5-55 密談
「よお」
ヴィズルが不敵な笑みを浮かべ、扉を開けた人物に向かって挨拶する。
「あら久しぶり。随分お見限りなんで、一瞬誰だったか忘れちゃったわよ」
扉を開けヴィズルを出迎えたのは、艶やかな黒髪を左右でそれぞれ輪を作るように耳の所で結い上げた色白の美女。体の線がわかる薄手の黒いドレスを纏い、むき出しの肩に絹のショールを羽織っただけの姿である。
「カレン。そんな顔するなよ。ちょっと商談で部屋を使わせてくれ」
黒髪の女性――カレンは、不機嫌そうに唇を尖らせ両腕を胸の前で組んだ。
「あらやだ。私に会いにきてくれたんじゃないんだ」
「いやいや。お前にも、そう、お前の顔が見たくなったから来たんだ」
「ええ、そうよねー。あんたは船みたいに風任せ。ふらっと立ち寄って、港の女を散々たぶらかした挙句、またどっかに行ってしまうんですもん! ヴィズル、今日と言う今日は」
不意にカレンの声が途絶えた。
ヴィズルが彼女の背中に腕を回し、その体を抱き締めていたからである。
「……頼む。この埋め合わせはまた後で必ずする」
ヴィズルの声はいつになく真剣で、彼に抱き締められているカレンは、戸惑ったようにその腕の中で体を震わせていた。
「……馬鹿……」
シャインはヴィズルに気付かれないよう、じりじりとその場から後退した。
彼がリュニスにいるなら、ツウェリツーチェを使って連絡を取ることが可能だろう。
シャインの脳裏にはロワールハイネス号を見に行くことが再びちらついていた。
リュニス兵がいたとしても恐れる事はない。シャインの左手首には、宮殿に仕える者しか持つことを許されない許可書を兼ねた腕輪がある。それを見せれば、船を動かす事を警戒はされても、眺めるだけなら許されるはずだ。
一歩、二歩。
ヴィズルと距離を開けて、踵を返そうとした時だった。
「おい、どこへ行くつもりだ」
ぶんっと、何か重い物が飛んでくる気配を感じて、シャインは慌ててその場に伏せた。
路地に身を伏せたシャインの頭上を、黒い影が通り過ぎ地面に当たって派手に砕け散った。
酒樽だった。
取りあえず、中身の入っていない空だったが。
「待たせたな。早くこっちに来い」
「いや、俺は邪魔なような気がしたから」
立ち上がりシャインは引きつった笑みを浮かべた。
珍しく浅黒い肌を赤くさせてヴィズルが怒鳴る。
「馬鹿野郎! お前は余計な事を考えるんじゃねぇ! 俺はお前の話を聞かなくてはならないんだよ。アドビスに催促されてるんだ。ほら、ぐずぐずするな」
シャインは仕方なくヴィズルの所に戻った。
「あら、随分可愛い商談相手ね」
機嫌を直したのか、シャインをみてカレンがくすりと笑った。近くで見る彼女は小柄で睫毛が長く、伏し目がちの黒い瞳が陶器で作った人形のように愛らしい。
実年齢は恐らくシャインより年上だろうが、ヴィズルよりかは若いだろう。
「いや、俺は……その……」
カレンは愛想笑いを浮かべてシャインを建物の中へ誘った。
「ごゆっくり。後で飲み物と軽食を部屋に持っていくわ」
「いやいらん。ほら、先払いだ」
部屋の鍵を受け取ったヴィズルは、カレンに数枚の銀貨を握らせて、かすめるようにそのふっくらとした唇に口づけると背中を向けた。
「ほら、ぐずぐずしねぇで、目の前の階段を上がれよ」
いつになくぶっきらぼうな口調でヴィズルが怒鳴る。
おそらく照れ隠しだろう。
「あ、ああ」
「何笑ってやがる」
「……別に」
シャインはヴィズルに言われた通り、目の前の階段を二階まで上がった。
廊下に出るとヴィズルが勝手知った風で一番奥の部屋へ向かい、カレンから受け取った鍵で扉を開けた。部屋の中には円卓と二組の椅子が置かれている。そこにめいめい腰を下ろした所でヴィズルが口を開いた。
「一階が酒場で二階が宿屋だ。ちなみに酒場は夜18時から営業」
「ヴィズル、ここが君のリュニスでの潜伏先だと思っていいんだね?」
「今の所はな。でもあてにするな。俺はお前がリュニスで得た情報をアドビスに運ばなくてはならないんだからな。じゃ、早速だ。シャイン、お前がどうやってリュニスの近衛兵になったのか、そこらへんから話してもらおうか」
シャインはヴィズルに近況を話してきかせた。
そしてアドビスに伝えて欲しい重要事項が二つあることを伝えた。
「ふうん。やっぱりディアナ・アリスティドはリュニスにいたのか」
「ああ。この目で彼女を見た」
「見間違いじゃないな?」
低い声でヴィズルが念を押す。
「当たり前だ。全く面識がない方じゃない。それに彼女は、俺が贈ったブレスレットを……」
シャインは口籠った。勢いに任せて話し過ぎた。
話をきいているヴィズルをちらりと伺う。彼の大きめの唇は歪んだ笑みをたたえていた。
「どうした。俺に構わず話を続けろよ。あのお姫様が本物だという証拠がちゃんとあったんならそれでいい。お前が贈ったブレスレットをつけてくれてたんだな。それならアドビスも信じるだろう」
「……いや、その……ブレスレットのくだりは、父には言わないで欲しい」
椅子に足を組んで座っているヴィズルがあきれたように肩をすくめた。
「何故? 別に話してもいいと俺は思うぜ……ああ、でもそうか」
ヴィズルは不意にシャインを憐れむような目で見た。
「お前がさ、ロワール以外の女……いや、アレは見た目が女なだけか。やっと人間の女を好きになることができたのは喜ばしいぜ。ただ、なんで彼女が婚約する前に落としておかなかったんだ?」
シャインは眉間に皺を寄せてヴィズルを睨みつけた。
何をどう間違えたらそういう話になる?
