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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第5話 Judgment Day
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5-28 リースフェルト

 ミリアスを見つめるリュニス兵――顔は紛れもなくシャインそのものだ――は、ミリアスの言葉にやはり沈黙で答えた。

 ミリアスは再び心の中に怒りの熱い炎が灯るのを感じた。

 手の中の剣をぐっと握りしめる。


「また、だんまりか」


 リュニスの軍服を纏うシャインは、ミリアスの顔から視線は外さないが何も言わない。

 ミリアスは焦れた。いや何よりここは場所が悪い。袋小路だ。シャインが何もしなくても、リュニス兵がやってきたら逃げ場がない。


 くそっ。

 やっとあいつにまた会う事ができたというのに。


 ミリアスの理性はここから早く立ち去るべきだと叫んでいる。けれど感情は、彼を叩き伏せて捕まえて、洗いざらい事件のことについて吐かせたいと思っている。

 そのせめぎ合いにミリアスが唇を噛みしめた時、シャインが動いた。


 一陣の突風のように斬り掛かったシャインの剣先を、反応したミリアスの剣が受け止める。人間の耳には捉える事ができないような、高い金属音が振動と共に空気を震わせた。


「――っ!」


 腕が痺れる。なんて剣技だ。

 ミリアスもどちらかといえば小柄な方だが、シャインはミリアスより背が高いだけで体格差はないと思えた。だがまるで鉄棒で殴りつけられたようなシャインの攻撃に、ミリアスは剣を取り落としそうになった。するとミリアスと刃を絡めていたシャインの姿が視界から消えた。


「くっ!」


 ミリアスの剣を押すようにして離れ、シャインの長靴ブーツが弧を描いてミリアスの脇腹を鋭く抉る。

 速い。

 その動きをかろうじて目で追いかけてはいるものの、体は反応することができない。

 ミリアスは背中から地面に倒れ込んだ。

 間髪入れずにシャインがミリアスの右手を踏み付け、その手の中の剣を蹴り飛ばす。


 ふざけるな。ちくしょう。

 けれど痛む右手と脇腹が、嫌でも彼との実力差を感じてしまう。

 ミリアスは怒りと共に、右手に力を込めて腕を自分の方へ引き戻す。同時に左手に持った短銃を、シャインに向かって、撃つ。


 至近距離にもかかわらず所詮牽制でしかなかった弾丸は、シャインにとって避ける必要すらないものだった。シャインは動く事なく、ただ風に靡く束ねていない月影色の金髪が、数本火花のように散って空に舞った。


 シャインは表情一つ変えず、息一つ乱さず、あの凪いだ海面のような静かな瞳でミリアスを見下ろしている。感情を凍り付かせているのではない。至って平静を保っているだけだ。

 やがて、彼の薄い唇が動いた。


「アスラトルへ帰るんだ。ミリアス・ルウム」

「……!」


 ミリアスは信じられない思いでシャインの顔を凝視していた。

 再び脇腹を蹴りつけられ、その痛みで意識が途切れる間際まで。

 弱いやつだと思っていた。

 真実から目を逸らし、自分から逃げた卑劣な男。

 けれど今の彼は、墓場で出会った時とはまるで別人――。


 何が彼を変えたのか。

 いや、自分はシャイン・グラヴェールという男を見誤っていたのだろうか。

 そう。

 彼はあの『ノーブルブルーの悲劇』で、味方の船を砲撃して沈めた男なのだ。

 非情にも。

 闇に沈む意識の中で、ミリアスは知った声を聞いた。


「ミリアスから離れて下さい」


 ――ジャーヴィス艦長。

 ミリアスは警告を発しようと口を開けたがそれは声にならなかった。


 あなたではもっとかないません。

 あなたでは、彼に勝つ事はできないでしょう。

 今のシャイン・グラヴェールには、『迷い』がない。




 ◇◇◇ 

 

 


 ジャーヴィスは荒い呼吸を整え、右手に持った銃をシャインへ向けていた。

 リュニスの指揮官クラスの軍服を纏い、何故、死んだとされるシャインがアノリアにいるのか。

 けれど、そんなことはどうでもいい。

 ジャーヴィスにとって一番大事な事は、シャインが生きているという事実。

 シャインがリュニスの軍服を纏い、ミリアスの胸を長靴で踏み付けていなければ、その事実に胸震わせて彼の無事をここで喜んでいるというのに。


 ジャーヴィスは油断なく銃を構えたままシャインに近付いた。

 思えば海軍を休職中の彼とは約半年ぶりの再会だ。


「こんな形で……あなたに会うとは思いませんでした」


 グラヴェール艦長。

 リュニスの軍服を纏ったシャインにそう呼び掛けるべきか? 一瞬躊躇してジャーヴィスは言葉を濁した。

 シャインはゆっくりとミリアスの胸に置いていた足を下ろしジャーヴィスを一瞥した。

 緩やかな弧を描く剣を握り直す小さな金属音がした。


「君も来ていたのか。ジャーヴィス艦長」


 声も話し方もシャイン本人そのものだ。

 ジャーヴィスは安堵した。ミリアスを叩きのめしたのはきっと、血の気の多い彼の攻撃を受けて、やむを得ず応戦したのだろうと思った。


「こんな所で何をしているんです? 丁度良い。アノリアはリュニスの手に落ちたようです。あなたも一緒に、私の船で――」


 ジャーヴィスの言葉が言い終わらないうちに、シャインが月光の光を宿した剣を翻して斬り掛かってきた。


「グラヴェール、艦長……」


 ジャーヴィスは躊躇した。斬り掛かってくるシャインはジャーヴィスにとって攻撃対象ではない。

 けれど身の危険を感じた。

 頭の奥ではそれをわかっているというのに。

 ぎりぎりまで迷っていた思考が、かろうじて動きだす。


 シャインはリュニスの軍服を纏っている。理由はどうあれ、それはアノリアを襲撃したリュニス軍に彼は属しているということだ。元々リュニスの軍人のように振る舞って見えるその姿は、皮肉な事に全く違和感がない。


