、気だるげに瞳を閉じた。


「ロワール……君とは短い付き合いになりそうだよ」



 


 気配がした。

 誰かが傍らにきて、顔にかかった乱れ髪を優しく払ってくれた。


「ごめんね、シャイン。私がセレディア号を見つけたせいで」


 君らしくない。そんな弱気な声。

 俺がさっき言った事。君は聞いていなかったのかい?

 俺は後悔していないって。今だってその気持ちに変わりはない。

 ただちょっと――戸惑っているだけなんだ。


「自分だって辛いのに、私の事を気遣ってくれるの? どうして優しくできるの?」


 優しくなんか……ない。

 俺は常にそうありたいと思っているだけ。

 優しさというものは、甘い砂糖に包まれたような言葉を紡ぐことじゃない。

 生温い言葉で……お互いを慰め合うことじゃない。

 何をして欲しいのか、それを理解して実行することだ。


「わかったわ。もうあなたの邪魔はしない」


 ロワール。

 ……すまない。これから考えることが……沢山……あるんだ……。

 君ともう少し長くいられるように。


「うん。でも無理はしないで。あなたはこんなにもがんばってるんだもの。泣きたかったら泣けばいい。私はそれを全部受け止めて、あなたの笑顔を取り戻す。私はいつでもあなたのそばにいるわ」



 シャインは目を開けた。

 深い深い水色の――玻璃のような瞳が、自分を優しく見つめていた。

 そのロワールの瞳を見ていると、今まで感じていた重荷が取り去られ、焦っていた気持ちも水のように溶けてなくなっていくようだった。


 シャインは伸ばされたロワールの手を取ると、それを自らの頬に当てた。

 じんわりと伝わる温かさに救われるような気がした。

「やっぱり、しばらくそばにいてくれるかい? ……俺が眠るまで。君がいると、なんだかすごく楽になったんだ」

 彼女はゆっくりとうなずいた。

 その顔はいつものわがまま娘のものではなく、落ち着いた大人びた表情だった。


「そう。今は何も考えずに眠るの。私があなたの眠りを守ってあげるから」

 そこでロワールは、くすりと微笑した。

「いつも邪魔する、あの副長からもね」



 ◇◇◇



 アバディーン商船がストーム拿捕の協力を破棄したことは、ロワールハイネス号の乗組員の間に一気に広まった。そこに立ち聞きしていたエリック達の存在があったのは確かだが。

 ジャーヴィスは全員が午前11時にちゃんと帰艦したのを確認し、これからの事を話すべく彼らをメインマスト前に召集した。

 どの顔も作戦継続か、それとも中止か、興味深げだ。

 本当は艦長であるシャインが彼らにこれからのことを告げるべきなのだが、今の彼の状態では到底無理だ。

 ジャーヴィスは、水兵達にシャインの状態を話した。士気が落ちるのは仕方ないが、話しておかないと彼らが、シャインの神経にさわる振る舞いをするかもしれない。今日はなるべく静かにすごすよう、ジャーヴィスは特に念押しした。