「ヴィズル、ちょっと待ってくれ。俺は……」
「何も言うな。そうだな……そうだよな。相手は公爵家の『貴族の娘』なんだもんな。確かに身分違いってことで、お前の性格なら身を引く選択をするよなぁ~」
腕を組みながらヴィズルがしみじみと呟く。
「ヴィズル。一体君は何の話をしているんだ」
シャインは明らかに語気を強めて椅子から立ち上がったが、ヴィズルは涼しげな顔でその様子をながめているだけだ。
「まあ照れるなって。俺はお前の味方をしてやろうと思ってるんだから。そうだよな。一度は諦めたかもしれねぇが、その女がやっぱ、他の野郎の所にいってしまうと思うと、余計欲しくなるものだ。よくわかるぜ」
「ヴィズル! もうこの話はここで終わりだ。やめにしよう。他にも伝えて欲しいことがあるんだ」
シャインは無理矢理ヴィズルの言葉に割り込んだ。
ヴィズルは本当はちゃんとわかっているのだ。シャインがディアナに特別な感情を抱いてブレスレットを贈ったわけではないことを。
ヴィズルは相手が真面目なほど、人をおちょくる会話を楽しむ。
それが唯一彼の人格を傷つける欠点だが、ヴィズルは交渉術に長けている。彼は引き際をちゃんと心得ていて、相手が本気で怒りだす前に、気さくな笑みを浮かべて場を和ますのだ。
「仕方ねぇな。別に照れるほどの色恋話じゃなかろうに」
「誰の色恋話だって?」
「まあシャイン。まだ希望はあるぞ。なんたって、お姫さんはお前が贈ったブレスレットを肌身離さずつけているってことは、脈がある証拠だって……」
「……」
シャインはもはや怒鳴る気力を失って、円卓に肘を付き両手で頭を抱えた。
もういい。
勝手に何とでも思え。
こんな不毛な会話、いつまでも続けるわけにはいかない。
それにはこちらが黙って、相手が話題に飽きるのを待つしかないだろう。
「どうしたシャイン。急に黙りこんじまって。ああ……確かに、お姫さんを助ける段取りを考えなくてはならねぇなあ。取りあえずアドビスに報告するから、お前はもっと情報を集めてくれ。じゃ、俺がアドビスに伝えなくてはならない後一つは何だよ?」
シャインはようやく安堵の息を吐いた。
「リュニスがディアナ様を拉致した理由が判明した。それは、リュニス側もエルシーアに大切な要人を人質にとられているからだ」
「……何?」
ふてぶてしい態度でシャインの話を聞いていたヴィズルが、はっと顔色を変えた。
「俺がバーミリオン皇子から聞いた話なんだけど、アノリア港は今からひと月前ほどから、何故かリュニスの船が入出港を禁じられるようになったそうだ。アノリアから出る事も入ることも叶わなくなって困ったリュニス側は、領主ダールベルク伯爵家に使者を送った。だがその使者が待てども帰ってこない」
「その使者っていうのが、リュニス側の要人なのか」
シャインはうなずいた。
「そう。リュニスはその要人を取り戻すためにディアナ様を拉致し、そして、ダールベルク家に捕らえられていると思って、アノリアを攻めたんだ。ヴィズル、父に伝えてくれ。リュニスはエルシーアとの戦争を望んでいない。これは何かの陰謀だ。リュニスが取り返したがっている要人は、バーミリオン皇子の未来の妃となる女性だ」




