5-13 暴れ馬
「……わかりました。告訴状の内容を本当はこの場で知りたいですが、無理と言われるのならば、確認のために行きます」
「よかった。そうしてくれればありがたい。……君の父君のためにもな」
ノイエはほっとしたように眉間の緊張を緩めた。その黒に近い藍色の瞳は猟犬のように鋭い光を帯びたままだったが。シャインはディアナの前に進み出た。
彼女が自分を心配してくれているのがよくわかる。右手首に付けてくれたブレスレットを左手で押さえながら、シャインの心が痛くなるほど真摯な瞳で見つめている。
「シャイン様、これはきっと何かの間違いですわ。だって……!」
シャインは自分の身を案じてくれるディアナに小さく首を振り、再び謝罪のために頭を垂れた。
「ディアナ様、そしてノイエ様。お二人のお祝いの場を騒がせてしまい、申し訳ありませんでした」
「ディアナ様の友人で君のような高潔な青年が、間違いを起こすとは考えられない。容疑が晴れることを祈るよ」
先程とはうって変わり、ノイエの口調は毒気が抜けて穏やかだった。
「……ありがとうございます」
「では一緒に来てもらおうか」
司法局のラビエルが鋭い瞳を細め、後ろに控えている憲兵に合図する。赤と黒の制服を纏った背の高い憲兵が、黙ったまま腰に手を回してベルトにつり下げている捕縛用の細紐を取り出す。シャインが逃亡しないよう両手を拘束するためだ。
「待って下さい」
ディアナが再び口を開いた。
「ディアナ様?」
ラビエルが怪訝な目でディアナを見つめ顔をしかめる。
ディアナはまっすぐラビエルを見据え訴えた。
「シャイン様は当家の大事なお客様です。わが敷地内でそれを使うことは、どうかやめて下さい」
ノイエがディアナの隣に立ち口添える。
「ラビエル。彼は出頭に応じた。逃げることなどしない。ディアナ様の言う通りに頼む」
「は……」
だがシャインは二人の大柄な憲兵の間に挟まれる状態で歩かされた。手首を紐で拘束されるかわりに、憲兵がしっかりと腕を掴んでいる。
庭園を抜けて優雅な音楽の調べが奏でられている公爵家の広場を人目がつかないように歩いていく。
シャインはもとより、司法局のラビエルも無言だ。寧ろシャインは前を歩くラビエルを暗澹とした目つきで睨み付けていた。
何の容疑で告訴されたのかわからない。
それを教えない。
令状も見せない。
疑いがあるというだけで、しかも、敬愛する高貴な女性の前で犯罪者として扱われた。理不尽としかいいようのない怒りは、沸々とシャインの胸の中に込み上げていく。
あの場にディアナがいなければ、絶対に彼等と同行する気などない。
ひょっとしたら、庭園に誘うあの手紙はノイエの仕業だったのではないだろうか。
流石にそれは考えすぎか。
シャインは顔をしかめた。シャインを挟んで左右両側から腕を掴む憲兵の手が痛い。鉄の万力で締め付けられているようだ。
ラビエルはアリスティド公爵家の通用門を避け、南側の裏門へと歩いていく。門にはアリスティド家を守る緑の式服を纏った衛兵が立っており、ラビエルの姿を見ただけで彼は門を開いた。
公爵の了解を本当に得ていたのか、それともノイエの指示かはわからないが、衛兵はラビエルがシャインを連行してここに来ることを知っている。
小さな門をくぐって外に出ると、石畳の道の傍らに黒塗りの馬車が一台止まっていた。
「さて」
ラビエルが振り返り、おや、という風に片方の眉を吊り上げた。
「なんだその顔は」
シャインは敢えて言い返さなかった。ただラビエルの綺麗に撫で付けた頭を湖畔のような瞳で睨み付けていた。
「反抗的な態度はやめておけ。ただでさえややこしいことになってるからな」
