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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第1話 レイディ・ロワール
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1-24 私の『名前』

 風向きが南から東へと変わった。

 帆桁がぎしぎしとしなり帆が雷鳴のように不快な音を響かせている。

 風も強さを増している。ロワールハイネス号の船首が一気に風下へと落ちた。舵の向きが変えられないロワールハイネス号はなす術もなく風に翻弄されるままだ。横波を船腹に食らい甲板が左舷側へ大きく傾く。


「うわあああ!!」


 上げ綱に取り付いていた水兵達が体勢を崩し次々に転倒した。

 シャインも傾斜する甲板のせいで思わずその場に膝をつく。


「みんな! メインマストから離れて!」


 突如、少女の悲鳴にも似た声が甲板に響き渡った。

 メインマストの帆を畳もうと集まっていた水兵達が、聞こえたその『声』と『音』に驚き、一斉に上を見つめる。


「早く逃げて!」

「何っ」


 シャインの目の前で、ロワールハイネス号の中で一番大きな帆であるメインスル(主帆)と、それを支えていた斜桁ガフが一緒にすべり落ちてきた。


 船全体に振動が走る。

 メインマストの一帯は帆と上げ綱と一緒に落下してきた滑車類でぐちゃぐちゃになっている。帆の落下から直撃をまぬがれた水兵達がわらわらと後部甲板へ集まってくる。怪我人がいるかどうかはわからない。


「グラヴェール艦長」


 その様子を見ていたシャインは、背後から近づいてきたシルフィードに気付いて振り返った。

 伸ばしっぱなしの黒髪を風にあおられるまま靡かせた航海長は、普段人懐こい緑のたれ目に暗澹とした感情を浮かべていた。


「今の声は『船の精霊レイディ』ですよ」


 シャインはなんとか立ち上がった。


「だから……何だって言いたいんだ?」

「船が急に操船不能になったんですぜ。やっぱり、命名式を失敗した船は処女航海で沈むんです」

「シルフィード航海長」


 シャインは両手を強く握りしめた。無意識の内にシルフィードの無精髭が生えた顔を睨み付けていた。


「そうじゃない。『彼女レイディ』のせいじゃない!」

「でも、現にメインスルが落ちましたよ!」


 シャインは自分を取り囲むように水兵達が集まっていることに気付いた。

 青ざめたクラウス士官候補生が喉の奥から絞り出した声で叫ぶ。


「それに僕は『逃げて!』と言う声を聞きました。少女の声でした!」


 そうだ、そうだと水兵達が口々に叫んだ。


「あ、あれを見て下さい!」


 船首部にいたエリックがシャインの背後を指差している。


「あれってまさか」

「ふ……『船の精霊レイディ』だ……!」


 口々に畏怖と驚きの声を上げる水兵達のそれをききながらシャインは見た。

 舵輪の前に佇む一人の少女の姿を。

 鮮やかな紅の髪を波飛沫が舞う風に靡かせながら、彼女は、一歩、また一歩とこちらに向かって歩いてきた。

 そして向かい合う波を象った鐘楼に吊るされた『船鐘』の隣で立ち止まった。

 シャインから約十歩ほど離れた距離で。

 その顔は磁器のように白く青ざめ、船の精霊というよりも幽霊のように見える。

 彼女の瞳は虚ろでシャインの視線を認めると瞬時に海よりも深い青へと変わった。

 この瞳は――。

 シャインは全身から血の気が引くのを覚えた。

 突如襲ってきたえも言われぬ恐怖――。

 ロワールハイネス号の船体が横波を食らって大破し、冷たい海水が容赦なく船に襲いかかるのが脳裏に見えた。


「船がっ、船が沈む!!」

「嫌だ! た、助けてくれぇ~」


 シルフィードが太い二の腕で頭を抱え甲板にうずくまった。

 クラウスが甲板にへたり込み激しく泣きじゃくっている。

 エリックが沈む船から少しでも身を守ろうとして、メインマストに抱きつく。


『そう。私がここにいると船が沈んでしまうの』


 ひやりとしたレイディの声が周囲に響いた。

 水兵達は皆甲板に座り込み狂気じみた泣き声を上げていた。

 

 ――違う。


 ただ一人甲板に立つシャインは、レイディの人形のように表情を喪っているそれを睨み付けた。


 ――違うんだ。


『私は……望まれていない』

「違う!」


 シャインは震える両足に力を込めて、レイディの方へ一歩足を踏み出した。


「!」


 けれど踏み出した足は甲板を踏み抜き、そこから海水が噴き出した。


「違う! 俺は――信じない」


 シャインは両目を閉じ、右手を右足の膝上まである長靴へと伸ばした。長靴の内側へ忍ばせている銀の細剣を引き抜き、その刃をぐっと右の掌に押し付けた。


 幻だ。

 船はまだ沈んではいない。

 現実に戻るんだ。


 シャインは刃を握り締める手に強く――強く力を込めた。

 鋭利な刃が掌に食い込む。ぴりぴりとした痛みと自分の心臓の鼓動が重なる。


 信じろ。

 『船の精霊レイディ』は船の魂。

 生まれたばかりの彼女が、何故、自らの死を願わなければならない?


