5-66 絆の深さ
「……つっ」
「あら頭痛? ヴィズル」
ヴィズルは対面に座るカレンになんでもないというふうに首を振ろうとしたが、脳裏に再び響いた叫び声に顔面を硬直させた。
こいつは。
ヴィズルはしばし右のこめかみをさすった。
『ヴィズル! 早く私の所に来て!! 来ないと許さない。口きいてあげない。一生呪うわ! 女の人と遊んでないで、さっさと私の呼びかけに答えなさいよ! 薄情者!!』
「ずいぶん痛むみたいじゃない。顔面蒼白」
かたんと音をたてて椅子を後ろに引き、カレンが席から立ち上がった。
そっとヴィズルの顔をのぞき込み、唇に押し当てた人差し指をヴィズルのそれに優しく触れる。
「待ってて。カレン様特製の飲み薬を作ってきてあ・げ・る」
「……頼む」
ヴィズルはうつむいた。
くそ。ロワールの奴。
カレンが厨房に入ったのを確かめてから、ヴィズルは酒場から抜け出した。
建物の落とす影に身を隠し、さっきから頭を割らんばかりにキンキン響くロワールの声に意識を合わせる。
『――なんだよロワール! いきなり大音量で叫ぶな。俺の細やかな神経が焼き切れちまうだろ!』
叫び返すとロワールの声がさらに大きくなった。
『よかった! 気づいてくれたのね! さっすがヴィズル! 早く私の所へ来て! シャインが……』
『シャインがどうした』
『感じるの。彼の身に何かが起きてる。私、さっきから自分が消えるんじゃないかって、ものすごい不安感に襲われたんだけど、違うの。消えそうなのはシャインの方。海からそんな意識を感じたの。とにかくすぐに来て、ヴィズル。私と一緒にシャインの所に行ってほしいの!』
『……わかった。すぐに行く』
ヴィズルはロワールとの会話を打ち切った。
ロワールがでたらめを言っているとは思っていない。
いや、ヴィズルの『術者』としての力は、船の精霊を操り一度に何隻もの船を動かすことができるというものだ。過去を振り返りたくはないが、その力を利用して多くの船の精霊の命を失わせたこともある。
それ故に、船の精霊を生み出した人間と、彼女たちの間にある絆の深さは誰よりも知っている。
ヴィズルは気配を殺しながら、ロワールハイネス号が係留されている港へ向かった。
「……ほう。こいつは驚きだな」
一週間前シャインと会った時、確か何人もリュニス兵がロワールハイネス号の傍に立っていた。
けれど今夜は誰もいない。
シャインは宮殿に帰ったから、ここの見張りをする必要がないということか?
ヴィズルは再びロワールに話しかけた。
『ロワール。船の近くまで来た。今誰か乗ってるか?』
『ううん。誰もいないわ』
『よし』
ヴィズルはロワールハイネス号に近付き甲板へと乗り込んだ。
「ヴィズル! 待ってたわよ!」
ロワールが走るのもまどろっこしい様子で空中を飛ぶ。
「シャインの居場所はわかっている。皇帝のいる宮殿のはずだが、あいつ、何かきっとヘマしたんだろうぜ。一週間前ここにいたバーミリオンが、シャインを捕まえたがっていたからな」
「宮殿。ヴィズル、あなたそこに忍び込むの?」
「……」
ヴィズルはしばし黙って思案した。
リュニスの皇宮は二重三重の城壁で取り巻かれ、多くの衛兵が警備している。結果的にはそこに入り込むにしろ、事前の下調べもなく今すぐできることではない。
「なあ、ロワール」
ヴィズルは一つ気になることがあった。
「あんたはどうしてシャインが危ないと思うんだ? しかも今すぐ、奴の身に危険が迫っているのか? 助けを呼ぶ声が聞こえたのか?」
ロワールはうつむいて小さく首を振った。
「ううん。声ははっきりと聞こえないわ。でもシャインの身には危険が迫ってるって、海を見ていたらそう感じたの。本当よ!!」
「海……」
「うん。ほら、ヴィズル。あなたも確かいたじゃない。一年前。まだ私がエルシーア海軍の軍艦だった頃。ノーブルブルーっていう艦隊に命令書を届ける任務の航海中に大嵐に遭って、その時シャインが船外から海に落ちたことがあったでしょ?」
「ああ」
ヴィズルは言葉少なく返事した。
正直言えばヴィズルにとって、これはあまり思い出したくない記憶だ。
アドビスへの復讐のため、当時の自分は海賊という素性をシャインに隠していた。ロワールハイネス号が嵐に遭ったのも、その海域に詳しいヴィズルが誘導したせいなのだ。
「私ね、わかってたの。海に落ちたシャインが絶対生きてるってこと。彼の姿が見えるわけでも、声が聞こえていたわけでもない。それを感じるにはお互い遠く離れすぎていて、できなかった。でも航海している間、シャインが無事だってこと一度も疑ったことがなかったわ」
