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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第5話 Judgment Day
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5-59 人事異動

「海軍なのに何故将官は黒い軍服をまとわねばならないのか、以前から疑問でね。けれど過去の文献をみても、海軍統括将が紺碧をまとってはならないという決まりもなかったから、この色にした」


 王都からアスラトルの海軍本部に戻ったノイエは、あるじとなった海軍統括将の豪奢な執務室で、新しくあつらえた軍服に袖を通した。

 ノイエほどの階級になれば、秘書官は最低でも五名がつき、身の回りの世話をする良家の子弟から選んだ士官候補生が数名いるのだが、ノイエは敢えて専属のそれらを置かなかった。

 その代わりノイエの傍には、王都の議会との仲を取り持つロヤント海軍書記官がいた。


「ならよろしいんじゃありません? 前のアリスティド閣下は白がお好きでしたし。どうでもいいけど、私、未だに海軍の階級に疎いんですの。まあせめて将官ぐらいは、色が違うとわかりやすくてありがたいですわ」


 ロヤントはうんざりしたように肩をすくめ、ノイエにエルシーア海軍の徽章きしょうが入った濃紺の軍帽を手渡した。帽子には規定があって、階級に見合った飾り布をつけなければならない。エルシーア海軍最高位のノイエはエルシーア海にちなんだ青緑色だ。


徽章きしょうのリボンが少し長すぎるみたいですわ、閣下」


 目にかかるそれを手で払うノイエを見て、ロヤントが口をすぼめた。


「すぐに直しを手配します」

「ありがとう」

「いいえ」


 くすくすと笑うロヤントをノイエは黙ったまま見つめた。

 その表情はいつになく少女めいた朗らかなものだった。三十二才のノイエより、二つほど彼女の方が年上なのだが、それを意識させないほど若々しく美しかった。


「今日は楽しそうですね。何か良いことでもあったのですか?」

「……いえ別に。ただ……」


 着替えを終えたノイエは執務席の前の応接用の椅子に腰を下ろした。

 青から白へのグラデーションを描く大輪のエルシャンローズが活けられた花瓶が、円卓の上に飾られている。南方のアノリアでの生活が長かったノイエは、部屋の中に緑を飾ることを好んだ。エルシャンローズはロヤントが贈ってくれた昇進祝いだが、部屋の片隅には参謀司令官の執務室に置いてあった観葉植物の鉢が、すでにこちらへ置きなおされている。


「閣下が私を傍に置いて下さっているのが嬉しいだけですわ」

「……」


 ノイエはすぐに言葉を返さず、隣の応接椅子に腰を下ろしたロヤントを見返した。

 するとロヤントは白い頬をほのかに赤く染め、ふふふと小さく忍び笑いを漏らした。


「閣下の傍に私がいることで、一部王都では噂になっているようですけど、どうぞご安心下さって。そりゃ、海軍統括将ダールベルク夫人という肩書も魅力的ですけれど、私にはそれ以上の野望がありますから」


 ノイエは内心安心したような、けれど、今の自分以上にロヤントを惹きつける男が誰かいるのか、それに興味を覚えた。


「私程度の野心では、貴女を満足させられないということですか」

「あら。妬いていらっしゃるの?」

「いえ」


 ノイエは席から立った。

 額に垂れる黒髪を耳に流して、淡い水色の瞳をすっと細める。


「ここまでこれたのは貴女のお力があればこそ。こちらこそ、私のような若輩者に手を差し伸べて下さって、とても感謝しきれません」


 ノイエは深々と頭を垂れた。


「ノイエ様。たかが書記官ごときの私にそのようなことをなさってはなりませんわ。でも、私には多くの味方がいればいるほどありがたいのですの。なんといっても、私の望みは……」


