2-5 ジャーヴィスの憂鬱
翌朝の7時。
船内を見回るためにジャーヴィスは寝床から起き出し、身支度をすっかり終えていた。ただしロワールハイネス号は商船を装っているため、軍服の着用は禁止されている。
ジャーヴィスは濃緑色の上着を纏い、白いシャツにアスコットタイを締めた、商船の高級船員の格好をしている。
コンコン!
副長室の扉をノックする音がした。
「起きてるぞ、誰だ?」
「僕です。クラウスです」
ジャーヴィスは扉を開けた。そこにはまだ眠そうな顔をした士官候補生が立っていた。さすがに、そのくりくりした大きな目をこする、なんてことはしていない。すれば、ジャーヴィスに怒られるから。
が、自身も悩んでいるくせっ毛の金髪が、寝ぐせでどうにもならないのを隠すため、真っ赤なバンダナを無理矢理頭に巻き付けている。
誰かに起こされて、慌てて着替えたのは一目瞭然だった。
「で、用件は?」
「はい。あの、艦長に会いたいと、お客様が……」
「客……?」
ジャーヴィスは眉をひそめた。
自分達は今、商船のフリをしている。海軍の記章も旗も上げてはいない。しかもロワ-ルハイネス号は、ジェミナ・クラス港に初めて入港した。この船が海軍の軍艦であることを知る者は殆ど皆無のはずだ。
「その客、海軍の人間か?」
クラウスはゆっくりとうなずいた。
「多分、そうだと思います。女の方なんですけど、私服で……。約束をしているから、“マリエステル”が来た、と言えばわかるって……」
客の名前を聞いた途端、ジャーヴィスの緊張した表情がゆるんだ。
「わかった、私が艦長に伝えよう。お前は朝直に立っていてくれ。ただし、もう少し格好を整えてからでいいぞ」
「す、すみません……」
顔を赤らめたクラウスは、ジャーヴィスにぺこりと頭を下げると、その場からいそいそと立ち去っていった。
◇◇◇
副長室を出たジャーヴィスは、後部甲板の階段を上がって甲板に出た。あたりはうっすらとした白い朝霧に覆われていた。ぼんやりと停泊中の船の輪郭が幻影のように浮かび上がっている。
ジャーヴィスは左舷の船縁に寄るとそこから身を乗り出し、舷梯(船の側面にある昇降用の足場)をのぞきこんだ。
一隻の小船がたたずんでいる。乗り手は二人。オールを持った方は目深に深緑のフードを下げていて、その体格から男ということしかわからない。
もう片方も、幅の広い薄紫の帽子を被っていたが、ジャーヴィスの気配を感じて顔を上げた。
肩に届くほどの漆黒の髪。猫のように鋭い瞳が印象的な若い女性だった。
ジャーヴィスは、彼女に向かって声をかけた。
「リーザ? リーザ・マリエステル……か?」
彼女はにんまりと笑った。
「そうよ、ジャーヴィス副長。今は、“マリエステル艦長”だけど。お忘れ?」
「うっ……!」
ジャーヴィスは思わず船縁から離れて後ろにのけ反った。
思わぬ客の登場で、額に嫌な汗がにじんでくるのがわかる。
「乗船許可をいただけるかしら」
「……どうぞ、お上がり下さい……」
ジャーヴィスは眉間を押さえて後ずさった。その数秒後、彼女が薄紫色のドレスの裾を左手で持ちつつ、舷梯を上がって来た。運動神経はかなりいい。
甲板に立ったリーザはぐるっとロワ-ルハイネス号を見回した。
「いい船ね。うちのファラグレール号より小さいけど……好みだわ」
「何の用件で? リーザ」
くるっと彼女はジャーヴィスの方へ向き直った。真ん中で分けた前髪が、その勢いを示すようにさっとなびく。
「敬称をつけなさい、ジャーヴィス中尉。あなたと私は同期の間柄だけど、今は私の方が上官なのよ」
「……し、失礼いたしました……」
ジャーヴィスは緊張で唇が硬直するのを覚えた。彼女に視線を合わすことをためらい、床に視線を落とす。
そんなジャーヴィスの様子を見たリーザは、密やかにふふふ、と笑った。
「確かあなたに会うのは士官学校を卒業して以来だから――十年ぶりだわね。相変わらずの様子でうれしいわ。悪いけど、ここで思い出話をする時間はないの。グラヴェール艦長に会いたいのよ。まだお休み中かしら」
「ええ、多分……」
ジャーヴィスは口元に手を寄せ歯切れの悪い口調で返事をした。
その様子にリーザの紅の瞳がおやと細められる。
