5-26 白い空虚
アスラトルからアノリアまで、海上を南に下る事約一週間。
海の色は徐々に緑を帯びた明るい色となり、気温もアスラトルよりいくらか高く感じられる。帆を張ったり甲板をせわしなく歩き回ったりすれば、額が汗ばむくらいの陽気だ。
見張りが夕闇に沈むアノリアの街を視認して間もなく、アマランス号は緩やかな弧を描く港の沖合いに錨を下ろした。アノリアにはエルシーア海軍の軍艦が常駐していないせいで軍港がない。
「なんか様子がおかしいでっせ」
ダールベルク家に向かうため、ジャーヴィスが上陸するための雑用艇を海に浮かべた時だった。見張りのヤールじいさんが長身をのばし、手びさししてアノリア港を眺めていた。
「何がおかしいんだ? ヤール」
彼の独り言を小耳にはさんだジャーヴィスは問いかけた。
ヤールは白くなった無精髭をさすりつつ、その視線はアノリア港にそそいだまま唇を動かした。
「静かすぎるんでさぁ。ジャーヴィス艦長。儂は実はアノリアの生まれでね、十年前ぐらい、ここで漁師をしとったんでさぁ。アノリア港に大きな船が着くと、こぞって行商人が小舟を出して、砂糖に群がるアリのようにやってくるんだが……一隻も来ないうえに、港にも人の気配がしねぇ……これはおかしいですぜ?」
ジャーヴィスはアノリア港へ視線を向けた。
円弧を描く港には、櫛の目のようにいくつも細い桟橋が沖に向かって伸びている。ヤールじいさんの言う通り、桟橋にはひと一人が乗れるくらいの細長い小舟が何隻も係留されている。だが人の姿はない。
港には白い石造りで茶色の瓦を葺いた家が並んでいて、寂れた様子は全くないのに人間がいない。
宵闇と相まって、無気味な静寂がアノリア港を覆っているようにジャーヴィスは感じた。
「フォレド海兵隊長」
「はっ」
ジャーヴィスは水色の軍服に白色の革の弾倉を肩から斜めにかけた、30代の海兵隊長を呼び寄せた。
「私とルウム副長、あと君の部下を五人ばかり借りてアノリアに上陸する。その間留守を君に任せる。何かあったらメインマストに信号旗を揚げるか、速やかにアノリア港から離れてくれ」
フォレド海兵隊長は角張った顔を緊張で強ばらせながらジャーヴィスの顔を見た。
「了解しました。ジャーヴィス艦長。では、私があなたに同行させる部下を五名選びます」
「頼む」
フォレドは鋭く何人かの名前を呼んで、アマランス号の舷門の前に部下を整列させた。
その間に武器庫に降りていたミリアスがジャーヴィスに銃を手渡した。
ジャーヴィスは軍服の上から手際よくベルトを着けた。
「ありがとう。お前も武器を携帯しているな? ミリアス」
「はい」
ミリアスは腰のベルトに短銃を二丁吊し、エルシーア海軍で使用されている一般的な片手剣を下げていた。それを見つつジャーヴィスは、唇の端に笑みを浮かべ小さく溜息をついた。
ダールベルク家に行って荷物を受け取るだけのはずだったのに。この重装備は何なのだろう。
これで何もなかったら、とんだ笑い者になるかもしれない。
けれど不測の事態に備えるのは指揮を執る者として当然の事だ。もっとも、ダールベルク家の家人を驚かしてしまうかもしれないが――。
「イーブン航海長。私が留守の間アマランス号の責任者はお前だ。フォレド海兵隊長と共に船を守れ。わかったな」
ジャーヴィスは潮焼けで浅黒い肌の航海長と、がっしりした体を窮屈そうに軍服に押し込めている海兵隊長に再度念を押した。
「私も危険を感じたらすぐに船に戻る。いつでも出港できるように準備を怠るな」
「はい」
航海長は力強く頷いた。ジャーヴィスはそれを満足げに一瞥した後、舷門から下ろされた縄梯子を伝い、海に浮かぶ雑用艇に乗り込んだ。
ミリアスを含め、一緒に上陸する海兵隊の五名もすでに雑用艇に乗り込んでいる。
「船を出せ」
ジャーヴィスはミリアスに命じて、自ら雑用艇の舵柄を握りしめた。
アノリアの街の背後にそびえる山々が、不意に灰色を帯びたように色褪せて見えた。雨雲だろうか。もくもくとした質量を感じるそれが山の頂きにかかっている。
「……静かですね」
「ああ」
軽快に櫂を漕ぎながらミリアスが呟く。
港に寄せる波と木々のざわめきが聞こえるくらい、辺りは静寂に包まれている。
「アノリアの住人は何処に行ったのでしょうか」
「わからん」