「……ややこしいとは?」
「司法局で話す」
「またそれか」
「うるさい。もう暫くの辛抱だ。おい、カッフェル」
馬車に近付きながらラビエルは、シャインの右腕を掴んでいる茶髪の憲兵に呼びかけた。
「ここは公爵家の敷地じゃない。捕縛縄をかけろ」
シャインは震えそうになる拳を握りしめた。ここは街の人間が行き交う公道だ。赤と黒の服を着た目立つ憲兵に腕を掴まれているので、買い物帰りの籠を持った婦人や通行人が奇特なものを見るような目つきで通り過ぎていく。
「俺は逃げない。それでも縄をかけるというのなら、せめて馬車の中でしてくれないか」
だがラビエルは鼻を鳴らして一蹴した。カッフェルと呼ばれた憲兵はすでに空いた左手に腰のベルトに通している捕縛縄を持っていた。
「アスラトルの法では告訴された時点でお前は容疑者として扱われる。お前が女だったらちょっとは情けをかけてやるかもしれないが……」
シャインの顔を値踏みするように眺めていたラビエルの目が、突如大きく見開かれた。
「なんだ?」
馬車の止まっている通りの先で、何人もの通行人が悲鳴を上げて騒いでいる。わらわらと何かに追われるように走ってくる。
「暴れ馬だ!」
「こっちへ来るぞ!」
「市場に出す馬を運ぶ途中で荷台が壊れて、十頭が逃げ出したらしい」
「いや、どっかの酔っ払いがふざけて、花火の火薬で荷台を吹き飛ばしたらしい」
シャインは見た。
逃げる人々の間から、興奮して蹄の音も軽やかに、石畳の道を駆ける黒や白毛の見事な馬の姿を。同時にシャインを司法局に連行するラビエルの馬車の馬たちもいななきを始めた。御者は必死で馬をなだめようとするが、前方から逃げてくる多くの人々の声で余計興奮してしまったのだろう。
「危ない!」
馬は突如後ろ二本足だけで立ち上がって激しくいなないた。
不意に動き出した馬車が傾き、御者が荷台から振り落とされる。
馬車をひきずって馬は勝手に走り出した。ラビエルとシャインがいるこちらに向かって。
「避けろ!」
ラビエルは反対側の路地に駆け込んだ。憲兵のカッフェルがシャインから離れ、馬を自分の体で止めてみせようと身構える。
「無茶だ、やめろ!」
シャインは左腕を掴むもうひとりの憲兵と共に、カッフェルに向かって呼びかけた。
「馬鹿野郎、逃げるぞ、シャイン」
シャインは耳元で突然自分の名前を呼ばれた。
「えっ……」
声の方向に首を向けると、そこにはいつの間にか髪を黒く染め、うしろで一つに束ねたヴィズルがいた。服も労働者を装うように、綿のシャツとズボンに薄汚れた青い布を首に巻いている。シャインの腕を掴んでいた憲兵は足元に倒れていた。おそらく背後からヴィズルに首筋を強く殴られたのだろう。
「逃げるって……」
「決まってるだろ! そのために馬を逃がしたんだから」
シャインの手首を掴んでヴィズルが駆け出す。
「待て! グラヴェール、貴様逃げないと言っただろう!」
興奮した馬はカッフェルの逞しい腕に首筋を掴まれていた。ラビエルが潜んでいる路地から出ようとするが、荷台から逃げ出した他の馬たちが走り回っているので出られない。
シャインとヴィズルは石畳の道を北に向かって走り、やがて西に向かう路地に駆け込んだ。目の前には引き潮のせいで干潟となったエルドロイン河岸が見える。
<西区>でも港から離れたこの場所は、人夫や土方など、日雇いの仕事でほそぼそと生計を立てている、貧しい暮らしを営む人々が暮らしている。生乾きの洗濯物のような独特の生活臭がシャインの鼻をついた。路地の壁に背中を預け、シャインは暫し息を弾ませ喘いだ。
「ヴィズル、どうして君は……」
シャインと同じように息を弾ませてヴィズルはにやりと笑んだ。