 掌がずきずきと痛んだ。けれどその痛みがシャインを現実に引き戻す。

 シャインは閉じていた目を見開き、銀色の船鐘の隣に佇むレイディへ叫んだ。


「君のせいじゃない! 俺を貶めるために、誰かが君の操舵索を切断しただけだ」


 シャインは気力を振り絞ってレイディに向かって足を踏み出した。

 まるで海そのものを相手にしているような畏怖感が再び襲ってきた。


『お前ごときが我々を御せると……?』


 レイディの口調が変わった。


「俺は彼女と共に、このロワールハイネス号に乗りたいだけだ。何故、お前はその邪魔をする!」


 シャインはさらに前へと足を踏み出した。一歩、二歩。

 だが足が異様に重い。見下ろすと足首に緑色の海藻が絡みついている。

 そういう風に見えるだけだ。

 シャインは再び足を動かした。足の重みがふっと軽くなる。


「幻を見せるのはやめろ。俺が会いたいのはお前の方じゃない。レイディ――」


 シャインはじりじりと赤い髪の少女へと近づいた。

 いや。

 シャインは握っていた細剣を甲板に落とした。そのまま手を伸ばし、銀色の『船鐘』に両手を載せた。

 そこに刻まれている船名を確かめるために。


 ロワールハイネス号。


「俺は命名式で誓ったんだ。いかなる時も君を守ると――レイディ・ロワール。今ここでもう一度君にそれを誓う」


『私に触れるな!!』


 船鐘から青い光が放射線状に迸った。

 同時に全身を雷にでも打たれたかのような衝撃に襲われる。

 誰かの悲鳴が聞こえた。


「くっ……!」


 シャインは両手で抱えた『船鐘』から手を離さなかった。

 こうしなければ『彼女』に二度と会えないかもしれないと思ったからだ。

 この身を二つに引き裂かれてしまいそうな衝撃と青い光の本流――。

 その中でシャインは探していた。

 求める彼女の姿を。



『私とあの力は拮抗している。そのバランスが崩れたら、私は二度と表に出てこられない』


 そんなのは嘘だ。

 君が望めば何度でも出てこられるはずだ。

 いや、俺が望んでいる。

 諦めないでくれ。


『もうやめて。この青き光『ブルーエイジ』は人間の魂を求めて貪り喰らう悪魔。あなたも私のように取り込まれてしまう!』


 シャインの耳にレイディの声が聞こえてきた。


 ――取り込まれる?


『そう。私はかつて人間だった。でもこの鐘に宿る大きなブルーエイジを制御できず、魂ごと取り込まれてしまった。シャイン――』



 シャインは前方の光に向かって手を伸ばした。

 それは華奢な少女の指となってシャインの目の前に現れた。

 シャインは夢中でそれをつかまえた。

 周囲を取り巻く青い光が更に輝きを増していく。

 まるでシャインと彼女を引き離そうとするかのように。

 青い光は蛇のようにシャインの腕を伝い上がり見る間に全身を覆っていく。


『シャイン! 手を離して。あなたも取り込まれるわ』

「……嫌だ……」


 シャインはレイディの手を自分の方へ引っ張った。

 どこからか笑い声が聞こえた。


『どこまで耐えられるかな。お前という人間がどんな心の闇を抱えているのか――見せてもらおう』

「あっ……」


 レイディの手はまだなんとか掴んでいたが、突然胸に穴が開いたような空虚感にシャインは甲板へ膝をついた。

 目の前に見えるのはただ青く目に痛いほど鮮やかな――青い光。

 




『もう勘付かれるとはな。小癪なエルシーアの金鷹め。折角お前をこの船に乗せたのに、保険にすらならなかった』

 シャインは瞠目した。

 ”エルシーアの金鷹”とは、ある人物のあだ名だ。海軍省では特に有名な――。

『それはどういう意味でしょうか』

 ヴァイセはいらいらした口調でつぶやいた。

『どうもこうもないわ。彼奴は噂通り、冷酷な男だったということだ。息子が乗る船だというのに、アレを取り戻すため追っ手を差し向けたのだからな』

『追手?』




 ああそうだ。

 昔からそうだった。

 シャインは甲板に膝をついたまま青い光をじっと眺めた。


 母は自分が赤子だった頃に死別した。だからどんな人だったのかはもとより、その顔すら知らない。

 あの男――アドビス・グラヴェールは海軍に自分の人生のすべてを捧げ、目的のためなら息子の命すらどうなっても構わないと考えている。


 求められていないのは自分の方だ。

 だから家に居場所は求めなかった。

 海に出ていればこの胸の空虚感を意識しなくて済む――。

 そう思っていた。ずっと。

 この世界は変わらない。あの男も変わらない。

 何も変わらないのなら――いっそ。

 なんだか、疲れたな。

 シャインはふっと目を閉じた。


『違うわ』


 違う?