「多分って? ジャーヴィス。あなた、副長のくせに自分の艦長の就寝時間も知らないわけ? それに、今朝、私が来ることも知らなかったみたいじゃないの?」
リーザのあきれる声が聞こえる。
ジャーヴィスは否定しなかった。恥ずかしいことにすべてリーザの言う通りなのだ。
返事の代わりにジャーヴィスは額に手を当てて頭を振った。
「どうしたの? いつものあなたらしくないみたいだけど」
近づいてきたリーザへ、ジャーヴィスはやはり視線を合わせることができずにいた。
「いや……。その、グラヴェール艦長は……どうも、私を信用してくれないようなんです。あなたが今朝来るなんて、一言もいわなかったし」
ジャーヴィスは少し寂し気に微笑した。
「ジェミナ・クラスに着いてから、正確にはツヴァイス司令との会見が済んでから――グラヴェール艦長はずっと一人で何かを考えているみたいなんです。私に情報が伝わるのは、いつも事後……」
ジャーヴィスは腕を組んだ。
昨日だってそうだ。
シャインはシルフィードの組には別命令を指示していた。ジャーヴィスはそれを知らなかった。
「そう。それはそれで問題かもしれないけど……ジャーヴィス、あなたは士官学校の頃から、人付合いの下手さは誰にも負けなかったわよね」
リーザははっきりと物を言う。昔からそうだ。人の気も知らないで。
「それは言わないでくれ」
気弱に小さくつぶやくジャーヴィス。
「とんでもなく几帳面で、正直者で、頑固者。そのお硬い性格のせいで、これまで何度昇進のチャンスをふいにしたのかしら……」
「リーザ……」
ぴくっと、彼女の眉が動いた。情熱的な紅い瞳が意味ありげにこちらを睨み付けている。
「す、すまない、マリエステル艦長」
リーザはじっとジャーヴィスを見つめていた。が、目を細め、仕方無さそうに肩をすくめた。
「今のは許してあげる。あなたの友人として。だけど、久々にあなたに会えるって来たのはいいけど……。ホント、あなたって自分から進んでイバラの道を歩いているとしか思えないわ。だって、グラヴェール中将の息子の副官なんて誰だって嫌がるわよ? 彼の身に何かあってごらんなさい。中将の怒りを買って、今までの経歴が水の泡となって消えてしまうわ」
「マリエステル艦長。おしゃべりする時間はない……と言ったのはそちらではないのですか? 今日、あなたが来ることを艦長が知っているのなら、起こしても構わないでしょう。部屋へご案内いたします」
ジャーヴィスはいつもの落ち着き払った態度で彼女をいざなった。
「じゃ、お願いするわ」
ジャ―ヴィスは先だって歩き出した。
十年ぶりに再会してそのせいで余計、気持ちが高ぶってしまったのだ。
彼女に愚痴をこぼしてしまうなんて。
自己嫌悪に陥りそうになりながら、ジャーヴィスはリーザと共に艦長室へと向かった。
◇◇◇
「グラヴェール艦長」
ジャーヴィスは静まり返った艦長室の扉を二度叩いた。
耳をすませてみる。だが、シャインの返事はない。
「やっぱりまだお休みのようね」
「じゃ、起こすまでです」
ジャーヴィスとリーザは互いの顔を見合わせた。
ジャーヴィスがノブを回すと、扉は軋みながらあっけなく開いた。
緊急時にすぐ甲板に上がれるよう、ロワールハイネス号では扉の施錠は食糧庫と武器庫だけに限られている。
「……失礼します」
部屋の中では、天井に吊るされたランプが煌々と辺りを照らしていた。
ジャーヴィスは目を細めた。
部屋の奥にはシャインの執務机があるが、その手前のサイドテーブルに、昨夜の夕食と思しき料理の皿が手つかずのままで置かれているのに気付いたからだ。
肝心のシャインは執務机に自らの右手を枕にして眠っていた。
着替えるのを忘れたのか、そのまま作業をしているうちに眠ってしまったのか。シャインは昨日の水夫姿のままだ。
執務机には海図が広げられており、床にはジャーヴィスが昨夜提出した水兵達の報告書らしき紙が数枚落ちて散らばっている。
「夕食を摂るのを忘れて寝てしまうなんて。かなりお疲れのようね」
リーザがくすりと笑いながらつぶやいた。
「いつもですよ」
ジャーヴィスがため息をついてサイドテーブルへ諦めきった視線を投げる。
「艦長は大体一日二食。けれど必ず15時にシルヴァンティーとスコーンを要求します」
