5-69 彼女がくれたもの
メリージュは何とか気丈に話し続けようとしていたが声が徐々に震えていた。
「皆が寝静まった夜。私は部屋の中を誰かが走る物音で目覚めたわ。気付くとそこにはリュニス兵が剣を手にして立っていた。何故と問う間もなく寝床から引きずり出されて、浜辺に連れて行かれたの。私だけじゃない。すべての島民が男と女に分けられて、別々の船に乗せられたわ。
私は――結婚したばかりだったから、夫から離れまいと必死でその体にしがみついていたけど……結局引き離された。どうして私達がこんな目に遭うのか、全く理由がわからなかったわ。皆が助けを求めていた。島長のカイゼル様や、風を操り、島を守って下さるリュイーシャ様の名を口々に叫んで――でもお二人の姿は最後まで見えなかった。
クレスタ島の島民は、こうして家族が、友人が、互いがロードによって引き離されたの。女ばかりを乗せた船は数日航海した後、アノリアの奴隷港に入ったわ。私はアノリアに住むエルシーア人の貴族の家の女中として売られた。これは後で聞いた話だけど、ロードは女達を売って軍資金を得て、男達は兵士として自分の軍艦に乗せたそうよ。島民の共通の財産だった真珠もすべて売りさばかれて、ロードが皇帝になるための資金になったわ」
「……なんて酷いことを」
シャインはただそれだけを噛みしめるように呟いた。
そんな出来事があったとは思いもしなかった。リオーネもきっと思い出したくない記憶に違いない。
母リュイーシャの事を知りたくて、リオーネに故郷のことを教えてくれるように訊ねた時があった。
けれどリオーネは話題を逸らし、話そうとはしなかった。
「すみません、メリージュさん。辛いことを思い出させてしまって」
愛しい人と引き裂かれた記憶はこれだけの時が流れても、未だメリージュの心に消えない傷として残されている。いや、少しはその痛みが薄らいだだろうに、シャインの存在で再び記憶が呼び覚まされてしまった。それを思うと申し訳ない気持ちで胸が苦しくなる。
「いいえ。私は大丈夫です。それよりもリース様にお会いできて――正直とても嬉しいんですよ」
メリージュの伸ばした指がそっとシャインの頬に触れる。
「カイゼル様はきっとロードの手にかかって殺されたのでしょうが、その娘であるリュイーシャ様とリオーネ様はあの男の手から逃げ延びることができた。あなたがここにいらっしゃるのがその証。
このまま生きていたってロクなことがない。クレスタを滅茶苦茶にしたロードを殺してやるつもりでリュニスに戻り、宮殿にもぐりこんだけど……結局私のような小娘にはそんな大それたことできなかった。
リュイーシャ様のことも本当は――私達が家族や大切な人と離れ離れになろうとした時、どうして風を操ってロードの船を沈めて下さらないのかと、私達を何故守って下さらなかったのかとお恨みしたこともありました。
だけど……それは望んではならないこと。リュイーシャ様は破壊のために嵐を起こすのではなく、それから島民を守るためだけにしか、力を使われなかった。クレスタの民なら子供でも知っている、海神との『約束』です。私はようやくそれを思い出しました」
「メリージュさん……」
メリージュは再びうるんできた目元を指でこすって微笑した。
「もっとよくお顔を見せて下さいます? リース様……いえ……」
メリージュが近づいてきてシャインの顔を見上げた。
「あなたの本当のお名前を教えて下さい。リュイーシャ様があなたへ一番最初に贈った、『名前』を」
「……」
シャインはすぐに口を開くことができなかった。
母リュイーシャとは赤子の時に死別したときかされていたから。シャインは彼女のことをほとんど知らない。自分への愛情もどれほどあったのか知る由もない。
もっとも、自分の名付け親がアドビスなのか、リュイーシャなのか、それとも他の人間なのかも。
けれどふと感じた。
目を閉じる。
心の奥。意識を超えた無意識の領域。
ここではないどこか。だけど、どこかでみたことのある、深層の風景。
右手の人差し指にはめた指輪が、何故だか急に縮まり指をぐっと締め付ける。
その存在を意識しろと伝えるかのように――。
『――この子は私の分身なの。私がこの世に生きた証。私の命の光、そのもの』
風?
