5-34 同行の理由
料理を片付けたせいでリオーネの機嫌は少し回復したようだ。
けれどその代わりヴィズルとシャインの胃は、食卓から離れる事を許さないといわんばかりに重くなっていた。
「くそっ。あと30分。30分だけ待ってくれ。シャイン」
額に汗をかき、食卓にへばりつくようにしてヴィズルが呻く。
「いいだろう。俺もすぐ動けそうにない……」
シャインは素直に同意した。
眉間に皺を寄せ俯くシャインの前に、リオーネがしずしずと近付いて何かを机の上に置いた。
「リオーネさん?」
顔を上げるとリオーネは緩く巻いた白金の髪を揺らし、シャインの身を案じるように気弱な笑みを浮かべていた。
<リュニス語の基礎は覚えてる?>
耳慣れない旋律のような言葉がリオーネの唇から漏れた。
シャインは瞬きしながらそれを凝視し、彼女の母国語であることを思い出した。
「リュニス語、ですよね」
リオーネは黙ったまま頷いた。
彼女の白い指が卓上に置かれた緋色の書物の表紙をなぞる。
「私はもう何年もリュニス語を話していないけど……あなたがまだ子供だった頃、少しだけ勉強したのを覚えているかしら?」
シャインは唸りながら首を振った。
「すみません。すっかり忘れたみたいで……」
「そうだろうと思ったわ。これは私が作ったリュニス語とエルシーア語の対比表よ。私はエルシーア語を覚えるためだったけど、その逆もきっといけるはず。よかったらこれを使ってくれるかしら」
「ありがとうございます」
シャインはリオーネに頭を下げながら、言葉の壁という現実を改めて意識した。言葉がわからなくては任務どころではない。
「もっと時間があれば、リュニス語をあなたに教えてあげるのだけれど……」
「えっ」
リオーネの口ぶりにシャインは我に返った。
「明日の晩に出港する予定だ」
食べ過ぎで膨らんだ腹をさすりながらヴィズルが言った。
「あ、明日……!?」
「そうだ。なんでも、公爵家のお嬢さんの安否が気になるみたいでね。ああ、ロワールハイネス号にはもう食料と水を積んでる。ただ、リュニスに行くから新規の水夫は雇わない方が懸命だろう。まあ、俺とお前とロワールがいれば、アノリアには四日もかからず着くだろうし、リュニスの領海に入ればあっちがお前を見つけてくれる」
「ちょっと待ってくれ」
シャインはヴィズルの方へ体を向けた。
「いきなりリュニス本島に行くのか? リュニスとエルシーアはアノリアを除いて基本的に国交がない。領海侵犯して捕えられたら、俺は強制送還されるかもしれないぞ」
「そうならないように祈れ」
ヴィズルは夜色の瞳を細めて他人事のように呟いた。
「そうなったらお前の命はないからうまくやれよ? エルシーアに戻ったら最後、お前の自殺は狂言だとばれるし、何故リュニスに行ったのかも厳しく問われるだろう」
「……」
シャインは気持ちを落ち着かせるため目を閉じた。卓上の上に置いた両手を無意識の内に握りしめる。
口にこそ出さなかったが、エルシーアに強制送還されれば、当然アドビスにも――いや、グラヴェール家の存続を危うくするような処罰が下るかもしれない。リュニスに行く事は、そういうことなのだ。
「何故」
目を閉じたままシャインは口を開いた。
「何故だ? ヴィズル。どうして君は……俺に協力してくれるんだ」
ふっと隣でヴィズルが笑い声を漏らした。
「別に。でも……そうだな。強いて言えば、面白そうだから、かな」
シャインは目を見開き息を飲んでヴィズルの顔を凝視した。
「面白そう?」
「ああ」
「どうして君は、そんなことを……」
シャインはヴィズルの返事に絶句した。けれどシャインの驚きとは裏腹に、ヴィズルは大きめの唇を笑みでつり上げながら、再び同じ言葉を繰り返した。
「そうさ。面白そうだからさ。取りあえず、今俺がやりたいと思う目的の一つさ。今まではアドビスへの復讐を胸に、この二十年、目的を達成させるためだけに生きてきた。結果はまあどうであれ、そのために生きてきたあの時間は有意義だったし、楽しくもあった。だからこそ今の俺は……コンパスを失った哀れな漂流者みたいなものさ。『生きがい』がなくなったような空虚をずっと胸に抱えている」
