5-73 透明な微笑
「風は……やや南東寄りか。それにしても、これじゃあ俺達の姿、まる見えだぜ」
ロワールハイネス号の舵輪を握るヴィズルは、舌打ちしながら夜空を見上げた。
真夜中だというのに空は銀色に輝いている。二つの兄弟月――銀のソリンと金のドゥリンが、満月とはいかないまでも、ほぼ円に近い形で空に昇っているからだ。
ロワールハイネス号は東西に細長く伸びるリュニス本島を後にして、やや西寄りの針路を進んでいた。
「なによ。私があの不格好な船に追いつかれると思ってるの?」
いつになく強気な少女の声がヴィズルの耳に響いた。
ロワールハイネス号の推進力は風だけではない。
この船に宿る『船の精霊』が、自らの強い意志で船を動かしているのだ。
しかしそれには精霊にも船体にも大きな負荷がかかる。普段は十七才ぐらいの少女の姿で甲板を闊歩している彼女だが、今は船を動かすことに大きな力が必要なので、その姿をとることをやめていた。
けれど、すべての船の精霊が、自らの力で船を動かすことができるわけではない。
ヴィズルはこれまで多くの船の精霊たちと関わってきたが、ロワールほどの優秀な『レイディ』に会ったことがなかった。
特に『走る』能力に関しては、速度は当然のことながら、持久性も優れていることを見抜いていた。
それはロワール自身の特性ともいえるのだが、彼女が持って生まれた能力を育てたのは、まぎれもなくシャインの存在だろう。
ロワールの潜在能力には、シャインの深層心理が影響している。
船の精霊は、船を愛する者の『想い』で命を与えられるといわれているからだ。
裏を返せば、それはもう一人のシャイン自身といってもいい。
「だがな、ちょっと飛ばしすぎじゃねぇか? 後で動けなくなっても俺は知らねぇぞ?」
ロワールハイネス号はご機嫌――を通り越して、海を飛び跳ねるように駆けていた。
リュニスの港で待機していた大型の手漕軍用船・通称<ドロモン>が、それこそ飛沫を上げて十隻以上追いかけてきたが、疾走するロワールハイネス号には到底叶わず、水平線の彼方に消失したのは一時間前のことだ。
「いいの。シャインがそれを望んでいるから。私は急いでエルシーア海軍の船に合流しなくっちゃ……」
「なんだと?」
ヴィズルは思わず怒声を上げた。
ロワールに速度を上げさせていたのはシャインだったのか?
「シャインは焦ってるわ。どうしても早くお父さんに会いたいみたい」
「……」
ヴィズルは黙り込んだ。
シャインが言っていた。リュニスは人質交換を利用して、エルシーアの軍艦を不意討ちにする計画だと。ヴィズルは伸ばしっぱなしで、風に靡くままの銀髪頭を掻いた。
気持ちはわからなくもない。
だがな、シャイン。
だったらなおのこと俺に相談してくれればいいんだよ。
お前はなんでも一人でやりたがるがな。
ヴィズルは懐から淡い水色の光を放つ三日月の形をした短剣を取り出した。
「ロワール。もうリュニスを出てから二時間だ。無理するとあんたは力を使い果たして消えてしまう。この短剣の力を貸してやる。使い方は知ってるな?」
「ヴィズル?」
戸惑うロワールの声を聞きながら、ヴィズルは舵輪の前の甲板に黙って短剣を置いた。
「ちょっとだけ舵を頼むぜ、ロワール」
ヴィズルはともすれば左右に傾く甲板をものともせず、後部甲板の昇降口を下りて船長室へと向かった。下甲板は階段の所に小さなランプが一つ天井に吊り下げられているだけで薄暗い。
ヴィズルはシャインの姿を探した。
彼はアリスティド公爵令嬢ディアナを船長室へ案内するため、今から一時間前に下甲板へ降りていた。
逃亡の際ディアナの服が濡れてしまったので、着替えをさせ、休息をとってもらうためだ。
よって部屋は現在ディアナが使用している。
彼女の着替えの服はヴィズルが事前に用意していた。体型がわからないので、ゆったりしたものと、細身のものと二種類選んで、リュニスの市場で買った。もとよりリュニスの服は頭からすっぽり被って、腰の所で好きな飾り紐で結ぶものがほとんどだから、余程横幅がないかぎり誰でも着られるはずである。
ヴィズルは物音一つ聞こえない船長室の扉をちらりとみて、船首の方にある大船室へと歩いた。
公爵令嬢と話でもしているかと思ったがその気配がなかったからである。
ひょっとしたら、彼女のためにシルヴァンティーを作っているのかもしれない。
ヴィズルは大船室の天井にぶら下っているランプを一つ取った。窓のない下甲板は昼間でも暗く、ランプがないとよく見えない。ヴィズルはそのまま真っ直ぐ調理場へと向かった。
調理場は扉がなく、乗組員が一度に十人は食事がとれる大きな長机と床に釘で固定された椅子が置いてあるだけだ。