 ロヤントはノイエを手招きし、その身を屈ませると耳に唇を寄せ囁きかけた。


『――私の望みは、エルシーア王妃の座に就くことですから』


 ノイエは目を閉じ黙ったまま頷いた。


「お笑いになりますわよね?」


 拗ねたようにロヤントが顔を背ける。


「いいえ。国王陛下もお妃様を亡くされてから十年の歳月がすぎてますし、あなたのことも信頼されていらっしゃるご様子。元よりそれでは私など、到底かないっこないわけだ」


 ノイエは立ち上がった。

 執務室の扉が叩かれる音がする。

 ノイエはちらと暖炉の上の大理石にはめこまれた時計を確認した。

 時間だ。


「あら、お客様?」

「ああ」


 ノイエは足早に執務席へと移動した。

 軍服のポケットを探り、机の引き出しの鍵を取り出す。


「入れ」


 ノイエの返事ののちに扉がゆっくりと開かれる。

 応接椅子に腰を下していたロヤントが、意外なものをみるかのように、部屋の中に入ってきた人物を凝視する。


 それは部屋の扉が窮屈に思えるほどの、背の高い金髪の男だった。軍服とは違った黒の礼装に白の飾り襟をきちんとつけ、右手には金色の鷹をあしらった杖を携えている。


「アドビス・グラヴェール?」


 ロヤントが漏らした声を聞いて、アドビスがちらと彼女を見た。

 だが猛禽を思わせる鋭利な青灰色の瞳には、何の感情も浮かんではいない。


「よく来てくれた。グラヴェール補佐官。あなたに受け取って欲しいものがあるので来てもらったのだ」


 ノイエは施錠していた机の引き出しを開けて、中から青いリボンで縛られ丸められた書類を手に取った。リボンを解いて書類を広げる。ノイエは声高に書面を読み上げた。


「アドビス・グラヴェール海軍統括将付き補佐官を、本日を以て『エルシーア海軍本部・参謀司令官』へ任命する」

「……」


 ノイエは読み上げた書類をアドビスへと差し出した。

 だがアドビスは戸惑ったようにじっとノイエの顔を見返すだけだ。


「どういうことだ?」


 アドビスが当惑するのは当然か。

 前の統括将アリスティドをその座から追い払ったノイエが、自分の片腕となる立場の参謀司令官にアドビスを任じるなど思ってもみなかったことだろうから。


「まあまあ……これは思いきった人事だこと」


 席を立ったロヤントがノイエの隣にやってきた。

 ノイエは申し訳なさそうにロヤントに視線を落した。


「私は彼と今後について話をしなければなりません。申し訳ありませんが、ロヤント書記官。少し席を外していただけないでしょうか」

「あら、私は怠け者?」

「……ロヤント書記官。そういうわけではありませんが」

「わかったわ。じゃ、私は退出いたしますわ。そうだわノイエ様。今晩19時に、<西区>の『エメリッヒ=クァール』でお食事いたしません? 巷で噂のエルザリーナが最後に作ったワインが飲めるそうですの。奇跡の赤とも称される、最高傑作だそうですわよ」


 ノイエはロヤントの手を取り扉へと誘った。

 手袋をはめたかの女の指に唇を押し当て「19時に、必ず」と囁く。


「お待ちしておりますわ」


 気をよくしたロヤントを見送り、ノイエは静かに部屋の扉を閉めた。

 けれどノイエに背を向けたままのアドビスは、執務席の前の応接机の隣で微動だにしない。

 ノイエは小さく咳払いした。

 ロヤントは魅力的な女性だが、その野心はノイエ以上で、裏では自分の目的を達成させるために何を考えているのか全くわからない。深入りするとこちらの立場が危うくなるような、危険を伴った女性だ。


「……さて、人払いはした。これであなたと忌憚なく、先日の話の続きといきたい」

「先日の話とは?」


「――わかっているはずだ。私は婚約者のディアナ様のことが心配なのだ。前はアリスティドに艦隊を出すことを諌められたが、現在の海軍統括将は私だ」

「何故に私を参謀司令官に任じられた?」


 ノイエは薄く笑った。


「これからリュニスと一戦交えるのに、エルシーアの金鷹、そう呼ばれたあなたの存在を無視にはできない。私が子供の頃、海賊船を次々と捕らえ、拿捕だほ賞金を稼ぐ凄腕の軍艦乗りの話を巷で聞いた。


アノリア近海はリュニスに近いせいで、海賊が住処とする小島も多かった。今から二十一年前、私は一度だけあなたが指揮するフォルセティ号を港で見たことがある。何隻も艦隊を引連れた一等軍艦に乗っているのだろうと思っていたから、興奮して港まで走った。


だが港には乗員がたった二百名しかいない6等級の軍艦がぽつんと一隻停泊しているだけだった。あなたの船がそれだと父に教えてもらった時は、とてつもなく落胆したよ。だが今ならわかる。あなたがいかに戦いに長けていたのかを」


「下らぬな。すべてはもう昔日の話――私はそんな過去の栄光にいつまでもしがみ付いてはいない。それでは失礼する」


 アドビスは踵を返し、その場から立ち去ろうとした。


「待て。あなたは自分が何をしたのかわかっているのか!」


 ノイエは今までの穏やかな口調を一変させて声高に呼びかけた。


「……」


 アドビスはその変化に気付いたのだろう。扉に向かおうとする足をふと止めた。


「あなたは私に言われたな。”親にとって一番不幸なことは、子に先立たれることだ”と」

「……」

「あなたの息子シャイン・グラヴェールは、リュニスで生きている」

「――ダールベルク」


 アドビスが振り返った。その視線にはありありと不快感が表れている。ノイエは唇を歪めた。


「閣下と敬称をつけてもらおう」


 アドビスは長い腕を伸ばして額に落ちた前髪をかき上げた。無理矢理動かした口が吐息のような声を漏らす。


「ダールベルク、閣下」

「なんだ?」


「何故、そのことにこだわる? 私の息子が生きていようがいまいが、海軍統括将の座を得たあなたにはどうでもよいことであろう? それに、私が海軍に復帰したのは、アリスティド閣下自らの要請があったためだ。閣下が統括将をお辞めになったからには、私も――」


「それは認めない。さっき参謀司令官に任命したからな。あなたには私と共に、アノリア奪還のため艦隊を指揮してもらう」


 アドビスが歯の奥から押し殺した息を吐いた。


「断る」


「早急な返事だ。まあ、聴いてもらおう。私があなたの息子の生死にこだわるのは、リュニスの情報を得るためだ。考えたな? アリスティド前統括将が独自の情報網を持っているとしたら、それはあなただ。


アノリア領主の息子である私でさえ、リュニス本島へ行くことは許されないのに、どうやってリュニスに捕らわれたディアナ様の生死を知ることができる? 


アノリアを奪いに来たリュニス兵と交戦したミリアス・ルウム中尉が、あなたの息子とよく似た人物を見たのは偶然だろうか? この際、あなたの息子が生きていようが死んでいようがどうでもいい。あなたは自分の身の安全を保つため参謀司令官となり、アノリアへ行くのだ」


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