「よ、要求なの?」
「ええ。これを忘れると機嫌が悪いのです。私としてはこんな鳥のエサみたいなスコーンを召し上がるより、ちゃんと夕食を摂って下さる方がいいと思って用意するのですが――」
「……食べたかったんだ。本当は」
ジャーヴィスは不意に聞こえたその声で思わず息を止めた。
執務机に突っ伏していたシャインが顔を上げている。青緑の瞳を気まずそうに細めながら。
シャインは頬にかかる前髪を払いのけ、両腕を上げて伸びをすると席を立った。
「作業を終えたら、夕食は摂るつもりだったんだ」
シャインの視線は物欲しそうにサイドテーブルの上のすっかり冷め切った料理へと注がれている。
「食事をしたら眠ってしまうと思ったから。料理を視界から遠ざけたんだ」
「でも結局眠ってしまったんですよね」
小さく咳払いをしてリーザがシャインの前に進み出た。
帽子を取り、真っ直ぐな瞳でシャインを見つめる。
「ファラグレール号のリーザ・マリエステル艦長です」
ジャーヴィスは客人を紹介した。
シャインはまじまじとリーザの顔を見つめ、そしてはっと目を見開くとつぶやいた。
「マリエステル? あ……! 今朝でしたっけ……」
シャインは両手で顔を覆った。そして足下に落ちている報告書の紙をかがんで拾い上げると、それを執務机に置いた。
「すみません、すっかりあなたの事を忘れていました。マリエステル艦長。おまけに……見苦しい格好で……」
シャインは申し訳なさそうに微笑して、彼女に近くの長椅子をすすめた。
「あなたが忙しいのはわかりますが、せめて私の事ぐらい副長に伝えといて欲しかったわ」
「本当に忘れていたので……すまない、ジャーヴィス副長」
シャインは両手を合わせて頭を下げた。
ジャーヴィスはそれを受けて顔をしかめたが、すぐにそれをゆるめた。
彼がリーザの件を忘れていたことは本当だろう。
自分に非がある場合、彼は真摯な態度でそれを受け止めるから――。
「いえ。それより、私はお茶を持って参ります」
「構わなくていいわ、ジャーヴィス副長。それより、あなたもここにいて欲しいの。これからストームの事でグラヴェール艦長と打ち合わせするから。いいでしょ? 艦長」
シャインはうなずいた。ばらけた髪が鬱陶しいのか、それを一纏めにしている最中だった。
ようやく髪をくくったシャインは、リーザの対面の椅子へ腰を下ろし、自分の隣へジャーヴィスを座らせた。
「まだこれからの事を話していなかったから、君にも説明するよ」
「ありがとうございます」
ジャーヴィスは感謝の念をこめてリーザを見た。彼女は一瞬不敵な笑みを浮かべて小さく頷いて見せた。
◇◇◇
「今日の予定としては、アバディーン商船へストーム拿捕の協力を確認に行くつもりです。先方の準備が整い次第、アバディーン商船の定期便をロワールハイネス号で襲います。マリエステル艦長、頼んでいたスクーナー級2隻の手配は大丈夫でしょうか?」
シャインの問いにリーザは大きくうなずいた。
「ジェミナ・クラスから南へちょっといった所に、アノールという小さな港があるの。そこへ商船として待機させてあるわ。荷の転送は大丈夫よ」
いきなり物騒な話を始めたふたりの艦長に、事情を知らないジャーヴィスは思わず口をはさんだ。
「申し訳ありません、どういう事なんですか? 定期便を襲うって? 私はてっきりジェミナ・クラスで“海賊ジャヴィール”の噂をはやらせて、ストームが出て来た所を待つ、とばかり思っていたのですが」
シャインが小さく頭を振った。その表情は硬く精彩に欠けていた。
「それで出てきてくれたらいいんだけど……やはり『海賊ジャヴィール』の存在を実際に示さないと怪しまれるだろう。それに、昨日みんなが集めてくれた情報で興味深いことがわかったし」
「えっ?」
シャインは卓上に海図を広げた。そこには、ジェミナ・クラスの北と東の海域、二ケ所に集中して×印がつけられている。港から出て約二、三時間航行した所だろうか。
「ストームは港で積み込みのすんだ船を襲っている。そして、アバディーン商船の船は、過去二回襲っていずれも失敗に終わっている。報告のある残り四回については客船で、乗客の貴金属を片っ端から奪う、というやり方だ。四回も襲うってことは、いずれも稼ぎはたいしたことがなかったんだろうね」