「ということで、今後のことは夜まで保留だ。よろしく頼む」

 水兵達はめいめいうなずいた。

 そこで解散になった。

 ジャーヴィスは、立ち去りかけた航海長シルフィードを呼び止めた。


「なんですか? 副長」

「私はこれから軍港へ行って、マリエステル艦長に会って来る。グラヴェール艦長が作戦中止を決めたんだ。だから彼女に、協力は不要だと言わなければならない」

 シルフィードはうなずいた。

「ボートの用意をさせます。他に誰か連れていくんですか?」

「いいや、ひとりで行く。シルフィード、船の事頼んだぞ。それから艦長にも気を付けてくれ。最も、あの人の邪魔だけはするなよ。ただでさえ、まいっているからな」

 ジャーヴィスの青い瞳が、困ったように光っているのを見たシルフィードは、状況の深刻さを察したようだった。


「わかりました。水兵達は静かにさせときます」

「頼む」

 シルフィードは何時もの陽気な笑みを浮かべ、甲板に残っていた水兵に声をかけた。

 数分後、ボートが下ろされ、ジャーヴィスはそれに乗るとロワールハイネス号を後にした。



 ◇◇◇



 商港と隣接しているとはいえ、陸路では軍港まで馬車で10分はかかる。

 リーザの船、ファラグレール号はまだそこに停泊していた。

 昨日ロワールハイネス号が拿捕した海賊船を引き渡すため、ジェミナ・クラスへ入港したのだ。


 ジャーヴィスを出迎えたのは頭を使うより、肉体労働が似合いそうな35歳ぐらいの副官だった。航海服の金色のボタンが、ちょっときつそうにみえる。

 髪はジャーヴィスと同じような栗色だが、その年に似合わずおでこが後退しはじめていた。あと十年もすれば、きっときれいにはげてしまうに違いない。

 ヒゲの無い顔は精悍さを感じるが、とくに美男子でもない。リーザ好みの。

 身長だって、ジャーヴィスより拳一つ分は低い。


 ――たいしたことないな。

 ジャーヴィスは、ほっとした自分にびっくりした。

 リーザの副官の顔がたいしたことないからといって、何故安心するのだ。


 後部甲板の階段を降りると、たいがいの船がそうであるように、船尾にある艦長室の扉が見えた。

 リーザの副官は二度、ていねいにノックをした。

「艦長、イリューズです」

「……何? 開いてるわよ」

 副官イリューズは、かしこまって扉を開けた。その態度からして、リーザが絶大の信頼を得ているのが容易にわかる。

 リーザは艦長のみ着用が許されるケープのついたコバルトブルーの航海服に、その細身を包んでいた。最近士官の間では制服をアレンジして着るのが流行っており、彼女も例外なく好みの服に仕立てている。

 いかんせん艦内は男の人数の方が多い。リーザの船には女性の航海士の姿が見えるが、規律を守るため、顔と手以外に肌の露出はない。

 部屋の内装は実に落ち着いたものだ。船内の家具はアンティークで統一されている。艦長室という部屋は、その主人によってまったく印象が変わる。

 シャインは大きめの執務机を特注している。彼いわく、仕事しながら眠り込んでも、無理な姿勢にならないようにとか。

 リーザの机はこじんまりとしたものだ。これも、かなり古いアンティークの机だが。それは部屋の片隅に置かれ、応接用の長椅子とひじ掛け椅子が中央に鎮座していた。


 リーザは席から立ち上がって、ジャーヴィスを出迎えた。

 その顔に驚きはなかった。まるで、来る事を予期していたかのように。

 リーザの副官は一礼して部屋から出ていった。

 それを目の端で見送ったリーザは、応接用のひじ掛け椅子に座るよう、ジャーヴィスにうながした。


「新聞を見たわ。神様もずいぶん意地悪な事をなさるわよね。あの海域には私だっていたのよ! それなのに、全然気付かなくて……」

 彼女は悔し気に顔をゆがめた。いつも面白くないことがあるとする表情だ。

 目を細めて、唇をかみしめる。

「おまけに、もっとよくない知らせを持って来ました」

 ジャーヴィスは努めて冷静に、今朝、アバディーン商船の社長が船に乗り込んで来て、ストーム拿捕の協力を破棄したことを話した。

 そのためリーザの協力も必要がなくなったとシャインが言った事も。


「……そう。それじゃあ仕方ないわね。でも、グラヴェール艦長これからどうするつもりかしら。すべてが白紙に戻ってしまったんですものね」

「ええ。艦長は、あの会社の協力を失った事に、大きなショックを受けてます。ストームの気を引くような魅力ある荷を運ぶのは、アバディーン商船の他にはありません。あそこが協力してくれれば、まだ海賊ジャヴィールの噂を広め、縄張り争いのため、ストームを引っ張り出す事ができるんですが……」

 ジャーヴィスは沈痛な表情を浮かべ、膝の間に置いた両手を組んだ指に力を込めた。


「奪われた積荷は金塊1000万リュールだしな。半年は遊んで暮らせる。よほどのことがない限り、海へ出る事はないだろう。マリエステル艦長、奴を捕らえるため、何か良い案はないだろうか」

 ジャーヴィスは縋るようにリーザを見つめた。

 彼女はジャーヴィスが士官学校に在籍した二年間のうち、二カ月連続で首席の座を落とした実力者でもある。肩まで伸びた艶やかな黒髪を指で弾き、リーザが紅玉の瞳を憂いに沈ませる。

「そうね。私だってなんとかしたいわ。でもストームに関する情報が少なすぎるのよ。だからグラヴェール艦長も、違法ともいえるこの作戦を決行したんだわ」


「えっ?」

 ジャーヴィスはリーザの言葉に耳を疑った。

「違法ですって?」

 瞳を半ば伏せていたリーザがむっとしたようにジャーヴィスを睨み付けた。

「当然でしょ? ロワールハイネス号は海軍の船よ。それが演技とはいえ、海賊行為を働く真似をするんだから。これが海軍省にバレたらただでは済まないわ。軍法会議をすっとばして、弁明の場を与えられないまま、グラヴェール艦長は即、懲戒処分になるでしょうね」