 ジャーヴィスの鼻先をシャインの剣先が通り過ぎた。

 次が、くる。

 何度か海賊との戦いで、シャインと共に戦った事があるジャーヴィスは、彼の機敏な動きを知っている。射撃はジャーヴィスも自信があるが、剣術と体術はシャインの方が上だ。


 彼は代々海軍将校を輩出しているグラヴェール家の跡取りなのだ。争いを好まない性格と、『碧海の乙女』と称された母親に面差しが似ているせいで、シャインの能力は普段隠されてしまっているけれど。


 しかしどこにでもいる良家の坊っちゃんと思って手を出すと、思わぬ反撃を受ける事になる。グラヴェール家が海軍将校を輩出するのは強力な縁故の力もあるが、個々の能力を幼い時からの研鑽で高めている、優秀な軍人一家でもあるからだ。


 ジャーヴィスはシャインの鋭い剣先を再び躱しながら、けれどその動きに捕まった事を感じた。シャインの返す刀を避け損ね、銃を握る右手の甲に血の筋が浮かび上がる。

 けれどジャーヴィスの脳裏にシャインと戦う選択肢は浮かばなかった。

 肩甲骨が袋小路の壁にぶつかった。


 退路を断たれたジャーヴィスは、黙ったまま切っ先を喉元に突き付けるシャインの青緑の瞳を見据えた。シャインの顔に動揺の色は見えない。何より彼からは迷いを一切感じない。

 今の彼なら、容赦なくジャーヴィスの命を奪う事もできるだろう。


 以前からふと思っていた事がある。

 シャインは頑固で良い言葉を使えば自分の信念を決して曲げない。だからその聖域に踏み込み、無理矢理にでも従わせようとすると、彼は自らの死すらいとわない。一見高潔で誰にでもできることではない行為のようだが、ジャーヴィスからみるとそれがシャインの精神面での弱さなのだ。


 指で触れれば一瞬で消えてしまう海の泡のように。

 繊細な彼の心は、他者と必要以上に干渉しないことで、自ら内に堅牢な壁を作る事で守られている。

 けれどその壁を自らの力で必要としなくなった時。彼はどれほど強くなるのだろう。


 ジャーヴィスは口元に笑みを浮かべた。血の流れる右手から銃を手放し、足元に落ちたそれを自らシャインの方へ蹴飛ばした。


「降参です。私を捕虜にしますか? シャイン・グラヴェール」


 後にも先にも、礼儀正しいジャーヴィスが、シャインの名を敬称をつけずに言ったのはこの時だけだ。

 シャインの顔に初めて困惑と呼べる不穏な表情が広がった。


「……」

 何か、聞き慣れない言葉でシャインが答えた。


「何を、言ったんですか?」


 思わず聞き返すと喉に食い込む刃の感覚が不意に薄れた。

 剣を引いたシャインが慣れた手付きでそれを鞘に収めている。


「リースフェルト」

「えっ」

「それが、今の俺の名だ」


 ジャーヴィスは驚愕して思わずシャインの方に歩を進めた。


「どういうこと、なんですか?」

 だがシャインは目を合わせる事なくジャーヴィスに背を向けた。


「早く船に戻るんだ。ミリアスを連れて。今ならまだ間に合う」

「あっ……!」


 白いマントを翻し、シャインは路地に向かってその姿を消した。

 ジャーヴィスはそれを追いかけようとして、だが、アノリアがリュニスに襲撃された現状を思い出して、かろうじてその衝動を抑えた。


「うっ……」


 仰向けに倒れていたミリアスが呻いている。

 どうやら意識を取り戻したらしい。同様に、袋小路の壁にもたれるようにしてくず折れていた海兵隊の青年も身じろぎをしていた。

 意識を取り戻したミリアスが、ジャーヴィスの姿を見つけて体を起こす。俯いて、彼は咳きこみながら呪いの言葉を吐いていた。


「……ち、くしょう!」

「大丈夫か、ミリアス」


 ジャーヴィスはミリアスの側に歩み寄り膝をついた。ミリアスの顔は青ざめて血の気が失せていたが、冴えた水色の瞳は怒りの光を宿していた。


「ご無事で。ジャーヴィス、艦長」

 ジャーヴィスはミリアスに向かってうなずいてみせた。


「立てるか?」

 ジャーヴィスを見つめるミリアスの瞳が熱っぽい光を帯びた。


「当然、です」


 負けん気だけは強いのだろう。ミリアスはゆっくりと立ち上がったが、左手は右の脇腹を押さえている。それを見てジャーヴィスはふっと笑った。気付いたミリアスが痛みのせいか、それともジャーヴィスの失笑に気付いてか、ひがんだように言い返す。


「なっ、何がおかしいのですか!」

「いや、おかしくて笑ったんじゃない」

「でも、今、確かに笑いましたよ! ジャーヴィス艦長」


 ジャーヴィスは地面に転がした自分の銃を拾い上げ、腰のベルトにそれを収めた。


「あの人の足技はすごいだろう」


 ジャーヴィスに食って掛かろうとしたミリアスの動きと表情が凍り付いた。


「あれを喰らって起きあがれた人間を私は見た事がない。だからお前は決して弱くない」

「……」


 何と返事をしていいのか戸惑っているのだろう。ミリアスの顔は未だ凍り付いたように強ばっていた。

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