1-2 精霊の少女
一体誰がアイル号を襲撃したのだろう。息を弾ませシャインは駆けた。上甲板のヘルム副長や水兵達は襲撃者と戦っているだろう。彼らは大丈夫だろうか。
シャインは梯子を上り、メインマスト前の昇降口から上甲板に出た。日没を迎えた海上は夜の闇に覆われていて、驚くほどの静寂に満ちていた。甲板の上は砲撃を受けて立ち込める白い硝煙と、裂けてしまった帆、切れた上げ綱がぶらぶらと幽霊船さながら揺れている。そして濃い血の匂いがした。
そのせいだろう。息を吸うと眩暈がするのは。
アイル号の水兵四十名と思しき躯が甲板のあちらこちらに倒れ伏している。小さなうめき声が聞こえるので、まだ何人かは息があるようだ。
どうして、こんなことに。一体、誰が。
それらを凝視し、シャインは唇を噛んだ。
いけない。しっかりしなければ。
無意識の内に小脇に抱えた船鐘を握る手に力を込めた。襲撃者達がまだ甲板にいるはずだ。彼らの目的はどうやらこの船鐘なのだから。
シャインはメインマストに体を寄せて、身を隠し海上を見つめた。襲撃者の船がアイル号から少し離れた海上で裏帆を打ち、一時停船しているのが見える。彼らは雑用艇を下ろして乗り込んできたに違いない。
あれは何だ?
シャインは襲撃者の乗っていた三本マストの武装船の後ろに、もう一隻船影があるのを見た。こちらも三本マストの船だが武装船より一回り小さい。それぞれのマストに縦帆があるので中型のスクーナー船だ。けれどそのスクーナー船は、武装船を襲撃したかのように、船尾に横づけしている。
と、同時に武装船から火の手が上がった。船首甲板から上がった炎は、あっという間に静索を伝い一番前のフォアマストの帆へと燃え広がっていく。
どういうことだ?
アイル号を襲撃した謎の武装船を、別の一団が襲撃して火を放った?
だがシャインが知る限り、中型のスクーナー船はエルシーア海軍の船には見えなかった。海軍の軍艦の帆は白と決められているが、炎に照らされて見えたそれは、紺か黒色だったからだ。
めまぐるしく変化する状況についていけない。
混乱した気持ちを落ち着かせるため深呼吸すると、腕の中にある船鐘が小さくカランと鳴った。今思えば、それは警鐘だったのだろうか。
シャインの耳が銃声を捕えた途端、船鐘を抱える左腕と肩に焼け付くような痛みが走った。炎上する武装船に気を取られ周囲への注意を怠った。自分の失態を認識するよりも先に、シャインの体は仰向けに甲板に倒れていた。
誰だ。
気配を感じて首を動かす。
「そいつを渡してもらおうか」
艦長室で出会った襲撃者とは違う、若い男の声が頭上から聞こえた。
「ぐっ!」
シャインは増した痛みに目を細めた。シャインを見下ろす男の長靴が、撃たれた左肩の傷口をぐっと踏みつけている。
「お前が持っていても、しょうがないんだ」
痛みで視界がかすむ。顔を見てやりたいのに宵闇のせいで暗く見えない。話す言葉はくだけたエルシーア語のようだが。
「これは……渡さ、ない」
衝動的にシャインは口走った。脳裏に黄昏色の髪をした少女の顔が過ったからだ。船鐘を抱える左腕に力を込める。
「ああそうかい!」
傷口を踏みつける力が再び強くなった。急に左手に力が入らなくなった。
「素直に渡せば、鎖骨を折らなくても済んだのに」
男はシャインの顔を覗き込みながら、あざ笑うように呟いた。シャインの左手は船鐘から呆気なく滑り落ちた。
「じゃ、こいつはいただいていくぜ。海軍の坊や」
「まて……!」
やや大きめの口を歪めて男は薄く笑うと、船鐘を拾い上げるため手を伸ばした。鏡を思わせる銀色の船鐘に、皮手袋をはめた男の指が伸びる。それが触れると同時に、青白い閃光が鐘からほとばしった。
「チィッ!」
男が舌打ちして伸ばした左手を引っ込める。まるで熱した鉄に触れて火傷をしたように、男の指からは白い煙がうっすらと上がっていた。
「……そうか。そういうことか。こいつは面白い」
喉の奥を鳴らして男の唇がさらに引きつった笑みをたたえる。
「奴もきっと興味を持ちそうだな。気が変わった」
肩を踏みつけていた力がふっと消えた。
「お前にこいつを預けてみることにしよう。まあ、お前が生き残ればの話だがな」