「……」

 確かにリーザの言う通りだ。

 というか、シャインが作戦の概要を告げた時点で、そのことを何故自分は指摘しなかったのだろう。

 いや、シャインの言い回しに惑わされてしまったのだ。

 海賊ジャヴィールという新参者がジェミナ・クラスに現れたという噂があればいい。彼はそう初めに言っていたのだから。

 ジャーヴィスは己に対する怒りが腹の底からこみ上げてくるのを感じ、それを堪えるために両手を強く握りしめた。


「おかしいとは思っていたんです。グラヴェール艦長は、ストーム拿捕の命令を受けてから、一切私に何の指示もしませんでした。何もかも一人で段取りを整えて、私達に詳細が告げられるのはいつも直前になってか、事後――」

 ジャーヴィスははっと我に返った。

「まさか――艦長が作戦について、何も私に告げなかったのは――」

 リーザが呆れたように腕を組んだ。

「今更気付いたの? あなたといい、グラヴェール艦長といい……本当に不器用よね。誰かさんったら、『艦長は私を信用してくれないようなんです~』って、情けない顔して愚痴なんかこぼしていたし」

「マ、マリエステル艦長!」

 ジャーヴィスは思わず席を立った。恥ずかしさで頬が一気に紅潮する。

 今ならわかる。

 シャインは作戦が万一漏洩したことを考えて、必要な時に必要な情報しか部下に与えなかった。

 海軍省に海賊行為を働いた(演技とはいえ)ことがばれた時、その責めを自分だけが負うつもりだったのだ。


「私は副長失格だっ……!」

「そこまで言わなくても。グラヴェール艦長の方があなたより一枚上手だっただけよ」

 いつもはっきりと物を言うリーザの声が優しい。

 ジャーヴィスは己の不甲斐なさに打ちのめされながら、頭を抱えて俯いた。

 ふと、肩に重みを感じた。

 のろのろと顔をあげると、リーザがジャーヴィスの両肩に手を置き、紅の瞳がこちらを力強く見据えていた。


「しっかりしなさい。ヴィラード・ジャーヴィス。グラヴェール艦長はあなたのことを誰よりも頼りにしている。いえ、乗組員を大事に思ってる。あなたが今やらなくてはならないことは何? ここで私に泣き言を言うだけ?」

 ジャーヴィスはそっとリーザの形の良い手を肩から払いのけた。

「いえ。ストームを捕らえるために、情報を集めて、今度はあの人と共に計画を立てることです」

 リーザはジャーヴィスの目を射抜くように見つめていたが、同意するように深く頷いた。


「そうね。まずは情報収集よね。役に立つかどうかわからないけど、思い出したわ」

「何ですか?」

「ちょっと。そんながっつり期待した目で見ないで。ストームの事じゃないの」

 ジャーヴィスは盛大にため息をついた。

「なんだ。つまらない」

「あのね、じゃ、言うのはやめるわよ」

 リーザがそっぽを向いて長靴を履いた足を組む。

「申し訳ありません。教えていただけませんか」

「仕方がないわね。まずはその前に訊くんだけど、ジェミナ・クラス軍港から何か連絡はあった? ストームが商船を襲ったのよ。なんらかの書状が来そうなものでしょ?」

 ジャーヴィスは首を振ってそれを否定した。

「昨日の今日だからな。確かにその可能性は……」

「あるわ。だって私、昨日例の海賊団をしょっぴいて行ったとき、ツヴァイス司令官に呼び止められて聞かれたの。グラヴェール艦長の所在を」

 ジャーヴィスはリーザの言わんとすることを理解した。

「まさか、ストームの件か?」

 リーザは満足げに笑みを浮かべた。

「それ以外になにがあるかしら? ストームが商船を襲ったから、きっとその件でグラヴェール艦長を詰問するつもりなのよ」

 ジャーヴィスはさっと肘掛椅子から腰を上げた。

 いてもたってもいられない。急に不安を覚えた。

「マリエステル艦長。こうしている間にも、船の方に召喚状が届いているかもしれません。心配なので、私はこれにて失礼させていただきます」

 リーザはうなずいた。

「私もそう思うわ。ジャーヴィス副長、何かあったら力を貸すから連絡を頂戴。当分こちらに駐在してるから。グラヴェール艦長にもそう伝えて」

「了解しました。ありがとうございます。では」

 ジャーヴィスは素早く敬礼して、リーザの部屋から外へ出た。

 一人部屋に残されたリーザはその後ろ姿を見送りながら呟いた。

「さっさと帰っちゃって――妬いちゃうわよ、まったく」

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