1-3 『使い走り』(1)
この部屋の主に遭遇するのはどちらかといえば苦手だ。
だが依頼を受けたからには、報告をしないわけにもいかない。
ロイス・ラングリッターは黒檀の扉の前で苦笑いを漏らした。
ここはエルシーア海軍本部でも、「海軍卿」と名のつく幹部クラスが詰める執務室がある場所だ。
まもなく正午だというのに、ここの廊下は北向きで人気がないせいか、ひやりとした静謐な空気に満ちている。
面会が短時間で終わりますように。
そう祈りながら扉をとある符丁にそって叩くと、ややかすれがかった声で返答があった。
「開いている」
ロイスは静かに扉を開けた。
部屋の奥には人の背丈ほどある大窓があり、その前に置かれている執務机には一人の男が座っている。
常人より遥かに背の高い大男で、将官のみ着用が許される黒い海軍の軍服を纏っている。
窓から入る光のせいで逆光となり、将官の顔は影となって表情をうかがうことができない。
「ご報告にあがりました」
「お前らしくない失態だな」
開口一番、執務席に座る将官が、明らかに落胆の意を込めた口調でつぶやいた。
「申し訳ございません。思わぬ邪魔が入ったのものですから」
「その件はまた後で調査してもらおう。それよりも」
手招きされたのでロイスは執務席へと近づいた。
依頼主の将官は、猛禽を思わせる鋭い水色の瞳でロイスを見つめている。
心の奥底まで見透かすような――。
この男に隠し事はできない。彼は自分の他にも自由に動かせる情報網を持っている。
ロイスの背筋に緊張が走った。
「確かアイル号は三日前に、エルシーア海北東部の海域で、海賊の襲撃に遭い沈んだという報告だったな」
「はっ……」
「では今朝、港の警備艦に保護されたあの船はなんだ?」
「申し訳ございません。決して閣下に虚偽の報告をしたわけではなく、私の部下の船も海賊と思しき連中に襲われ船を沈められたのです。生き残った部下の話では、アイル号の姿が海上になかったため、かの船も沈んだと、私に報告をしていたものですから」
ロイスは内心舌打ちしていた。
この件に関しては全くの不意打ちだった。
「まあいい。結局アイル号は港外で沈んだ。だが何故、沈めるように命じたあの船がアスラトルへ帰ってきたのか報告してもらおう」
「はっ。お耳に届いていると思いますが、アイル号には生存者がいました」
顔の前で両手を組み、ロイスを睨むように見上げていた男の目が一瞬大きく見開かれた。
囁くように、かすれた声で男が尋ねた。
「まさか、ヴァイセか?」
「いえ、艦長のヴァイセは部屋で死亡が確認されました。生存者はアイル号に乗っていた士官二名と、水兵三名です」
「士官の名は?」
「はっ。アイル号の副長・ヘルム一等海尉と――」
ロイスは静かにもう一人の名を告げた。
「ご子息のグラヴェール二等海尉です」
「……」
ロイスは将官の顔を黙ったまま伺った。
ひきしめられた口元は変わらず、鋭利な光を宿す水色の瞳に動揺が走る様子はない。
「二人はアスラトルの警備艦に保護された後、海軍の療養所で治療を受けています」
「それで、『船鐘』の回収はどうなった?」
ロイスは一瞬言葉を詰まらせた。
先に生存者の報告を済ませようと思っていたのに、いきなり本題を問われたからだ。
「私が保管しています。ご指示があればいつでも持参いたします」
「そうか。お前が持っている方が、此度のような不祥事は二度と起きまい」
ロイスは恭しく頭を垂れた。
「閣下、一つだけあとご報告が」
「なんだ」
「ヴァイセが持ち出した『船鐘』ですが、『起動』を確認しました」
「――」
将官の口から声にならない息が漏れた。
ロイスは目を細めてそっと将官の耳に囁いた。
『彼女が、目覚めました』
◇◇◇
アスラトルの港に近い海軍の療養院に、シャインが担ぎ込まれてひと月が過ぎた。
目覚めた時に見上げた天井は知らない部屋で、寝台の傍らに付き添っていてくれた女性――リオーネがいなければ、シャインの頭は状況が呑み込めず、ますます混乱していただろう。
「気付いたのね、シャイン」
