【第5話・序章】 青の女王(2)
◇◇◇
視界がぐらぐら揺れて定まらない。
頬は異様な熱を持っており、さっきから気持ち悪くて仕方ない。
せめて揺れさえおさまってくれれば。
シャインはゆっくりと目を開けた。
途端強烈な吐き気がせり上がってきた。なんとか体を起こし船縁から顔を出して吐く。
何度吐いたかわからない。ただそれだけで体力が消耗していくのがわかる。
「シャイン、大丈夫かい?」
小さなローレルの声に、シャインは隣に彼が横たわっている事に気付いた。
「……頭が、痛い。気持ち悪いし……くそっ、キーファの奴」
シャインはぐったりとローレルの隣に横になった。
背中合わせのままで、ローレルが話しかけてくる。
「ごめん。ぼくのせいで」
「気にするな。だけど、お互い酷い目にあったな」
シャインは胸のむかつきを飲み込みながら目を閉じた。
ここがアルスター号の甲板でない事はよくわかる。
未だ不明瞭な頭でシャインは感じていた。どうやら自分達は小さなボートに乗せられているらしいことを。
「ローレル、君の体の具合は?」
「最悪。でも、少しだけ休ませてくれたら、多分、大丈夫……」
シャインは腕に力を込めて体勢を仰向けに変えた。船縁から波飛沫が舞い上がり、それが士官候補生の青い軍服を濡らしていく。
「俺達、アルスター号の雑用艇に乗せられて、海に流されたみたいだよ」
「えっ!」
ローレルが動揺の叫び声を上げた。
キーファ達に蹴られた傷が傷むのか、それはくぐもったうめき声に変わった。
シャインは船縁にすがりながら上半身を起こした。
周囲はすっかり夜の帳が降りて暗かった。
ひょっとしたら、曳航ロープでアルスター号と繋がっていないだろうか。僅かな期待を持ってシャインは船首を見つめたが、そのようなものは見えない。勿論アルスター号の船影も見えない。
シャインは目眩を感じて再び小舟の船底に体を横たえた。
海上は冷たい風が海面を薙ぐように吹いている。
カタカタ。
カタカタ。
キーファに無理矢理酒を飲まされたせいで、シャインはあまり寒さを感じなかったが、背中合わせで横になっているローレルが、歯を鳴らしている音が聞こえた。
シャインは軍服の上着を脱いで、ローレルの肩に被せてやった。相変わらず胸のむかつきは治まらないが、ローレルは自分と違って怪我をしている。
酷い傷がなければいいが。シャインは普段快活なローレルが、体を起こせない程弱っている事が気になっていた。
「大丈夫だよ、ローレル。進む方向がわからなくなったら星を探せ、って教わっただろう?」
シャインはローレルを安心させるように肩を軽く叩き、方角を定めようと空を見上げた。
「……」
空には今にも雨粒が落ちてきそうな暗雲がたれ込めていた。
シャインは口をつぐんだ。
「どうだい? シャイン。星は見えたかい?」
「駄目だ――見えない。嫌な事に嵐が来そうだ」
「えっ!」
ローレルは息を飲み、やがて小さくすすり泣きだした。
「ローレル、いつもの君らしくない。こんなことで泣くなよ」
本当は自分も不安で一杯なのだ。
シャインは挫けそうになる気力を奮い立たせ、ローレルに話しかけた。
「大丈夫だ。こうして船底にへばりついて嵐をやりすごせばいい」
ローレルに話し掛けながら、シャインはこの小さなボートに帆走用の帆が積まれている事を思い出した。
アルスター号はあと四日でエルシーア大陸が見える所まできていた。
せめて星が見えたら。
自分の進む方角がわかったら、そっちに向かって小舟を走らせる。
そうすれば何処か陸地に着くはずだ。
それよりまずは、これから来る嵐に備えないと。
「シャイン、何をしているんだい?」
シャインは船尾の方に這うように移動して、格納されていた帆を探り当てた。吹き飛ばされないように、帆の上げ綱を小舟の舵に縛り付ける。
