5-48 物見の塔
◇◇◇
ここは初めて訪れる場所だ。
手に角灯を持ったメリージュの後ろについていきながら、シャインは用心深く歩いていった。
兵舎を後にして約十五分ほど宮殿と外を隔てる城壁に沿って歩く。リュニスの宮殿は長方形のような形で、東西に細長く建てられたものが二つ南北に並んでおり、各階は渡り廊下でつながっている。
メリージュは皇帝やその家族が住まう北側――通称・北宮殿へ向かうようだ。
ただし、直接宮殿の中を通らない。
北宮殿の四方それぞれの角には、物見の塔がそびえていた。
まだリュニスに来て一週間のシャインは、この塔の中に入ったことがなかった。
城壁の警備は衛兵の管轄である。
近衛兵が宮殿内部を警備するのなら、衛兵は城壁を担当部署として外から宮殿を守るのである。
「ここから中に入ります」
メリージュは宮殿の一番北の端にある物見の塔の前にシャインを連れていった。
塔にはつる草のたぐいがびっしりと絡みついている。
メリージュの手にした角灯の光の輪の中で、人一人通れるくらいの木の扉が浮き上がった。
メリージュは空いた左手で扉の取っ手を握りしめ、それを手前に開いた。
「おやこれはメリージュどの」
「隊長、ちょっとお邪魔するわ」
塔の一階には人がいた。顎鬚を生やしたがっちりとした体格の男と、彼より年かさの白髪の男。
どちらも赤と黒の縦縞が入った衛兵の制服を纏い、腰には剣を帯びていた。
二人はうさんくさそうに、メリージュの後ろに立つシャインを見た。
「皇帝陛下のご命令で来ましたの。こちらはサセッティ近衛兵隊長配下のリースフェルト様」
メリージュが衛兵の二人にシャインを紹介した。シャインは二人に黙って会釈した。衛兵はシャインにあまり関心がない様子で小さく頷いただけだった。
「上に上がらせてもらいます」
「ええどうぞ。上は至って静かなものです」
「……」
メリージュは物憂げに眉を潜めた。
「そう……ですか。リースフェルト様、こちらです。ついてきてください」
「あ、はい」
シャインは部屋の奥からのぞく石造りの螺旋階段に目を止めた。言われたとおり、先に歩くメリージュの後を追う。衛兵たちはそれを見送ることもなく、再び部屋の中央にある席に向かい、腰を下ろすと低い声で談笑を始めた。ぐるりと石壁に沿って螺旋階段を上ると再び扉があった。
「すみませんリース様。ちょっと手元を照らしていただけますか?」
シャインはメリージュから角灯を受け取った。メリージュが服のポケットからいくつかの鍵がぶら下がった鎖を引き抜く。そしてその中から一本を選びとった。
扉の取っ手の下にある鍵穴にそれを入れて回すと、かちりと重々しい音が響いた。
メリージュが手を伸ばしたので、シャインは角灯を再び彼女に返した。
「どうぞ、お静かにお願いいたします。病人が臥せっておりますので」
「病人?」
「ええ」
メリージュは扉を開いて部屋の中に入った。シャインも怪訝な顔をしたまま中へ入る。
「……」
シャインは部屋に足を踏み入れしばしその場に立ち尽くした。部屋の中は明かりがついておらず、アーチ状の形をした格子の嵌った窓から青白い月光が差し込んでいた。
室内の内装は部屋の中央に円卓と藤蔓で編まれた椅子が一組ずつ。床には幾何学模様をあしらった敷物が敷かれている。窓の近くには天蓋付きのベッドが置かれ、蜉蝣の羽のように薄い布の帳が下りていた。
差し込む月の光でそこに誰かが眠っているのが見える。
不意に部屋が薄暗くなった。メリージュが角灯の炎の大きさを少し弱くしたのだ。
病人が眠っていると思って配慮したのだろう。シャインは黙ったままメリージュの佇む円卓へ歩いた。
「あの方は?」