「ちょっと小耳に挟んだのさ。お前を憲兵どもが探してるって」
シャインは息を整えながら、信じられないという目つきでヴィズルを見た。
「どうして、俺なんだ?」
「知るかよ。俺はたまたまそんな話をきいただけだ」
「でも君は俺があそこにいるって何故わかったんだ?」
ヴィズルは肩をすくめてシャインに言った。
「悪いな。明日給金をもらいに行くって言ったけど、できたら今日もらえないかと思ってお前の家に行った。そうしたら……お前の(ヴィズルは突如声を潜めてつぶやいた。叔母さんって本当か?)リオーネさんていう、風の術者の美人。彼女が教えてくれたのさ。お前が公爵令嬢の婚約パーティーに招かれていったことと、司法局がお前をしょっぴくために屋敷に来たってことをな」
「……」
シャインは唇を噛みしめヴィズルの夜色の瞳を見つめた。
「それでわざわざ、俺を助けに?」
ヴィズルは勘違いするな、といわんばかりに上げた右手の人差し指を振った。
「何をやったのか知らねぇがな、シャイン。捕まるならまず俺の給料を払ってからにしてくれ」
シャインは不意に呆然となった。気が抜けたというか。
ヴィズルは元海賊だが、ここまで金銭にがめついとは思ってもみなかった。
ほんの少しだけ、彼に友情を感じていた自分が馬鹿に思える。
「シャイン、どうした。阿呆みたいに目ぇ見開いて? 俺が馬どもを通りに放して大騒ぎを起こしてさ、折角お前を助けてやったのに。その態度はあんまりじゃねぇか」
さらりと自分の悪行を話すヴィズルの態度にはいっそ清々しいものを感じる。一般市民のシャインには、到底彼のような真似はできないが。
「……わかったよ」
シャインは疲れた笑みを浮かべつつ、右手の白手袋を口にくわえて外した。
その指にはめられている身慣れない指輪にヴィズルの目が輝いた。
「そいつはお前が掘り当てた『宵の明星』だな」
シャインは頷きつつ指輪を薬指から引き抜いた。
「悪いが時間がなくて現金が手元にない。でもこれは金属加工職人『マリエッタ・フェイシェル』が作ってくれた指輪だ。きっと高額で売れるから、給金代わりに受け取ってくれ」
「何?」
へらへらと機嫌よく笑っていたヴィズルの顔が見る間に険しくなった。
「君の希望にあった給金を渡すことができなくて申し訳ないが……」
「そんなのじゃねぇよ!」
ヴィズルは吐き捨てるように言った。
むっとしつつシャインは言った。
「じゃあ何が気に入らないんだ」
「何もかもだ」
ヴィズルがシャインに背中を向けて歩き出す。
「ヴィズル! ちょっと待て。君は給金を受け取りに来たんだろ?」
元は銀色の染められた黒髪が不機嫌そうにヴィズルの背中で揺れる。
「そいつは受け取れない。それはお前のために、作られたものじゃないのか?」
「えっ……」
マリエッタとのやり取りをヴィズルが知っているはずはないが、恐らく特注の品ということで、一点ものの指輪であることを察したのだろう。
ヴィズルは大きくため息つをついた。
そして諦めたように険しかった眉間を緩め、シャインに片手を振った。
「わかったよ。金がないんじゃ仕方ねぇ。じゃ、もう少し待ってやることにする。ああそう、お前、気をつけて帰れよ。街のあっちこっちに憲兵が立ってるし……」
ヴィズルは急に振り返ると低い声で警告した。
「ラビエルって言ったか、あの男。奴は司法局の人間じゃねぇぞ。絶対に関わるな」
「ヴィズル!」
ヴィズルは折り重なる建物の影の闇に姿をくらませて、あっと言う間にシャインの目の前から消えてしまった。
「……」
シャインは大きな疲労感を覚えた。
ただでさえややこしくなった事態に、混乱した頭の中を整理したいと思った。




