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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第5話 Judgment Day
247/332

5-24 六卿の娼婦

「ほう……これはこれは。そうそうたる顔ぶれですね」


 アリスティド統括将の執務室を訪れたノイエ・ダールベルクは感嘆混じりの声をあげた。

 緋糸と金糸の豪奢な刺繍を施した長椅子には、エルシーア海軍の要職についている「エルシャン=シー・ロード」(通称「六卿」)と呼ばれる重鎮たちが、思い思いに寛いだ様子で腰掛けている。


「あら時間通りのお出ましね。新任の参謀司令官さん」


 袖のない黒のすらりとした長いドレスを纏った金髪の女性が、意味ありげにノイエに向かって微笑んだ。左目に流れ落ちる長い前髪を優雅に払いのけ、青玉のような瞳を興味深げに細めると、彼女は細長い紙煙草を艶やかな唇の端にくわえた。


「あの『金鷹アドビス』の後釜は、ヴィスタッドのお爺さんがなるものと思ってたけど」


 ノイエは女性に向かって恭しく頭を下げた。


「その節は、世話になったと言っておきましょうか。ロヤント海軍書記官」

「そうか。お前が口を出したのか」


 女性――ロヤント海軍書記官の隣でワインをすすっていた銀髪の男が呟いた。ノイエはそちらに視線を転じた。立派なわし鼻の持ち主で、その横顔を一度見たら忘れる事がないだろう。主に軍艦の建造計画や経費を管轄する、艦船管理部門の長、バスク・エスクィア中将。


「あら。私は別に何もしていませんわ。優秀な方が地方に埋もれていると小耳に挟みましたので、ただ陛下に申し上げただけ」


 紫煙を吐き出し、ロヤントは妖艶な口元を吊り上げて笑みを浮かべた。三十を半ば以上過ぎたとは思えない美貌の女で、それはもともと色白の肌で輝くような金色の髪のせいかもしれない。淡い色彩の中で血の色にも似た口紅が、彼女に毒花のような危険な香りを周囲に漂わせていた。


 ノイエは彼女の言葉を讃辞と受け止めて再び恭しく頭を垂れた。

 ロヤント海軍書記官は、アスラトルに設置されている海軍省本部と、王都ミレンディルアの国議会を繋ぐ要職に就いている。海軍省の年間の予算を決め、それを国議会に承認させるのが彼女の仕事だ。その権限はこの場にいないアリスティド統括将と同等で、ノイエを含め、他の五卿の中で圧倒的に一番強い。


「まあ、ヴィスタッドはもう年で、引退したいといっておったからな。六卿もダールベルク中将が加わる事で、多少若返ってよいかもしれん」


 ピンと跳ね上がった自慢の口ひげをひねりながら、総務部を束ねるトリニティ中将が呟いた。


「おいおい。一緒にするなトリニティ。六十をすぎた貴様はともかく、まだ儂は六十前だ。勝手に年寄り扱いするんじゃない」


 酒の飲み過ぎなのか怒りのせいか。薄くなった頭に円筒形の軍帽を被った諜報部の長オーラメンガー中将が席を立って、すまし顔のトリニティに怒鳴りつける。だがトリニティは涼しげな顔でそれを受け流す。


「オーラメンガー、あまりいきり立つと血圧が上がって血管がちぎれるぞ。六十前も後も、肉体的には対して変わらんよ」

「なんだと!」

「ほらほら、顔色が真っ赤だ」


 そんな二人のやりとりを、オーラメンガーの隣に座っている小柄な五十代の男――主計部の長コルムは無視してロヤントから細巻き煙草を受け取った。神経質そうな長細い指でそれをつまみ、煙草をうまそうに吸う。


「赤いのは怒っているからだ」

「諜報部の長の癖に、感情をあからさまに出すでない」

「ぐっ……」


 トリニティの鋭い一喝でオーラメンガーは黙り込んだ。むっつりとした顔でワインのグラスに手を伸ばす。コルムはただ煙草をふかしている。


「早く王都ミレンディルアに帰りたい~。だから六卿ジジイの会合には出たくないのよ」


 肘当てにむき出しの腕を載せ、上目遣いでノイエを見上げる。彼女の隣の椅子に近付けば、嫌でもふくよかな白い胸の谷間が視界に入るという寸法だ。


 ノイエは内心溜息をつきながら、ロヤントがしなだれかかる長椅子に腰を下ろした。まあいい。確かにジジイ達の隣よりかは、ここの方が眺めが良い。


 それに実際ここしか椅子が空いていなかった。多分あのロヤントがそう仕向けたのだろう。

 ノイエが腰を下ろすと『あの女の男漁りが始まった』、そういわんばかりに、トリニティやオーラメンガーが目を細めた。


 ロヤントは誰もが美しいと思える美貌の主であるが、彼女はそれを武器として現在の海軍書記官の地位に上り詰めた。色仕掛けに引っ掛かる馬鹿な高官もいただろうが、彼女はエルシーア王家に連なる傍系の出自で、ロヤント辺境伯令嬢でもある。「六卿の娼婦」と呼ばれながらも頭の切れる女だった。


