1-20 二つの理由
艦長室の扉を鋭くノックする音が聞こえた。
「戻りました。ジャーヴィスです」
シャインは予想より早い帰還だなと思った。
「入ってくれ」
「失礼いたします」
ジャーヴィスは外出用の黒いコートを脱ぎ、青い航海服姿だった。
飲酒のせいか、その顔はうっすらと赤く上気している。
「おかえり。首尾はどうだった?」
ジャーヴィスが話すのを待ってもよかったが、声をかけずにはいられなかった。
ジャーヴィスは少し興奮しているのか、切れ長の青い瞳を普段より大きく見開いてシャインの顔を見ている。
「水兵達の説得は成功しました。皆、21時までには船に戻ってくるはずです」
シャインは安堵の息を吐いた。
水兵に逃げられて出港中止という非常事態は何とか免れたようだ。
「ありがとう。君にはなんとお礼を言ったらいいか」
「いえ、それよりも艦長。お話があるのですが……」
「話?」
「はい」
ジャーヴィスほどの者がわざわざこう切り出してくるのだから、それは大切な話だろう。
シャインはジャーヴィスに椅子をすすめ、自分も応接用の長椅子に腰を下ろした。
椅子にかけるなり、ジャーヴィスが思いつめた様子で口を開いた。
「この船には『船の精霊』がいるんですか?」
「えっ」
「誤魔化さないで下さい。彼女はあなたを知っている」
「誤魔化すもなにも……」
驚いたのはシャインの方だ。
彼女――レイディのことは自分しか知らないはず。
「何故君が『彼女』の事を知っているんだ?」
「会ったのです。先程、メインマストの前で」
「会った?」
ジャーヴィスは身を乗り出し深く頷いた。
「そうです。赤い髪の十七、八才ぐらいの少女の姿をしていました。彼女からは人非ざる気配を感じました。そして彼女は、私に頼み事をするため姿を現したと言いました」
「――それで?」
シャインは気が乗らなかった。ジャーヴィスの目の前に彼女が本当に姿を現したことを認識したから。
ジャーヴィスは腑に落ちない様子で呟いた。
「船尾の鐘楼に吊るしている『船鐘』を外して、海に捨ててほしいと言われました」
「駄目だ」
シャインは即座に叫んでいた。
まさかジャーヴィスにもそんなことを言うとは。
ショックだ。シャインは右手を額に当てて俯いた。
「しかし、彼女の話によれば、あれが本船にあると処女航海に支障が……」
「支障が出ると決まったわけじゃない!」
シャインは顔を上げてジャーヴィスを見据えた。
内心はレイディに対して怒りすら感じていた。
何故、信じてくれない。
船に宿る精霊ならば――『船の魂』であるならば、普通は処女航海を喜び、共に海へ行くことを望むだろうに。
「艦長。あなたは私達乗組員が知らない、本船の事情をご存じのようですね」
ジャーヴィスの冷ややかな声がシャインの耳朶を打った。
少しだけ高ぶってきた気持ちがすっと引いていく。
シャインは頬をなぞるように両手で前髪をかき上げ嘆息した。
「いいや。俺もよくわからない。でも二つの理由があって、本船から『船鐘』を外すことができない」
「二つの理由ですか?」
「ああ。一つ目の理由は、あの『船鐘』はロワールハイネス号の建造を発注した海軍本部が、本船につけるように命じたからだ」
「なんですって?」
「そして二つ目の理由だが……」
シャインは長椅子に背中を預けて腕を組んだ。
「半年前。アスラトル港外で沈んだ『アイル号』のことは……知っているかい?」
ジャーヴィスは黙ったまま頷いた。
「海賊に襲撃されたそうですね。理由は存じませんが」
「……」
シャインはしばし口籠った。
船鐘の出所から話すのは気が引けたからだ。
それにシャインにもよくわからないことの方が多い。
「詳しい話をすると長くなるから、要点だけ説明する。ロワールハイネス号の船鐘は、実は、そのアイル号の艦長だったヴァイセ中佐がどこからか持ち出してきたものだったんだ」
「船鐘を持ち出した?」
「ああ。理由は知らない――」
シャインは目を伏せ脳裏にヴァイセとのやりとりを思い返した。
◇
『もう勘付かれるとはな。小癪なエルシーアの金鷹め。折角お前をこの船に乗せたのに、保険にすらならなかった』
『それはどういう意味でしょうか』
ヴァイセはいらいらした口調でつぶやいた。
『どうもこうもないわ。彼奴は噂通り、冷酷な男だったということだ。息子が乗る船だというのに、アレを取り戻すため追っ手を差し向けたのだからな』
『追手?』
◇
あの時はすぐに理解できなかったが、ヴァイセが言っていた人物はシャインの父、アドビス・グラヴェールのことだろう。
ということは、ヴァイセはアドビスの管理下にあった『船鐘』をなんらかの理由で国外に持ち出そうとしていた。
それをアドビスに気付かれ、彼の命を受けた者達がアイル号を襲撃したということになる。
アドビスは『船鐘』を取り戻し、どういうわけか、シャインが乗船を希望したロワールハイネス号へ付けるように命じた。
これには何か理由があるのだろうか?