ふわりとした淡い白金の髪を揺らし、リオーネは新緑色の瞳をうるませて、小さな子供をあやすかのように何度もシャインの頭を撫でた。
無理もない。リオーネは二十という若さで早世したシャインの母の妹で、赤子の頃から面倒をみてくれた「育ての母」だからだ。
彼女の話によると、シャインは一週間意識不明の状態が続いて、あと半日治療が遅れていたら命を落としていたかもしれないと告げられたそうだ。
リオーネの看護のおかげもあり、現在シャインは自分の足で療養院の中庭を散歩できる程まで回復した。
今日も体力をつけるためにシャインは中庭を歩いていた。
エルシーア国の南部にあたるアスラトル地方は晴天の日が多く、年中暖かくて過ごしやすい気候だ。
ひとしきり歩いて休憩用の木の長椅子に腰を下ろすと、誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。
背の高い壮年の男性。くすんだ薄い緑色のズボンと綿のシャツ。まくった袖から見える二の腕はがっしりとしていて、職人気質がうかがえるがんこそうな瞳と髪は茶色なのに、ふさふさの眉毛は白くなっている。
その姿を見た途端、シャインは驚きのあまり椅子から立ち上がっていた。
「ホープさん……ホープさんじゃないですか!」
壮年の男は片手を挙げてにやりと笑んだ。
「体の具合はどうじゃ? シャイン」
シャインに声をかけてきた男は、エルシーア海軍の軍艦を造る造船主任のホープだった。
船が好きなシャインは幼い頃より、エルドロイン河岸にある王立海軍造船所に暇さえあれば入り浸っていた。
グラヴェール家が代々海軍士官を生業としているので、造船所には面識のある技術者も多い。ホープもその一人だった。
危険な場所に近づかないこと。
作業の邪魔をしないこと。
この条件を守ることでホープは子供だったシャインに造船所の立ち入りを特別に許してくれた。
海軍士官学校に入学するため、十四才で家を出るまで、シャインの造船所遊び(ホープにはそう思われていた)は続いた。
「おかげさまで、大分良くなりました」
「そうか……でも、肩の方はまだ時間がかかりそうじゃな」
ホープの視線はシャインのシャツの襟元から覗く包帯に注がれている。
シャインはそっと右手を左肩に添えた。
「鎖骨を折ってしまって、くっつくまでもう少し時間がかかるみたいです。だからまだ重いものは持てませんが、肩の筋肉が固まらないよう、動かした方がいいそうです」
「なるほど。まあ、無理はするなよ。見舞いに来るのが遅くなってすまなかったな」
「いいえ。来てくださってうれしいです。何しろひと月もここに閉じ込められていますから、ちょっと退屈していたんです」
「そうかそうか。実はそうじゃないかと思って、いいものを持ってきたぞ」
「えっ」
「まあ座れ」
「あ、はい」
シャインとホープは木の長椅子に並んで腰掛けた。
実はシャインは気になっていた。
ホープが右手に長細い円筒形の筒を携えていることに。
それは造船技師たちが船の設計図を保管するために使う入れ物だからだ。
食い入るように見つめるシャインの視線に気づいたのか、ホープが件の入れ物の蓋に手をかけてそれを開けた。
「シャイン、ちょっとこいつの端っこを持ってくれ」
「はい」
ホープは筒から新聞紙を丸めたぐらいの大きさの紙を抜き出して広げた。
シャインは広げられた紙面を見るため右手で端を持って覗き込んだ。
しっとりとした紙質のそれは船の設計図だった。そこに描かれていたのは、一見貴族が船遊びに使用するような、全長五十リールに満たない優雅な三本の帆柱を戴く縦帆船――。
「何ですか? この船は」
正直シャインは面喰らっていた。
わざわざホープが持ってきた設計図なのだから、それは海軍の新型の大型船に違いないと思っていたからだ。けれど設計図に描かれていたのは軍船ではなく、商船といっていいほどの小さな船。これならきっと、動かすだけなら十人でこと足りる。
でも――。
シャインは知らず知らずのうちに、設計図に描かれた船体の鋭利な流線形を人差し指でなぞっていた。