頬に誰かが一瞬触れて、声なき言葉を囁きかけた。
その感覚で目を開ける。
目の前にいるのはメリージュだけだ。
でも確信を持って言える。今触れてきたのは彼女ではない。
「母から贈られた俺の本当の名前は、シャインです」
シャインは何も思わぬまま自分の名を口にした。
そして口の中で再度、名前を繰り返した。
――そう。
自分は母のことを全く知らないけれど、この名前は確かに彼女が一番最初にくれた贈り物なのだ。
「シャイン……シャイン様と仰るのですね」
「え、ええ」
そう念を押されるとやはり照れる。
「シャイン様……」
メリージュが噛みしめるように、何かを考えるように、シャインの名を繰り返す。
「本当は母から贈られた名前かどうかは確信が持てないんですけど、でも、俺は自分の名前をつけてくれたのは母だと思っています」
照れ隠しにシャインはそう口走った。
「シャイン様。私、このお名前をどこかで聞いた覚えが――」
切れ長のメリージュの目がさらに細くなる。
「あの、何か俺の名前に――」
「ああそうですわ! ディアナ様があなたの顔をご覧になった時、そう呼びかけていらっしゃった……」
メリージュが大きく何度もうなずきながらシャインを見た。
反対にシャインは思わず唇を引きつらせてメリージュを凝視した。
今、彼女は何と言っただろう。
確か、ディアナ様がどうだとか――。
シャインははっと口元を覆ったメリージュを見て直感した。
思わず彼女の顔を厳しい表情で凝視する。
<メリージュさん。あなた、エルシーア語が話せますね?>
シャインはエルシーア語でメリージュに話しかけた。
メリージュがつられてこくりと頭を動かす。が、しまったといわんばかりに、首を横に振ったのだ。
もうすでに時遅しだが。
「胡麻化そうとしても駄目ですよ。メリージュさん。あなたはエルシーア語を理解できる。ディアナ様は俺の顔を見てその名を言いました。『シャイン』と。けれど俺は自分の名を一言も言っていません。しかもあなたは先程、アノリアでエルシーア人の貴族の家で働いていたことを仰っていたじゃないですか。そこでエルシーア語を覚えられたのですね?」
「しまったわ。まさかこんな形でばれてしまうなんて」
メリージュは肩をすくませシャインに頭を下げた。
「申し訳ありません。リース様……いえ、シャイン様。隠していたことは認めますわ。ですが、リュニスでエルシーア語が話せるとあらぬ疑いをかけられますので、誰にも気付かれないようにしておりました。それだけはご理解していただけないでしょうか。ディアナ様との会話も、すべてきいていたわけではありません。お二人とも小声で話されておられましたし。ただ、シャイン様のお名前をディアナ様が必死に呼ばれているのが印象に残っていたんだと思います。それで……」
「わかりました。もう気にしてませんから、その件は俺も知らなかったことにします」
「ありがとうございます。シャイン様」
シャインはうなずいた。
確かにメリージュにそれ以外の他意はなさそうに感じられた。
シャインは岩壁の暗闇が以前より少し明るくなってきたことに気付いた。
水も膝上ぐらいまで潮が引いている。
まもなく夜が明ける。
「メリージュさん。あなたと話したいことがまた沢山ありますが、もう少ししたら夜が明けます。誰かにここから出るのを見られないうちに帰って下さい。俺は大丈夫ですから」
シャインは強張った上半身を捻り、ふっと感じた異音に耳をそば立てた。
水音がする。
誰かが水たまりに足を突っ込んで、それを跳ね上げながら歩くものとよく似た音が――。
メリージュもそれに気付いたのか、慌てて角灯に手を伸ばし、蓋を開けると息で灯りを消した。
洞窟内がぼうっと青白い闇に包まれる。
メリージュが縦穴から出るために、垂らしていた綱を手探りで探していたその時。
ゆらりと、右手方向から炎の灯りが近づいてきた。
膝上まである海水をかき分けて歩く水の音がさらに大きくなり、炎が何者かの姿を黒い影として岩壁に描き出す。
シャインは自分に向けられた灯りの眩しさに、しばし目を閉じて顔を俯かせた。
ばしゃばしゃ水音を立てて誰かがこちらへ駆け寄ってくる。
肩に不意に誰かの手が乗る重さを感じた。
「シャイン! おい、大丈夫か?」
シャインは目を開けた。
よく知った彼の声をきいたせいだろうか。
安堵感でいうことをきかなくなった膝が急に震え出した。
「……ヴィズル。なんだ、遅かったじゃないか」
ゴツ!
ヴィズルの拳がシャインの頭を殴りつける。ただし、軽くだが。
「こんな状況でよくそんなことを言えるな。俺が来なかったらお前はこれで二度死んでるぜ?」
ヴィズルはシャインを睨みつけていた。夜色の瞳が直視するのが憚れるくらい険悪な光を放っている。
「すまない。来てくれてうれしいよ」
シャインは顔を上げて、壁の近くでヴィズルを凝視するメリージュに声をかけた。
「大丈夫。彼は俺の友人です」