「客船を狙ったのは、警備船がいないことで、襲いやすかったのでしょうか」
シャインはジャーヴィスの問いに、軽くうなずき同意した。
「だろうね。その場しのぎに襲ったと思う。だからこそ、次はアバディーン商船の定期便を襲うと思うんだ。かの会社はエルシーア随一の、貴金属、魔鉱石取引の大手だからね。一回でも襲撃が成功すればその見返りは大きい」
「ならば、定期船に張り付いてストームが出てくるのを待つか、いっそのこと我々が定期船に仮装すれば、よいのではないですか?」
シャインは首を横に振った。
「時間があればそうしたい。でも、可能な限り早くストームを捕らえるようにと命令を受けている。具体的には一週間でだ」
「一週間ですって!?」
期限の猶予がないことを覚悟したジャーヴィスだが、そこまで短いとは思ってみなかった。
ジャーヴィスが驚くことを想定していたのか、シャインは淡々とした口調で話を続けた。
「アバディーン商船は一週間なら協力できると言ってくれた。だから、明日の定期便は海賊ジャヴィールの存在を世間に知らしめるために、ロワールハイネス号で襲撃する」
「そして私の船に積荷を積み替えて、アバディーン商船の代わりにそれを目的地まで運ぶの。流石に海軍の船に手を出す海賊(お馬鹿さん)はいないでしょうから」
リーザが作戦の後半を引き継いだ。
「後はこれを一日置きに繰り返す。アバディーン商船の積荷を奪う『海賊ジャヴィール』の事を、ストームは絶対に見逃しはしないだろう。奴は必ず我々の前に姿を現すはずだ」
「それで……ストームが現れたらどうするんですか?」
シャインは出かかった欠伸をかみ殺していた所だった。
ジャーヴィスは冷静に質問をしながらシャインの横顔を見つめた。
昨夜はあまり寝ていないのだろう。色白のせいか、今朝は目の下の隈が気になる。元よりシャインはこの三日間、ずっと船を空けて、ジェミナ・クラスに上陸していた。この作戦を実行するため、段取りを整えていたのだろう。
たったひとりで。
――馬鹿馬鹿しい。
ぎりっと奥歯を噛みしめたジャーヴィスの耳に、シャインの代わりに説明するリーザの明るい声が聞こえた。
「ロワールハイネス号には二十名の海兵隊員を乗せておくの。明日、荷の転送の時に乗り込む手筈になっているわ」
「彼らは今、マリエステル艦長の船で待機しているのですか?」
「ええ。転送用の船で待機しているわ」
シャインが忘れていたと言わんばかりに、「あっ」と小さく呟いた。
「ジャーヴィス副長。彼らの受け入れの準備を君に頼まなくてはならなかった。今日は船倉を整理して、二十名分のハンモックと食料を積み込めるようにしておいてくれ」
ジャーヴィスは内心やれやれと思いながら頷いた。
「了解しました。これで作戦の概要は理解いたしました」
ジャーヴィスは胸の内でくすぶっていた疑問が少し消えて清々しい気持ちになっていた。
そこで自ら話を切り出した。
「グラヴェール艦長。取りあえず話が一段落したので、朝食を用意しようと思いますが、マリエステル艦長とご一緒にいかがですか?」
その言葉に反応したのはリーザだった。
「まぁ……グラヴェール艦長、ジャーヴィス副長の言葉に甘えていいですか? 実をいうともう、お腹ぺこぺこで……」
カカーンと朝の静寂を破るかのように、頭上で船鐘が鳴る音が聞こえた。
「8点鐘――八時か。ぜひ、どうぞ。特に、うちの士官候補生の入れるお茶は最高で……眠気覚ましにはもってこいなんですよ」
そう言うとシャインは、人目をはばからず大きな欠伸をした。
「それって、とっても苦ーーい、ってことかしら?」
リーザが嫌そうに顔をしかめた。
「グラヴェール艦長の分は、特別濃いめに作らせます」
にやりと意味ありげな微笑を浮かべ、ジャーヴィスは席を立った。
「ジャーヴィス副長、普通で大丈夫だよ。だから……」
慌てるシャインを尻目に、ジャーヴィスは一礼して部屋から退出した。
艦長室の扉を閉めて、ジャーヴィスはしばしその場に留まっていた。
無意識の内に両手をきつく握りしめながら。
「私があなたにできるのは、こんなことしかないのか――」
――こんなことしか、頼ってもらえないのか。