「ダールベルク、お前はどこでロヤント海軍書記官に目をつけられたのだ?」


 トリニティが自らワインをノイエのグラスに注ぐ。

 それを受け取って、ノイエは隣で微笑むロヤントと視線を絡ませた。


「そう。この人は私が見つけたの」


 赤い唇を笑みでほころばせ、ロヤントはトリニティに言った。


「海軍の予算は年々削られているわ。貴方達の要求金額を議会に承認してもらうのが、ほんっとに厳しいの。ああそう、オーラメンガー。諜報部の予算は22パーセント減額よ」

「何っ!」


 オーラメンガーの赤ら顔が一瞬で白くなる。


「ロヤント、おい、お前も北方の不穏は知っているだろう? そんなに削られたら調査に必要な人間を派遣する事が――」

「エスクィア。エルシーア海賊が壊滅したことで、陛下は艦船の新造は不要ではないかと仰ってる。むしろ、膨れ上がる維持費の削減を求められた。商船会社へ不要船の払い下げを検討して頂戴。そうね――今年は約百隻ほど」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 簡単に船の数を減らす事なんてできるものか! 乗員は溢れる者が出るし、北のシルダリア国の監視にも多くの船を出しているんだ。お前は我々の仕事を……」


 ロヤントは虫を追い払うように白い指で空を薙いだ。


「ああもう。嫌になるわね。限られた予算でなんとかするのが、あなたたちの仕事でしょ? だから彼を――ダールベルク中将を六卿の集まりに招待したの。彼は――いや、ダールベルク家はエルシーアの南方、アノリアの防衛を自らの私費で賄っているのよ? 国の援助金は一切なしでね」

「何?」


 トリニティとオーラメンガーが目を見張りながら喘ぐように声を漏らした。


「それは本当なのか?」

「ええ、ロヤント様の仰る通りです」


 ノイエは冷たい仮面のような表情を崩さず、赤紫色のワインが入ったグラスを手に取り唇を湿らせた。


「アノリアはリュニス本国に近く、エルシーア国の防衛において重要拠点の一つです。不可侵条約が結ばれてはいますが、リュニス人は狡猾です。領海侵犯は日常的に行われ、我がアノリアの街も今は西側の半分に、千人を超えるリュニス人が住んでおります。二十年前は西の港の周辺のみに百人ぐらいしかいなかった彼等は、確実にアノリアに侵入しつつあるのです。だからこそ、その領地を陛下から預かった我がダールベルク家は、何が何でもアノリアを守らねばならないのです」


 ノイエは意味ありげにトリニティとエスクィアの顔を眺めた。


「とはいうものの。現状として、リュニス人の増加に伴い、わがダールベルク家の私兵だけで治安を保つのも限界があります。それを再三、前参謀司令官グラヴェール中将や、トリニティ中将、エスクィア中将……あなたがたに、海軍の軍艦を派遣してもらえないか、要望書を送りましたがなしのつぶてです」


 ノイエは息を吐き背中を椅子の背に預けた。トリニティとエスクィアは、それを初めて聞く話のように、白々しい表情で互いの顔を見合わせている。


 ノイエは心中それに腹立たしさを覚えつつ、しかめていた眉間の力を抜いて、隣に腰掛けるロヤントへ視線を向けた。すべてを察しているようにロヤントが微笑む。


「アリスティド統括将もアノリアの防衛に関しては、すっかりダールベルク家を当てにしていたみたい。でも、それじゃあ南方の有事の時どうするの? 領主に防衛を一任していたんじゃ、エルシーア海軍なんて、なくてもいいってことでしょ? だからこそ私は、ダールベルク中将を参謀司令官に推したのよ」

「……アノリアの防衛のためにか?」


 物憂げに頬杖をついて諜報部の長、オーラメンガーがつぶやいた。

 ロヤントはむきだしの腕を胸の前で組んで頷いた。


「北方のシルダリアも気になるけど、ダールベルク中将にアノリアの現状を教えてもらった方がいいみたいよ、オーラメンガー。それに、その方がアリスティド閣下のお顔も立つでしょ? 万一リュニスが不可侵条約を破ってアノリアに侵攻した時、軍艦を一隻も配備してなかったことが、陛下のお耳に入れば大~変」


 ロヤントは立ち上がり仰々しく両手を広げた。


「あなたたちがいかにアリスティド閣下を庇おうが、彼の退陣は決定的よ。そう、私が今日ここにきて言いたかったのはそれだけ」


 ロヤントがノイエに向かってしなやかな手を差し出した。


「じゃ、私はこれで退出させていただきますわ。ダールベルク中将、個人的にお話したい事があるから、私の執務室に来て下さる?」


 ノイエは黙ったまま頷いた。


「ちょっとまてロヤント。予算の話がまだ……!」

「書面でもらってるから、後で検討するわね」


 ロヤントはトリニティの顔を一瞥して踵を返した。

 ノイエは差し出されたロヤントの手を取り、他の四卿が苦虫を噛み潰したように渋面を浮かべているのを背後で感じながら、アリスティド統括将の執務室を後にした。

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