『そう。あなたはあなたでいられる居場所を見つけた』


 シャインは重く感じる瞼を意思の力でこじ開けた。

 白い優しい手がシャインの頬に添えられている。

 青い光からシャインを守るように、紅の鮮やかな髪を舞わせた少女がその顔を覗き込んでいた。

 視線が交わると、少女は透き通った瞳を細めて微笑した。


『私は知っているわ。この半年間――共に海へ出ることを望んでくれたあなたのことを』


 シャインは両手に力を込めた。

 喪われかけていた気力がほんの少しだけだが蘇るのを感じる。

 ああそうだ。

 俺はやっと見つけたんだ。

 海でやりたいこと。心から望んでいた事。

 シャインは少女に向かって両手を伸ばした。



「そうだ。俺はやっと手に入れたんだ……」


 少女もまた白く細い腕を伸ばした。

 シャインはそれを掴み自分の方へ引き寄せた。


「君は一人じゃない。俺がいる。だからあの力に負けるんじゃない! ロワール!」


 シャインを包み込んでいた青い光が一斉に四方へ弾け飛んだ。

 同時にあの恐ろしい気配が消え失せた。




『ロワール? それは……私の……』


 シャインの腕の中で、少女は驚いたように顔を上げた。

 自分がそう呼ばれたことに戸惑っているようだ。


「そうだ。これは君の名前だ。レイディ・ロワール」


 シャインは少女の問いに頷いた。


『ロワール』


 少女の小さな唇がその名をつぶやく。

 今度は先程よりも力強く。噛みしめるように。


『私の……名前……』

「ああ。君の名前だよ。命名式でそう告げただろう? 君は本船の『船の精霊レイディ』なんだ。だから君はここにいなくては駄目なんだ」


 シャインは唇に微笑を浮かべた。水色の澄んだロワールの瞳に浮かんだ涙の滴をそっと指の腹で拭う。

 少女――ロワールが瞳を伏せ、けれどゆっくりと顔を上げた。

 そこには今までの見せていた不安げな表情ではなかった。


「――信じられない。『ブルーエイジ』が……あなたに屈した」

「えっ」

「よかった!」


 ロワールが安堵したように微笑した。

 シャインの背中に両腕を回して抱きつく。


「ロワール? おい……」


 回された腕にぎゅっと力が入るのをシャインは感じた。


「私――私、怖かったの。私がいるせいでこの船をトラブルに巻き込んだんじゃないかって」

「違う。君は何もしていない。今までのトラブルだって、誰の仕業かまだわかってないが……」


 ロワールは腕の力を緩め顔を上げた。


「うん。知っているわ。悪意のある人が私の操舵索を切断して、舵を効かなくようにした。船が操船不能になったことに私、もうどうしたらいいのかわからなくなって。気付いたらメインマストのメインスルを落としてしまったの」


「そのおかげで助かったよ。君がメインスルを下ろしてくれたから、船は転覆を免れた」

「えっ。そうなの?」


 ロワールは意外そうに水色の瞳を大きく見開き呟いた。

 シャインは静かに立ち上がった。

 船の精霊――今はシャインの傍らに立つ彼女の小さな手を握りしめたまま。

 急に風の音を強く意識した。

 けれど船の揺れはメインスルが落ちる前に比べると幾分穏やかになっている。

 空は相変わらず曇ってはいるが、嵐が近づいているわけではない。


「船が沈む~! 助けてくれ!」

「もうおしまいだ!」


 ロワールハイネス号の水兵達がある者は甲板に這いつくばったり、マストにしがみついている。

 まだ船鐘の中にある『力』の影響で、恐怖の幻影から目が覚めていないのだ。

 シャインはその様子を一瞥してから、背中をまるめてうずくまっている航海長シルフィードの所へ歩いた。


「シルフィード!」


 その名を鋭く呼ぶ。

 ひきしまった筋肉を感じる肩をゆさぶると、怯えた瞳でシルフィードがシャインを見上げた。


「しっかりしてくれ。別に船は嵐の中にいるわけじゃない。メインスルが落ちたせいで船の揺れは大分収まった。わかるだろう?」

「……」


 シルフィードの緑のたれ目がようやく落ち着いた光を取り戻した。


「ほ、本当……ですね」


 シルフィードがゆっくりと立ち上がる。

 その様子を見てからシャインは水兵一人一人に声をかけて回った。幸いなことに皆、肩を揺すったり(クラウスは頬を叩く必要があったが)声をかけるだけで正気を取り戻した。


「よし。みんな落ち着いたな」


 鐘楼の前の甲板に水兵を集め、シャインは皆の顔を見回した。

 彼らの視線はシャインの隣に立つ、紅髪の少女へ釘付けになっている。


「艦長。ひょっとしてその子は……」


 シルフィードの隣に立つ見張りのエリックが、おずおずと口を開いた。


「ああ。紹介しないといけないな。彼女は――」


 シャインが水兵達にロワールのことを話そうとした時だった。

 背後の後部甲板の開口部の扉が不意に開いた。


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