ジャーヴィスは舵を取りながら用心深くアノリア港の様子を伺った。この街を何が襲ったのかどうか、まだ定かではないが、日暮れ時とはいえど、人の姿が全くないのがとても気になる。
ジャーヴィスは雑用艇を港の一番東端へ向かって走らせた。
自分達がここにやってきたのは、誰かが見張りに立っていれば、アマランス号を見れば明らかだ。今更身を隠すようなことは無意味に思えたが、それでもひょっとしたらということがある。
ジャーヴィスの乗った雑用艇は十分とかからず、木を組み合わせて作られた桟橋へと着いた。海水は沖合いよりあまり透き通ってはおらず、アノリアの住人たちのものであろう、果物を食べた時の皮や、千切れた海草の類いが桟橋の木材に絡み付くように溜まっている。
「油断するな」
ジャーヴィスは雑用艇に乗っているミリアスや海兵隊の五名、アマランス号の水兵達五名、それぞれと目配せを交わして港へと上陸する。
その時ジャーヴィスは、筋のような薄い煙が街の北側から昇っていることに気付いた。山の上にかかるように湧いた灰色の雲のせいで今までわからなかったのだ。
「ミリアス、煙だ」
ジャーヴィスの言わんとする事を察してミリアスは頷いた。
「二手に分かれますか?」
「そうだな。私は街の北部にあるダールベルク家に行ってみる。お前は念のため、街の西側の方の様子を見に行ってくれるか?」
「わかりました」
「だが気をつけてな。西にはリュニスの船が発着する港がある。何かおかしいと思ったらすぐにアマランス号に引き返すんだ。わかったな、ミリアス」
ミリアスは早速右手に銃を握りしめ、ジャーヴィスに向かって再び頷いた。
「では水兵のズールとムルド、あと海兵隊の二人を連れて行きます。ジャーヴィス艦長もお気をつけて」
「ああ」
ミリアスは水兵二人と海兵隊二人を連れて、白い壁の民家が立ち並ぶ細長い路地へ姿を消した。
「では我々も行くぞ」
ジャーヴィスは水兵三人と海兵隊の三人を連れて、アノリアの街の中心部へと歩き出した。
◇◇◇
子供の頃から、海軍の軍人である父に憧れていた。
海賊拿捕専門艦隊・通称ノーブルブルーのファスガード号に乗るアースシー・ルウムに。
初めは単に、寂しかった。父は一度航海に出たら数カ月戻らない。帰ってきたと思えば、一週間も家に留まる事なく再び海上の人となってしまう。
けれど父は、ミリアスや妹のミリーをとても可愛がってくれた。特に母と妹には土産を欠かさず持って帰ったし、休暇中ミリアスを軍港に連れていって、ファスガード号に乗せてくれたこともあった。
もっと父と同じ時間を共有したい。
あの背中を間近で見て、彼のような強い人間になりたい。
今となっては子供じみた純粋すぎる思いだが、それがミリアスが海軍に入った理由だった。
勿論、特殊な任務に就くノーブルブルーへ、いかに現役の艦長の息子とはいえ新人のミリアスが配属されることはない。
ミリアスは14才で海軍に入り、自ら外洋艦隊を希望した。北方の軍事大国シルダリアの防衛線を監視するその任務は、一度母港アスラトルを出ると最低一年は帰ってくる事ができない。手っ取り早く、一人前の海軍士官になるために、自らの能力を高めたいと願うミリアスにとって、遠洋を航海する外洋艦隊は好都合だったのだ。
外洋艦隊に入って四年を過ぎ、ミリアスは一人前の士官として認められる昇格試験に合格し海尉となった。いってみれば、これでやっとミリアスは、父アースシーと同じ船に乗れる基準に達する事ができたのだ。
後はノーブルブルーへの転属を願い出るだけだったのだが。
運命とは定められているものなのだろうか。
未来は望む形で確約されているものではないが。
けれど思わずにはいられない。
何故、今までの努力を無にするような出来事が、自分の身に降り掛からねばならないのか。
何故、二十年もの長き間、海賊拿捕の任に就いていた父の船が、こうもあっけなく沈んでしまったのだろうか。
その命を奪ってしまったのは何なのか。
共にあの甲板に立とう。
お前が来るのを待っている。
海軍に入る事を報告した時、父はうれしそうに微笑んだ。
『待っている』
あの力強い声だけが、いつまでもミリアスの脳裏に色褪せる事なく響いている。
そうありたいと願った未来の先は、何も描く事ができなくなってしまった。
夢の欠片は心の中にできた白い空虚の中で、無惨にも千切れて消えてしまった。