「そいつはひょっとしてロワール……」
ヴィズルはある考えが脳裏に浮かんだ。
「シャインは今、海に近い所にいるかもしれねぇ……かも」
「えっ」
ロワールが大きな目を見開きヴィズルを見上げる。
「海だよ。海。シャインが船から落ちた時どこにいた? 大海原を漂流してただろ? で、あんたはノーブルブルーの待つ海域への航海を続けていた。お前たちは『海』を通じて繋がってたんだ」
「……」
やおらヴィズルは甲板へ座り込み、胡坐をかいた。
ごそごそと胸元が開いた懐を探り、何か細長い――いや、三日月に似た青銀色の短剣を取り出す。
「それ――」
ロワールがおそるおそるヴィズルに近づく。
ヴィズルは銀で絡みつく植物の装飾が施された短剣の柄を左手で握りしめ、抜いた。
ほのかに青味を帯びた微光をまとわせ、一点の曇りもなく冴えた月光を思わせる刀身が現れる。
この短剣はエルシーア海を生活の場としてきた海賊『月影のスカーヴィズ』一族が、代々家宝として護っていた魔剣であった。正式にこれを譲られたわけではないが、現在の所有者はヴィズルである。
短剣もヴィズルのことを認め、必要があればその中に眠る大いなる力を引き出すことができた。
「ロワール。あの時に比べれば、あんたとシャインの離れている距離なんて大したことねぇ。ずっとずっと近いはずだ。このブルーエイジの短剣の力をあんたに貸してやるから、シャインの居場所を探してくれ」
「探すって……って、どうやって」
ヴィズルはロワールを自分の隣に座らせた。
「短剣にじかに触る必要はない。俺の手の上に、あんたの手を重ねるんだ」
ロワールは刃を上にして握るヴィズルの左手に、自分の手のひらを重ねてきた。
ロワールの手がヴィズルのそれに接触した時、ヴィズルの脳裏に水平線の映像が一瞬走った。
「今、何か見えたわ」
「……ああ。俺もだ」
感度は上々というわけだ。
「ロワール。あんたの手を通して俺も同じ映像を見ることができるから、このままシャインの居場所を探ってくれ。この短剣があんたにそのための力を貸す。ただ……焦る必要はない。最初は大きな範囲から始めて、徐々に奴の気配が強く感じた所へと絞っていくんだ」
「うん。わかったわ。やってみる」
力強くロワールが答えた。瞳を閉じて集中する。
ロワールが今、自分が係留されている港を中心に、シャインの気配を探るのをヴィズルは感じた。
まばらに黄色っぽい光が輝いているのは、リュニスの街の明かり。ロワールの意識は迷わず島の高台にある一際大きな大理石の宮殿――リュニスの皇宮へと向かう。
風に乗って空を飛ぶように、ロワールの意識を通して見る周りの風景は刹那、宮殿から島の崖へと急速に移動する。
「見つけたわ! シャインはきっとあそこにいる!」
ロワールの声が喜びに弾ける。
リュニスの宮殿から少し外れた島の崖は、白い波がいくつもその岩壁にぶつかり飛沫をあげていた。
「どこだ?」
ヴィズルはロワールの見ているものを一緒に眺めているだけなので、シャインの気配が近いかどうかまではわからない。ロワールが興奮したように喋り続ける。
「ほら……崖に洞窟が一つ口を開けているの……見える?」
黒々とした大きな岩がいくつも転がっている磯の合間に、ロワールの意識が近づく。ぐるりと回ってみなければわからない岩の影に、人ひとりが通り抜けられそうな洞窟が口を開いている。
「この中にシャインがいるのか?」
「ええそうよ! シャイン! 聞こえる?」
夜のせいで洞窟内は真っ暗だ。けれどその闇の中で、ヴィズルは水面の反射か、きらりと青白く光るものを目にした。その光はロワールの意識に気付いたのか、徐々に明るさが強くなっている。
その時ヴィズルはシャインの姿を見た。
青い闇に包まれた洞窟内は海水が流れこんでいた。珊瑚が固まったような白っぽい岩壁に、シャインは手首を鉄枷で拘束され、その胸の所まで海水に浸かっている。
シャインがいつからここに閉じ込められているのか――奴と宿屋で別れて一週間がすぎているが、今朝ツウェリツーチェの通信を受け取ったから、多分まだ一日か二日ぐらいしか経過していないはずだ。
シャインはロワールの呼び声に気付かないのか目を閉じたままだ。
ヴィズルは洞窟内をほのかに照らす青白い光が、シャインの右手にはめられたブルーエイジの指輪から放たれていることに気付いた。
ロワールがこんなに早くシャインの居所を掴むことができたのは、指輪の力が影響しているのかもしれない。