部屋の内装は華美ではないが、かといって質素でもない。メリージュが角灯を置いた円卓も、おそらく年代ものの良い趣の装飾が施されて優美である。その上に置かれた陶器の茶器セットは、シャインも知っているエルシーアの有名な窯元で作られた高級品だ。ここにいる病人の身分はおそらく貴族以上でそれ以下ではない。
「リースフェルト様。私は貴方様の質問にすべて答えることはできません。皇帝陛下のご命令で、私がこの方のお世話についているだけですから。ただ……」
シャインはメリージュの言葉を最後まで聞いていなかった。
<誰……?>
月光が差し込む窓辺の寝台から、弱弱しく呟く声がした。
それは紛れもなくエルシーア語だった。
シャインは黙ったまま寝台へと近づいた。
心の中に確信を抱きながら。
天蓋からつり下がる薄い布の帳を掴み、静かに病人の伏せる足元の方へ引っ張る。
はっきりと見えた病人の顔にシャインは動揺の声を出すまいと必死で堪えた。
寝台には透き通るような肌をした若い女性が眠っていた。
窓辺から差し込む月光のような、長い銀の髪を一つの三つ編みにしている。
メリージュの言うように、彼女の具合が悪いというのは、額に浮いた小さな汗の粒や、赤みを増した頬の色でそれと知れた。
<誰か……いるの?>
瞳を閉じたまま女性は唇を僅かに動かし呟いた。シャインは思わず身を屈めた。
薄い掛け布団から女性の白い指が見えていたのだか、それが助けを求めるように、シャインの方へ伸ばされたからだった。
シャインは黙ったまま女性の手を自らの手で受け止めた。熱を帯びた色白の手首に見覚えのあるブレスレットが揺れている。聖純銀を髪の毛のように細く加工し、それをいくつも束ねて、まるで彼女の銀髪のように三つ編みにあしらったブレスレット。留め金には聖純銀をエルシャンローズの花の形に模り、中央には『宵の明星』という別名がついた紫色の宝石がはめられている。
それはシャインがディアナ・アリスティド公爵令嬢に婚約祝いとして贈った品だった。
彼女は受け取ったその場でブレスレットを身につけてくれた。
今となっては、それが随分昔のように思えるから不思議だ。
もっともブレスレットがなくても、シャインは病人の顔を見ただけで、ディアナであることがわかった。
「……」
ディアナがリュニスに捕らわれている。
アドビスからそうきかされてはいたが、行方がわからなかっただけに、シャインはディアナの所在が確認できて安堵した。
シャインの手を握り締めるディアナのそれに思わず力がこもる。
ふっと、重い瞼を押しあげるように、ディアナの銀色の睫が震えた。
そこから淡い菫色の瞳がぼんやりと視線が定まらぬ様子で見開かれる。
<……シャイン様?>
ディアナの意識は熱のせいではっきりとしてはいないのだろう。
シャインはディアナの呼びかけには答えなかった。けれど彼女の瞳だけを見つめ返した。
ディアナは憔悴しきった顔にかすかな笑みを浮かべた。
<私は夢を見ているのね。シャイン様がここにいるはずがないですもの。でも、まるで本当にここにいらっしゃるよう……>
<……ディアナ様>
シャインはエルシーア語でディアナの名前を呟いた。
自分が呼ばれたとわかったディアナは、シャインの顔をことさら凝視するように目を見開く。
<――シャイン様。やはり、シャイン様なの?>
夢うつつの状態が覚めたのか、思わず上体を起こそうとしたディアナをシャインは慌てて止めた。
<急に起きては駄目です。貴女はご病気なのですから、お心をどうか静めないと>
ディアナはシャインに諭されるまま再び頭を枕に付けた。
<よかった。私、自分の身に何が起きたのかさっぱりわからなくて……とても不安で……でも、ここでシャイン様にお会いできて本当に安心……>
シャインはゆっくりと首を横に振った。
