5-29 運命は望む者を導く
アノリア陥落の報は、ダールベルク中将の命でかの地に向かったアマランス号艦長ジャーヴィスから、急ぎアスラトルの海軍本部へと伝えられた。同時に、オーラメンガー諜報部長の配下の偵察船も、同様の事を報告して来た。
「アノリア領主、ダールベルク伯爵の安否は?」
アドビスの対面の席に座ったオディアル・アリスティド統括将は、険しい表情のまま静かに口を開いた。
「隣街のアノリスに無事たどり着けたそうだ。近く報告の為、アスラトルに来るらしいぞ」
「そうですか。それはぜひ伯爵の話を聞いておきたいものですな。今はどんな情報でも欲しい所ですから」
アドビスが答えるとアリスティドは小さく頷いて肯定した。鋭利な崖を思わせるアリスティドの横顔は依然険しいままだ。アドビスはその理由を察して口を開いた。
「閣下。ディアナ様の方は、伯爵が何かおっしゃっていましたか?」
一瞬、アリスティドが瞠目する。
もう二週間前ぐらいになるが、アリスティド統括将の兄、アリスティド公爵の三番目の娘ディアナは、アノリア領主ダールベルク伯爵の息子ノイエと正式に婚約した。今月末にはアノリアで結婚式が行われるため、一足先に彼女はダールベルク家の船でそちらに向かったのだった。日数的にも彼女の乗った船は、すでにアノリアに着いていると思われる。
「いや、伯爵はディアナに会ってはいないらしい。ディアナを乗せたダールベルク家の船は、やはりアノリアに到着していなかった」
「では、ディアナ様は」
椅子に背中を預けながら、アリスティドは深く嘆息した。
「兄上に話さねばなるまいな。ディアナはリュニスに捕われていることを」
アドビスは黙ったままアリスティドを見つめた。あまり感情を表に出さないアリスティドであるが、以前から噂されていたリュニスの不穏が現実のものとなり、その対処に悩んでいるような翳りが垣間見えた。
「すべてはリュニスの問題を先送りにしてきた私のせいだ。アドビス、お前の方の調べはどうなっている?」
「申し訳ありません。そろそろ一報が入る予定なので、動きがあれば必ず」
「頼む」
アリスティドの短い返事にうなずきながら、アドビスは席から立ち上がり、執務室から退出した。
アリスティド統括将の執務室を筆頭に、海軍の高官のそれらが詰めるこの階は海底のように暗く静かだった。皆リュニス対策の為の会議に出ているからだ。
アノリア陥落の報が届いたのは昨朝。王都ミレンディルアへは、アドビスと共に海軍本部から籍を外した<海原の司>リオーネに緊急の要請を請い、王都駐在の<海原の司>ファランクスへ、念話でこの一大事が伝えられている。
国王コードレックへは、ロヤント海軍書記官が本日アリスティド統括将から書状を委ねられ、エルドロイン河を直接船で遡上する経路で向かっている。
三日以内にロヤント海軍書記官は王都に着くだろう。ミレンディルアの王宮もアノリア陥落の報で大騒ぎとなるだろう。
そんなことを考えながら、アドビスが自室に戻るため階段に近付いた時だった。
「こちらにおられましたか! グラヴェール補佐官」
ずっとアドビスを探していたのだろう。その姿を見つけたことに嬉しさが堪えきれない様子のはきはきとした声――。
階段を上がってきた声の主は、海軍本部をアノリア陥落という一報で驚かせた、アマランス号艦長ヴィラード・ジャーヴィスだ。
普段冷静な態度を崩さないジャーヴィスが、アドビスを見て興奮したように、その鮮やかな青い瞳を煌めかせている。
「私に何か用か」
「はい。補佐官にどうしてもおききしたいことがあるのです」
アドビスは唇を意地悪げに歪め、目を細めた。
彼が何をききたいのか。
大体の予測はつくが、アドビスもアノリアの状況をジャーヴィスの口から直に聞きたいと思っていた。
「いいだろう。私の部屋に行こう」
「ありがとうございます」
アドビスの部屋はアリスティド統括将の執務室から一階降りた所で、ダールベルク参謀司令官の執務室の隣である。