「……なに……?」
この船鐘は一体何だ。
お前は一体何者だ――。
男は現れた時と同じように気配を感じさせぬまま姿を消した。
シャインは右手で体を支えながら、何とか上半身を起こした。
正体不明の若い男は姿を消したが、ヴァイセ艦長を殺した二名の襲撃者がまだ船内に残っている。彼らは「船鐘」を狙っていた。必ず取り返しにここに来る。
シャインはメインマストの根元に背中を預けると息をついた。左肩の銃創が疼く。右手で首に巻いた襟飾りを振り解き、止血のため傷に巻きつけようとした。けれど左手が上がらない。理由はすぐに分かった。鎖骨を折られたせいだ。だが腕を動かした途端、耐え難い痛みが走った。額にどっと冷や汗が浮かぶ。周囲が闇に沈んだ。
「大丈夫?」
この場に似つかわしくない澄んだ少女の声がシャインの耳元で囁いた。朧げな意識の中、シャインは重く感じる瞼を開いた。
「しっかりして」
どうやら少し気を失っていたようだ。
誰かが自分の顔を覗き込んでいる。シャインは声が聞こえた方へ首を動かした。
「……君……は?」
緩やかにうねる長い紅髪をふわりと揺らし、透き通った水色の瞳がシャインの顔を心配そうに覗き込んでいた。年の頃は十七、八才ぐらいの少女。シャインは我に返った。『彼女』だ。
日没前、船首で佇んでいたのを見た姿は、うっすらとした光を身に纏い、淡く儚げな印象だったが、自分の顔を覗き込む彼女は、生きている人間と同じように見える。
「私が傷口を縛るわ。それを渡して」
「あ、ああ……」
シャインが襟飾りを少女の方へ渡した時、彼女の手がそっと指に触れた。
『ありがとう。船鐘を守ってくれて』
脳裏に彼女の柔らかい声が響いた。まぎれもなくシャインに呼びかけてきた声と同じ。それに気付くと少女がこくりとうなずいた。
「そう。私があなたに話しかけたの」
「君は――『船の精霊』なのか?」
「船のレイディ……?」
少女は一瞬戸惑ったように目を細めた。何かを思い出したのか、シャインから視線を逸らし俯く。
「あ、いや、ごめん。変なことを言ってすまない。日没前に船首で見かけた君が、まるで精霊みたいに見えたから……それに」
シャインは右手を伸ばして船鐘を自分の方へ引き寄せた。
「言い伝えだと船の魂である『船の精霊』は、船鐘に宿るそうだから勝手に俺が、そう思い込んだ」
「いいえ。その通りよ。私は『船の精霊』」
揺るぎない強い瞳で少女はシャインを見つめた。
「私のことは『レイディ』と呼んで」
「……本当に?」
「ええ、そうよ」
「わかった」
レイディの澄み切った青い瞳からシャインは目を逸らすことができなかった。瞳を覗き込むとまるで自分の心と彼女の心が繋がったように感じられたからだ。その感覚に戸惑いつつシャインは口を開いた。
「俺の名前は」
「知っているわ。シャイン・グラヴェール」
「どうして、俺の名を?」
「皆からそう呼ばれていたのを見てたから」
ああそうか、とシャインは思った。やはり彼女はこのアイル号の船の精霊なのだ。
「くっ」
左肩に回した襟飾りを少女――レイディが結んでいる。
「ごめんなさい。痛かった?」
「大丈夫だ。ありがとう」
息を吐きシャインはレイディに微笑した。彼女は眉根を寄せ不安げな顔をしていたが、シャインの笑顔に安心したのだろう。緊張を緩め笑い返してきた。彼女がいるせいなのか、不思議と心が落ち着くのを感じた。冷静さを取り戻したシャインは、ようやく周囲を見渡した。
「おかしい」
「どうしたの?」
「いや。この船鐘を狙っている奴らがいるはずだが、まだ甲板に上がってこない」
「――心配する必要はないわ。彼らはもう死んでいるもの」
「なんだって?」
レイディはシャインの隣に腰を下ろして膝を抱えた。
「あなたを撃った『あの男』が殺したの。シャインが艦長室から出た直後に、入れ替わりであの男がやってきて彼らを殺したわ」
レイディの瞳の中には、悲しみと僅かな怒りが込められていた。
「君は彼らが何者か知っているのか?」
赤い髪がさざ波のようにゆっくりと揺れた。
「ごめんなさい。私もよくわからないわ。でも安心して。彼らは立ち去ったから」
立ち去った?
