5-9 招待状
マリエッタの店から再びグラヴェール屋敷に戻り、シャインは服装を改めてアドビスと共に二頭立ての自家用馬車に乗り込んだ。
御者を勤めるのは執事エイブリーの三十才になる息子で、黒の外套と揃いの帽子を被り、白の飾り襟をつけている。普段はアスラトルで別の仕事をしているが、アドビスが自家用馬車を使う時はエイブリーに呼び出されて御者を勤める。
アドビスは深い金色の髪を獅子の鬣のように後方になでつけ、その長身がより際立って見える黒の礼装に黒のマントと、金の鷹のモチーフで飾られた杖を携えている。
シャインもアドビスと同じように裾の長い黒の上着を纏い、透かし模様の入った薄紫色の飾り襟をつけ、白手袋をはめている。髪はいつものように編んだ方が邪魔にならないのでそうした。
今日アドビスと共に盛装して出掛ける先は、アスラトル領主のアリスティド公爵邸だった。
「招待状は?」
「ここに」
シャインは上着の懐中から濃赤のろうけつ紙に金で縁取られた二通の封筒を取り出した。
アリスティド公爵の三番目の息女であるディアナ公爵令嬢の婚約が決まり、そのお披露目で催される祝宴会の招待状だった。
通常なら貴族ではないグラヴェール家に、このような招待状が届く事は滅多にない。
だがアリスティド公爵には弟がいて、彼はエルシーア海軍を統べる最高位の『統括将』だ。アドビスは現在『統括将』から直接命令を受ける『補佐役』に就任している。元よりアリスティド家との親交はアドビスの祖父の代からあり、(勿論これも海軍での縁になるが)両家は知らぬ仲ではない。
そして招待状は二通送られてきた。
グラヴェール家当主のアドビスと、息子のシャイン宛に。
シャインはアリスティド公爵令嬢ディアナと面識がある。アスラトルは造船の街であり、毎年『船霊祭』という行事がある。元々は海難や海戦で沈んだ船や、使命を終えて廃船になった船の魂を鎮める儀式であるが、停泊中の船舶や民家の軒先で色とりどりの明かりを灯す夜景の美しさが名物となり、違う意味での『祭り』として多くの観光客がやってくるようになった。
その噂は遥か北方、王都ミレンディルアにも届き、国王の一人娘ミュリン王女が視察旅行でアスラトルを訪れた。その時の案内人をシャインが、王女の世話役をディアナが務めた。シャインとディアナは二年前のこの『船霊祭』が縁で、以前より交流する機会が増えた。
シャインは招待状の赤い封筒を再び懐にしまいながら、この祝宴会に行く事が良い事なのか迷っていた。すでにアリスティド公爵邸へ馬車は向かっているというのに。
アドビス宛の招待状はアリスティド公爵名だったが、シャインのものにはディアナのサインがその下に入っていた。ディアナ自身からの確かな招待状である。友人として彼女の慶事を祝う場に招かれたのだから、ここはやはり行くべきだとわかってはいるが。
正直、気は重い。
せめてもの救いは、この祝宴会がディアナの婚約を祝うために開かれる会だということ。
シャインは去年、海軍本部主催の『船霊祭』のパーティーで再会した、ディアナとのやりとりを思い出していた。
彼女の気持ちに応える事ができず、その心を傷つけてしまった。あの夜から今日までディアナとは一度も会っていないし、手紙のやりとりもない。強いて言えば、一月前に今日の祝賀会の招待状がグラヴェール屋敷に届いただけである。
「どうした。さっきから妙に思い詰めた顔をして」
シャインは物思いから我に返った。対面に座るアドビスが怪訝な顔をしてシャインを見ている。
シャインは咄嗟に強ばった笑みを唇に浮かべた。
「いえ……自由気ままに海上で過ごしていましたから、改まった場に出るのが久しぶりで、少し緊張しているだけです」
アドビスは大きく顔の表情を崩す事なく、「そうか」と一言つぶやいた。
やはりアドビスは変わった。
いや、シャインに対して冷たく装う事をやめたというべきか。少なくとも以前のような、突き放すような距離感は感じない。
アドビスとの会話は決して長く続くわけではないが、それはシャインも話す事があまり得意ではないからだ。しかしアドビスに話しかけられたことで、シャインはふと声を漏らした。
「リオーネさんからききました。アリスティド統括将の補佐役に就任されたそうですね。おめでとうございます」
アドビスははにかんだように顔をうつむかせ息を吐いた。
「……私が海軍に戻る事がめでたいかどうかはさておき、統括将閣下は様々な雑事で忙殺されておられる」
「では、それらの処理を父上が?」
アドビスは金鷹の像がついた杖を脇に挟んだまま腕を組んだ。
「そういうことになるな。ツヴァイスの起こした事件のこともあり、海軍省の人間もかなり入れ替わった。それに、実質解体した『ノーブルブルー』の再編もできていない。それで思い出した。シャイン、ディアナ公爵令嬢の婚約者のことをお前に話しておこう。あくまでも私の知っている範囲でしか話せないが、何も知らないのも祝賀会の席で困るだろうから言っておく」
「ありがとうございます」
予想もしないアドビスの気遣いに半分戸惑い、半分嬉しく思いながら、シャインは招待状の挨拶の所にあった名前を思い出した。
「ノイエ・ダールベルク=アノリア、という方ですね。アノリア領主のご子息とお見受けしますが」
「そうだ。アスラトルより遥か南方。エルシーア最南端の街。リュニス群島国に程近い、アノリアの地を治めるダールベルク伯爵家の嫡男だ。年は三十二才。ディアナ公爵令嬢が二十一才だから、少し年が離れた相手だ。だが彼は二十八才でエルシーア海軍南方地方司令官を務め、去年、私が休職したことで空席になった、本部の参謀司令官に就任した人物だ」
かつてアドビスがそうであったように参謀司令官は、実質海軍のナンバー2の位置にある。アリスティド統括将が指揮を執れなくなった時、代将としてエルシーア海軍を動かす立場になる。
「……それは、すごい方ですね」
アドビスは鋭い青灰色の瞳を伏せて、思案するように口元に手を添えた。
「私は自分の後継に別の人物を推していたのだが却下された。決してダールベルク伯の息子が参謀司令官に相応しくないという意味ではないが、現在の海軍省は……信用がならない所がある」
シャインは内心驚きながら、険しい表情に変わったアドビスのそれを見つめた。
「いち士官の俺が聞く事ではありませんが、事態は深刻なのでしょうか? リオーネさんから聞きましたが、だからあなたが……いえ、父上が統括将付きの『補佐役』に就任された事を、海軍省の誰もが知らなかったと……」
「こんな話をした私が悪いが、立場的にお前に海軍省の内情は言えぬ。だが今回の人事は統括将閣下自らの打診によるものだ。辞令もある」
「そうですか……」
アドビスは話しにくそうに口が重くなった。
シャインも現場を離れ休職中の身であるから、それ以上の詮索はしなかった。
がたごとと馬車の轍のみが響く沈黙が暫く続き、やがて車窓には黒金の柵で囲まれた、広大な緑の庭園が見えてきた。その庭園を見下ろすように、小高い丘の上に『白城の館』と揶揄される、アリスティド公爵邸が建っていた。