けれどアドビスの仕事がアリスティド統括将の補佐ということもあって、その部屋は参謀司令官の執務室より狭い間取りになっている。
相変わらず人気の絶えた廊下を歩き、アドビスは施錠していた自室の扉を開いてジャーヴィスを中に招き入れた。
「何か飲むか? ジャーヴィス艦長」
「いいえ。結構です」
生真面目が服を着て歩いているような青年――それを横目で眺めながら、アドビスは硝子細工の戸棚に近付き、ワインの瓶を一本取り出した。
「すまんな。喉が乾いたので、私だけ飲ませてもらおう」
「え、ええ。申し訳ありません。補佐官がお忙しいのは重々承知です。でも、私はどうしてもあなたに会って、確認したい事があるのです」
「ふん」
あくまでも興味がなさそうにアドビスは答えた。
「扉を閉めてここに座れ。何も遠慮などしなくていい」
ジャーヴィスは恐縮したように小さく頷くと、アドビスが示した椅子に腰を落ち着かせた。アドビスも対面となる窓際の椅子に腰を下ろし、グラスにワインを注いだ。芳醇な香りと共に揺れる紅の液体を眺めながら、ジャーヴィスが口を開くのを待つ。
アドビスの視線を受けて、ジャーヴィスの強ばった口元がようやく開いた。
「単刀直入に申し上げます。私はアノリアで意外な人物に会ったのです」
「……」
アドビスはグラスを取り上げ、酒を一口含んだ。
「それが私と何の関係がある?」
ぐっとジャーヴィスが机に上半身を乗り出した。密やかに声を潜める。
「大ありです。私が会ったのは、亡くなったとされている、補佐官、あなたのご子息だからです。私は、アノリアで彼と会いました」
グラスを揺らし、アドビスは表情を変える事なく再びワインを口に含む。
「……それで?」
ジャーヴィスの青白い頬がさっと朱に染まった。
「それで、って。補佐官はご存知のはずだ。あの人が――ご子息が決して岬から飛び下りたわけではないことを。あの人が生きている事を!」
アドビスはグラスを机の上に置き、揺らぐ事なく睨み付けるジャーヴィスに向かって微笑んでみせた。
「ジャーヴィス、お前が……あれの副官として精勤してくれたことは、今も本当に嬉しく思っている。シャインもきっと、彼岸からお前に感謝しているだろう」
「グラヴェール補佐官!」
椅子から立ち上がりそうな剣幕でジャーヴィスが声を荒げた。
「どうか私を欺こうとするのはやめて下さい。私はアノリアで彼と戦ったんです! あの人が何故リュニス軍にいたのかも含めて、是非、話して頂きたい」
握りしめた拳を震わせてジャーヴィスがアドビスを睨み付けている。だがアドビスは巌のように動じず、独り言を話すように淡々と言葉を続けた。
「お前がアノリアに着いた時、すでに日は暮れていたらしいな。見間違いだろう。あれの母親はリュニスの女だ。その血を半分受け継いだシャインに、良く似た軍人がいてもおかしくはない」
「……そうですか」
ジャーヴィスは項垂れた。けれど彼は青い航海服の上着を探りキッと再び顔を上げた。
「では私と会ったリュニスの軍人は、何故こんなものをミリアスの……いや、私の副官の軍服に押し込んでいったのです?」
ジャーヴィスは右手に握りしめたものを静かに卓上に置いた。
それは小指ほどの太さと長さのある真鍮の筒だ。軍部の伝書鳩につける通信用の容器と良く似ている。
「ほう。おもしろいものを拾ったな」
手を伸ばしてそれをつまもうとしたアドビスを、ジャーヴィスの白手袋をはめた手が遮った。ジャーヴィスは再び真鍮の筒を握りしめ、じっとアドビスの顔を見ている。
「グラヴェール補佐官。どうか私に真実を教えて下さい。ここで知った事は誰にもいいません。そして、私に何かできることがあれば、何でもやらせて下さい。私もあなた方の手伝いがしたいのです!」
アドビスは黙ったまま腕を組んだ。
そのまま目を閉じる。
ジャーヴィスが信頼するに値する人物だというのはわかっている。いづれ、彼が真相に気付く日が来る事もわかっている。その運命を運んできたのが彼であってよかったとも思っている。
運命は望む者を導く。