「ヴィズル……」
ヴィズルは照れたようにシャインから顔を背け、鼻の頭を指で掻いた。
「シャイン、お前は自分自身そんな風に思っちゃいないだろうが、お前にはあらゆる厄介ごとが引き寄せられているような気がする。まるで災厄の中心にいるかのようにな。そんなお前といれば、しばし人生の退屈を紛らわせることができる。俺がお前の側にいるのはそれだけだ」
シャインはヴィズルの横顔をじっと睨み付けていた。
まるで厄病神のような言い方をされたことに腹を立てたわけではない。
「ヴィズル。君は馬鹿だよ。やっと過去の呪縛から解き放たれたというのに、なぜ自分の人生を『自由に』謳歌しようとしないんだ? 退屈だって? 君は君の為に生きる事ができるんだ。それなのに」
ざわりと銀灰色の髪が揺れて、ヴィズルの深い夜の海の双眼がシャインの言葉を遮った。
「何度も言わせるなよ。俺は『俺がしたい』と思った事しかやらない」
シャインは溜息をついた。
自分とヴィズルの立場が逆だったら喜んで代わるのに。
「なら君がリュニスに行けばいいじゃないか。きっと平凡な人生を望みたくなるほどの緊張感を味わえる。俺はロワールを『船鐘』から解放する方法を探したいんだ」
「やだね」
シャインは唇が引きつるのを感じた。
「何故? 君がぎりぎりの命のやりとりを楽しみたいというんだから、喜んでその主役になればいいじゃないか。俺には俺のやりたいことがある」
ヴィズルは腕を組んで再びそっぽを向いた。灰色の猫が拗ねたみたいに。
「それじゃ意味がないんだよ」
「意味がないって、どういうことだ」
「……」
ヴィズルはしばし黙り込んだ。シャインは内心苛々しながら、ヴィズルの返事を待った。彼が何を考えているのか本当にわからない。リュニス行きを単なる危ない冒険として見ているのなら、物見遊山な態度でついてくるというのなら、反対に彼の同行は断固拒否するべきだ。
少なくともシャインには、この任務を『面白いこと』と言ってのけられる余裕などない。リュニス側に拉致されたディアナの安否が気になるからだ。
「とにかく……」
腕を組んだままヴィズルが口を開いた。
「国の為とか、やんごとなきお姫さんの為とか、そういうもののために俺は動くつもりはない。アドビスが頼むから、お前をリュニスに放り込んで、お前が手に入れたネタをアドビスに持っていく手伝いをしてやるんだ。それが終わったらお前の望み通り、目の前から消えてやるぜ。だからそれまでお互い我慢しようじゃないか、シャイン」
我慢だなんて。
シャインは急に疲れを感じた。
思えばこの一週間、アスラトルに帰港してからほとんど気が休まる時がなかったのだ。
「じゃ、そろそろ胃も落ち着いた頃だし、ロワールの所に行くぞ」
シャインは席を立った。
無性に船に戻りたくなった。
潮だまりに取り残された魚のように息苦しさを感じた。
やはり陸は自分の居場所ではない。
大切な人達がいる所だが、自分が自分でいられる場所ではない。
シャインはリオーネが卓上に置いた緋色の本を手にとった。
「シャイン」
心配げに自分を見上げるリオーネに、シャインはうなずいてみせた。
「船の様子を見に行ってきます。夜明け前には一旦戻りますので、あの人――いえ、父上にそう伝えて下さい」
シャインは足早に食堂から立ち去った。
「さて。今度はあっちのごきげんとりか」
ヴィズルがのろのろと席を立った。
「あの。シャインのこと、よろしくお願いします」
リオーネが深々とヴィズルに向かって頭を下げた。
それに内心驚きながら、ヴィズルはやめてくれといわんばかりに顔を歪めた。
「あいつのことはちゃんとみてるから心配はいらないぜ。じゃ、今夜はどうもごっそうさん!」
慌てて食堂を出たヴィズルだったが、その頬はほのかに赤味が増していた。