「グラヴェール艦長?」
ジャーヴィスに呼びかけられシャインは我に返った。
「ああ、すまない。どこまで話をしたかな?」
少しむっとした顔でジャーヴィスがつぶやいた。
「『船鐘』はアイル号のヴァイセ艦長がどこからか持ち出したという所です」
「そうだった。それで、船鐘には彼女――『船の精霊』が宿っていたんだ。アイル号が襲撃された際に負傷した俺を助けてくれたのが『彼女』――レイディだった」
「……まさか」
「まさか?」
シャインは肩をすくめた。
「君だって自分の目で彼女を見たんだろう? 今更俺が幻を見たなんて言わないでくれ」
「幻とは思ってはいませんが、あまりにも非現実的なので……」
ジャーヴィスの戸惑いは理解できる。
船の精霊はあくまでも船乗り達が語る『怪談』のようなものだ。
「兎に角、『彼女』は俺の命の恩人だ。アイル号を動かして、俺をアスラトルまで連れて帰ってくれた。彼女が助けてくれなかったら俺はここにいない。その俺が、どうして彼女が宿る『船鐘』を海に捨てることができる? 彼女の命を奪うことなんかできない」
ジャーヴィスの切れ長の瞳が、困惑の光を宿しながらそっと伏せられた。
「なるほど。これはまた、水兵達に話せない事情が増えてしまいましたね。彼らが知ったら再び本船から脱走しそうです」
「ジャーヴィス副長」
ジャーヴィスが目を開いた。
「海軍本部の命令には背きたくありませんが、私個人としては、もしも本船が処女航海で制御できないトラブルに見舞われ、乗組員の命が危険に晒されたら、『船鐘』を海に捨てることは必要だと考えます」
「ちょっと待ってくれ、ジャーヴィス副長。どうして君も処女航海でトラブルが起きるかもしれないと思うんだ」
「グラヴェール艦長、本船に破壊工作をした人間が誰か。それがまだわかっていないのですよ?」
「それは……そうだが……」
「これは私個人の推測ですが――ロワールハイネス号の船の精霊の力を確認するため、誰かが意図的に破壊工作をしたということは考えられないでしょうか?」
「精霊の力を確認する? まさか――」
ジャーヴィスの言う意味が何となくシャインには理解できた。
「船の精霊は自らの意思で船を動かす事ができる。その力を制御できれば――船は風を必要としなくなる」
シャインは自分で言った言葉の意味に体が震えるのを感じた。
「そう――そうだ。俺はアイル号を動かした。彼女――レイディを通じて。行きたい方角を意識するだけで、アイル号は動いた。帆桁を回すことなく、風の吹いている方角も無視して、最短でアスラトルに行ける方角へ船を動かした」
「本当ですか?」
ジャーヴィスも初めはただの思いつきが、実は真実だったことに驚愕を隠しきれないようだ。
「ああ。肩の負傷で意識も朦朧としていたから、アスラトルへの最短航路しか方角を指示できなかったけど……でも、それが真実なら……」
シャインはジャーヴィスを見据えた。
「俺なら、彼女の意思を感じ取れる。ロワールハイネス号だって、アイル号の時のように動かす事ができるはずだ」
「しかし艦長。それができるなら、船の精霊がわざわざ姿を現して、『船鐘』を海に捨ててと言うでしょうか?」
確かにジャーヴィスの言う通りだ。
船の精霊――レイディの懸念は彼女自身の口から聞いたから、シャインだってよくわかっている。
あの船鐘にはもう一つの意思――シャインとのつながりを拒否する存在が封じられている。
本当に恐ろしいのは、そちらの『彼女』が優位に立った時だ。
だからレイディは船鐘を海に捨てて欲しいと言ったのだろう。
「君の言う事は正しい。俺はたまたま、アイル号を動かせただけなのかもしれない。けれどジャーヴィス副長、俺にチャンスをくれないか」
シャインは限りなく穏やかな瞳でジャーヴィスを見つめた。
「俺のエゴで乗組員の命を危険に晒すわけにはいかないのはわかっている。だから、これだけは約束する」
私情に流されてはならない。
自らの失敗のせいで船はともかく乗組員まで死なせてしまう事態になるのなら。
何を選ばなくてはならないかは明白だ。
「処女航海で本船が制御できない事態が起きてしまったら、俺が『船鐘』を海に捨てる」
「グラヴェール艦長」
シャインは両手を組んで右手の薬指に帯びた金色の指輪を眺めた。
命名式の時、彼女を守ると誓った。その証がランプの光を受けて鋭く煌めく。
「だがそれは本当に最後の手段だ。俺はそれを回避するためなら何だってやるし、諦めない。だから」
シャインは椅子から立ち上がった。
ジャーヴィスも遅れてそそくさと立ち上がる。
「今夜から当直を立てて船内を見回ることにする。ロワールハイネス号にこれ以上破壊工作をされるわけにはいかないからね。それからまずは、戻ってきてくれた水兵達に礼を言わなくてはならないかな」
シャインの耳は頭上の甲板から複数の人数が歩く足音を捉えていた。
「全員戻っているか確認してきます」
ジャーヴィスの言葉にシャインは微笑を浮かべながら頷いた。