シャインはメインマストにすがりながら、ゆっくりと立ち上がった。右手でその太い柱につかまり、夜の闇で黒々とした海面を見つめた。少し前までは、アイル号を砲撃した武装船が炎上していたが、今はその影すら見えない。
「あの船は三十分前に沈んだわ。火薬庫に火がついて、そこに開いた穴から海水が一気に入り込んだから。襲撃していった方のスクーナー船は、とっくの昔にここを立ち去った」
シャインはよろめきながらメインマストから離れた。武装船が沈んだことで思い出したのだ。
「レイディ。君は、大丈夫か?」
「えっ」
「アイル号は砲撃を受けたんだ。メインマストの帆桁が吹っ飛んでるし、船体にも穴が開いているはずだ」
そう思う根拠はある。アイル号が右舷側に少し傾いている。波のうねりのせいではない。
「大丈夫よ。この船はまだ沈まないわ。いえ――沈ませない」
儚げな印象の彼女が、力強くそう答えた。ふわりと白い花びらのようなドレスを揺らし、シャインの隣へ歩いてくる。
「シャイン。これからどうするの?」
どうすると聞かれても――。
シャインは荒い呼吸をしながら、足を動かした。重い海風に乗って、ヘルム副長のうめき声が後部甲板の方から聞こえたような気がしたのだ。そこへ行くたった五段の階段を上るのが永遠のように思われた。手すりに身を預け顔を上げると、舵輪の手前で仰向けに倒れているヘルム副長の姿が見えた。
「生きているわ。でも……」
レイディが口籠ったそのわけはすぐにわかった。メインマストの帆を張るための長い帆桁が、砲撃を受けて索が切れ、彼の両足の上に落ちていたからだ。
「ヘルム副長、しっかりして下さい」
シャインは彼の傍らに膝を付き呼びかけた。
「その声は――グラヴェール、か」
ヘルムの顔は血の気がなく蒼白だったが、顔を覗き込むシャインのことはわかったらしい。
「そうです」
「くそっ。私は見ての通りだ――ううっ」
「副長。すみません」
シャインは膝をついたままうなだれた。ヘルムの足を押しつぶしている帆桁は重量があり、肩の負傷がなくてもシャイン一人の力ではどうすることもできない。
「わたしがやってみるわ」
「レイディ?」
「多分、動かす事ができると思うの」
レイディの言う意味がよくわからない。だが彼女はヘルム副長の両足の上に落ちた帆桁に近づくと、両手を広げて目を閉じた。彼女のつま先がふわりと床から宙に浮いた。
「すごい……」
レイディの体の縁をなぞるように青白い微光が取り巻いていく。と、帆桁の円材が少しずつ上へと動き出した。それは両手を前に伸ばし、掌を下に向けた彼女に吸い付くように浮いていく。
レイディも円材が上に上がるにつれて、自分もさらに上へと上がっていく。ヘルム副長の足の上から円材が宙に浮いたところで、レイディは掌をさっと海の方へと向けた。
ぶうんと風を切る音がして、円材は大きな水しぶきを上げながら船外へ落ちた。
「君は……本当に、この船の精霊なんだ……」
感嘆の声を思わずシャインは上げた。鮮やかな紅髪を揺らしてレイディが振り返る。シャインはうめき声すら上げなくなったヘルム副長に気付き、慌てて右手を彼の首筋に当てた。弱いが、脈はある。どうやら傷のショックで気を失ったのだろう。
だがこのまま海を漂流すれば、ヘルム副長は元より自分も死ぬ。
「港へ――アスラトルへ……帰らなければ……」
少しでも帆に風を受けるため、船の向きを変えなくてはならない。舵輪まで歩いてその柄を掴んだ時だった。
「シャイン、待って」
シャインの隣にレイディがふわりと飛んできた。
「私が船を動かすわ」
「えっ?」
「大丈夫。あなたが行きたいと思う場所に私が船を動かすわ。手を出して、シャイン」
シャインは舵輪から手を離し、黙って右手をレイディに伸ばした。華奢な指がシャインの掌を包み込む。
「アスラトルまでの帰り方を頭の中でイメージするだけでいいの。後は私がやるから」
「……わかった」
シャインは目を閉じた。母港アスラトルを出港したのは僅か三日前だ。しかもずっと南西風を受けて北東寄りで来たので、帰りはその逆に進めばいい。
「私に風は影響しない。アスラトルまでの最短航路を示して!」
レイディの手が熱い。まるで彼女に自分の体温をすべて奪われているみたいだ。悪寒がシャインを襲った。歯がかちかちと鳴った。
「最短航路は……まず西へ……エルシーア大陸が見えたら……南に転針して陸沿いに進む……エルドロイン河の河口が見えたら港はすぐだ……」
そうレイディに言ったのは覚えている。だが闇の海がシャインの目前に迫り、あっという間に意識が暗闇の波へと攫われていった。