帆を開きながら布団のようにローレルと自分の体を包む。これで少しは雨風から体温を奪われる事を防げるだろう。
そうこうしているうちに空から雨粒が舞い落ちてきた。波もうねりを増し、シャインはローレルと同じように船底に体を横たえた。
布団代わりに被せた帆が吹き飛ばされないように、シャインはそのごわごわした布を両手でしっかりと握りしめた。
どうしてこんな目に。
そう思ったのは随分後になってからだった。
無理矢理酒を飲まされて酔っていたシャインは、頭が割れるような頭痛に襲われ、これからどうなるかなどと考える余裕はなかったのである。
波は高さを増し、シャインとローレルの乗った小舟は木の葉のようにもみくちゃにされた。
だから急に体が軽くなって、浮遊感を感じた時、我に返った。
同時に数多の海水がシャインの体を飲み込んだ。
小舟から振り落とされたのだ。
いや、高波に飲まれたか、小舟自体が転覆したのかもしれない。
そのことに気付いた時、シャインは耳元で小さな声を聞いた。
『ありがとう、シャイン』
「ローレル!?」
シャインは辺りを見渡した。
夜の海は黒く暗く何も見えない。
だがシャインは下に向かって必死に手を伸ばした。
何かが触れる。強ばった、冷たい誰かの手。
「ローレル、駄目だ!」
生きることを諦めたら駄目だ。
シャインは海底に沈むローレルの体を持ち上げようと、懸命に彼の手を握りしめた。
『君は生きるんだ、シャイン』
何かにひっぱられるように、ローレルの手がシャインの掌から擦り抜けていく。
ローレル……!
シャインの指先からローレルの手が離れていった。
千切れた鎖のように。
――俺は。
暗い海に取り残されたシャインは、息苦しさよりも強烈な睡魔を感じた。
泳ぐ力が急激に失われていく。
辺りは依然真っ暗で、シャインはぼんやりと自分も海底に沈むことを思った。
ちかちかと目の端で青白い光が瞬いている。
何の光でどこから射してくるのかもよくわからない。
けれどその光を見ていると、死への恐怖も不安も、友人を失った哀しみさえもが薄れていく。
「――あらあら。私とした事が。この子、まだ生きてるじゃない」
夢を見ていて丁度それが醒める時のような。
心地よいけだるさに包まれたまま、シャインはそっと目を開けた。
青白い光に照らされながら、誰かがシャインの顔を覗き込んでいる。
紺碧の長い髪が海草のように揺れた。その影から見知らぬ女性が微笑んでいるのが見えた。
「……あなたは、誰……?」
彼女の青白い手に支えられながら、シャインは体を起こした。
確か海中に沈んだはずなのに、ここには水がない。息苦しさも感じない。
貝殻がいくつもへばりついた白っぽい洞窟のようで、周囲は穏やかな青白い光に包まれている。よくよくみると、その光はシャインの前に立つ、紺碧の髪を足元まで長く伸ばした女性から発せられているようだ。
「あなたは、ひょっとして、青の――」
最後までその名を言わず、シャインは右手で口を押さえた。
きっと自分は夢をみているのだ。
でもあの状況で助かるはずはないから、死者も夢を見るということになる。
「あなたはまだ死んでいないわ。そうね――」
女性は深い海の色の瞳を細め、シャインの右手にはめられた水色の光を放つ指輪を一瞥した。
真珠で飾られた紺碧の髪を僅かに震わせ、女性はそっとシャインの頬に手を添えた。
「今回は見逃してあげる。あなたのお友達に免じて。でも覚えていて。――を持つ者よ。約束はまだ果されてはおらぬ」
シャインは吸い込まれそうに深い女性の瞳から視線を外せずにいた。
否、女性の瞳がシャインを捕らえていた。
「あなたが海で死ぬ時は、私が必ず迎えに行く――」
『覚えていて。私の名はストレーシア。……を持つ者よ』