<申し訳ありません。貴女は私と誰かを見間違えておられます。私はリュニスの近衛兵リースフェルトと申します>
ディアナの菫色の瞳が信じられないといわんばかりに瞬きを繰り返す。
<リュニス? いえ、そんなはずはありません。現にあなたはエルシーア語を話しています。その声は紛れもなくシャイン様のものです。聞き間違いなどいたしませんし、あなたの青緑の瞳は――>
「リュニスではそう珍しくない目の色です。貴女のお知り合いもリュニスの血を引く方なのでしょう」
シャインはわざとリュニス語でディアナに話しかけた。ディアナの眉間が困惑と失望に歪む。
シャインは再び同じ言葉をエルシーア語で言った。
<そんなの……嘘です! だって、あなたは、私の名を呼んだではありませんか>
<ええ。私は貴女のお名前を存じております。今宵こちらに伺ったのは、リュニス皇帝陛下から命じられたためです。エルシーア語ができる私が、貴女の話し相手になれれば、貴女のご病状が少しは回復されるのではとご配慮下さったからです>
<……>
ディアナはシャインの言葉を拒絶するように顔を背けた。
<ディアナ様>
<……>
ディアナは顔を背けたまま返事をしない。
シャインは仕方なく、握っていたディアナの手から自分のそれを離そうとした。
<待って>
消え入りそうな声でディアナが言った。
<あなたがシャイン様でないことが、未だに信じられませんが、もう少しだけ……傍にいて下さい>
シャインはゆっくりと頷いた。
心の中でディアナに嘘をついたことを詫びながら。
けれどディアナに本当のことを話すわけにはいかなかった。
ディアナの世話をいいつかっているメリージュがどれだけエルシーア語を理解しているかわからないし、皇帝はともかく、バーミリオン皇子はエルシーア語が堪能だ。彼女の身を案じるが故に、シャインはリュニスの「リースフェルト」でいなければならないのだ。
現にシャインはリュニス皇帝アルベリヒの考えが読めずにいた。
亡命の許可を願う謁見の席で、シャインはディアナが行方不明になっていることを話したのだ。
けれど皇帝はディアナのことは知らない、あるいは海賊の仕業ではとも言っていた。
その皇帝が――ディアナのことを探しているシャインのことをわかっていて、囚われの彼女の所へ行かせた意図とは。
「リースフェルト様」
メリージュがシャインの所に椅子を持ってきてくれた。
「私は下で待っております」
「わかりました。ディアナ様が眠られたら部屋を出ますから」
シャインはメリージュの持ってきてくれた椅子に腰を下ろした。
ディアナはシャインの手を握りしめたまま目を閉じている。軽く開かれた唇の呼吸は早めで浅い。熱で体力が失われているのに、シャインのせいで神経を興奮させたからだ。
シャインは黙ったままディアナの手を両手で包みこむようにして握りしめた。
必ずここから連れ出しますから、それまでどうかご辛抱を。
シャインは暫くじっとディアナの顔をながめていた。凛とした公爵令嬢としての彼女の姿しか見たことがなかったので、その憔悴ぶりに心が痛んだ。何もなければ今頃彼女は、ノイエ・ダールベルクとの結婚式の準備のために忙しい日々を送っていたはずである。
「……」
ディアナの呼吸がやがて深く落ち着いたものへと変わっていく。
シャインの手を握りしめていた彼女のそれから力が抜けていった。
シャインはディアナの手を布団の中に入れてやり、メリージュが用意していたのだろう。卓上に置かれた水差しを手に取ると水を陶器の器に注いだ。そばにあった布を器の水で浸す。絞って水気を切り、ディアナの額に浮いた汗を拭う。
銀織物の職人がみたら奪い合いになるような、ディアナの美しい銀糸の髪を頬から払いのけながら、シャインはそっと囁いた。
<早く快復されますように。また来ます>