「……シャイン」
ヴィズルは半ばあきれつつ、その長机に伏せているシャインの金髪頭をながめた。
机の上にはやっと外せたらしい、あの錆びついた鉄枷が鍵束と一緒に置かれていた。その隣でシャインがリュニスの黒い軍服を着たまま、肘を枕代わりにして頭を載せ眠りこんでいた。
彼自身は眠るつもりではなかっただろう。その証拠に、長机の上にはランプの明かりが煌々と点いたままだ。
「……昔、お前に言ったことがあったよな」
ヴィズルは自分の持っていたランプを机の上に置いて、シャインの隣に腰を下ろした。
はっとシャインが目を開く。鮮やかな青緑の瞳がランプの光に気付いて眩しげに細められた。
「船の精霊は……本当にすごいんだぜ。彼女がいれば、船を動かすための人間はいらない。俺の命じるままに、彼女が自在に船を動かしてくれるのさ――とね」
「――ヴィズル」
むくりとシャインが上半身を起こす。ヴィズルはその横顔に濃い疲労の影を認めた。
「でもそれは、あくまでも『俺』の話だ。お前は船の精霊と心を通わせることができる稀有な人間だが『術者』じゃない。だから、必要以上ロワールと同調すると……いや、ブルーエイジでできているあの『船鐘』に、自分の命をすべて奪われるぞ」
「……」
シャインの顔は普段のそれよりも青ざめて色がなかった。額には冷汗が浮いている。
シャインは右手をあげて何気なくそれを拭った。青緑の瞳だけが、何かに急かされるように熱を帯びている。
「それは、どういう意味なんだ?」
ヴィズルは思わず眉をひそめた。
まさか無自覚とは思えないが。
「船の精霊の命の糧が何か。お前はそれを知らないのか? 船の精霊は、船を愛する者の『想い』を喰って生きている。それは他ならぬ、お前の生命力ってことだ。ついでに言うと、俺だって船の精霊に命じて船を動かし続けるようにできるわけじゃない。あのブルーエイジの短剣から力を引き出して、グローリアに船を動かすための力の源にしていた。俺自身の魂を代償として喰わせながらな」
「……」
シャインはヴィズルから顔を逸らした。どこに視線を定めることなく、不意に中空を眺めた。
薄い唇がゆっくりと動き、独り言のように言葉を吐き出す。
「……つまりそれは、俺も彼女と共に生きている……そういうことだね」
ヴィズルは返答に詰まった。
一瞬あっけにとられた。
船の精霊を操るヴィズルですら、精霊との関係をそんな風に考えたことが一度もなかったからだ。
「そうか。ロワールだけに負担をかけてどうしようかと思ってたんだけど、俺も彼女に協力できるんだね。よかった」
シャインは瞳を伏せ微笑した。
まるで彼自身がそれを望んでいたかのように、何の恐れも邪気も感じられない、例えるなら透明な微笑――だった。
ヴィズルは彼の微笑みにうすら寒いものを感じた。同時に危険を。
シャインは以前もそうだったが、自分自身に関心がない。その存在は空気みたいなものと言っても過言ではない。
ロワールハイネス号へは異常なほどまでの執着を持っているが、他は無欲で、生きることすらあっさりと放棄する危うさがある。
まずいな。
嫌な予感がすると、指先がチリチリする。
「シャイン。俺が言いたいのは――」
ヴィズルの目の前で、シャインの頭が再び下がりだした。
「明日の朝までにアノリア沖に着きたいんだ。もう少し……この速度を維持……」
「シャイン。お前、無茶言うな」
ヴィズルは目を剥いた。リュニス本島とアノリア港は風に恵まれても二日かかる。
それをたった一日に短縮しようだなんてそもそも無理な話だ。
下がる頭を右手で支えたシャインの瞼はほとんど塞がっていた。
「無茶はわかってる。でも、エルシーアの艦隊がアノリアに来る前に……合流、しないと……」
シャインの頭は再び長机に沈んだ。
ヴィズルは黙ったままそれを見つめていた。机に臥せたシャインの呼吸が安定した穏やかなものだったので、疲労からくる眠りに落ちたことを察した。
「……全く……なんでこうなるんだよ。なんで、お前がそんなことをする必要があるんだよ」
リュニスへ行くことになった原因を思い出し、ヴィズルは半ば怒りを覚えながら席を立った。
シャインは自由な海を自由に航海して生きる権利がある。
エルシーアにいられないなら、どこか他所の海に行けばいい。
乗組員が足りないなら、俺がどこまでも付き合ってやってもいい。
お前はもっと自分らしく自由に生きていいんだぜ?
ヴィズルは口を開きかけ、漏らしそうになった独り言を喉の奥へと飲み込んだ。
俺達は自由だ。
けれど運命の風という奴は、時に強大な嵐となって行く手を阻む。
それを乗り越えなければ、本当の自由は得ることができないのだ。




