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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第1話 レイディ・ロワール
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1-1 白昼夢

挿絵(By みてみん)




【エルシーア海・北東部海域にて】


「何か変わったことはなかったか? グラヴェール海尉?」


 背後から浴びせられた声にシャインは物思いから我に返った。風に煽られ目にかかる前髪を押さえながら振り返る。そこにはこのアイル号の副長・ヘルム一等海尉(かいい)が、不機嫌そうに唇を歪めて立っていた。背後に近づいた副長の気配を感じ取れないほど、自分は物思いに耽っていたのか。

シャインは慌てて右手を上げ、拳を額につけた。


「い……いいえ。今の所異常ありません」

「そうか。ならいい。しかし」


 ヘルムは伏し目がちなそれを更に細め、咎めるように呟いた。


「何かに憑かれたように夕日を見ていたぞ。母港アスラトルを発って三日。まさかもう国が恋しくなったなんて言ってくれるな? 我々はエルシーア国王の命を受けて、隣国シルダリアの偵察任務についたのだからな」


「はい。それは大丈夫です」


 シャインは頭一つ分背の高いヘルムを見上げた。一等海尉(副長)は三十歳。それに比べて自分は先月二十歳になったばかりで、このアイル号が海尉として初めて乗る船だ。

副長から見れば、シャインはまだまだ年若い士官候補生と同じにしか見えないのだろう。

口に広がる苦い思いを噛み潰すと、耳に時を知らせる船鐘(シップベル)の音が聞こえた。


 カカーン……カカーン……。

 カカーン……カカーン……。


 シャインと同じく甲板で昼当直についていた、士官候補生のサリムが鳴らしたものだ。船上で時を告げるこの鐘は、三十分ごとに一回ずつ打ち鳴らし、その回数を一つずつ増やしていく。そして八回まで鳴らしたら、また最初の一回に戻るのだ。


「八点鐘(一六時)になりました。ヘルム副長、それでは当直を交代してもよいでしょうか」


「わかった。あとは任せろ」


 ヘルムは頷き、舵輪のある船尾甲板の方へ歩いて行った。

 その後ろ姿を見送って、シャインは小さくため息をついた。

 別に偵察任務のことを憂いて物思いに耽っていたわけじゃない。確かに一度任務に向かえば、最低一年はエルシーアへ帰ってこれないが。


 それは構わない。いや今は、それを望んでいる。

 (しがらみ)の多い(おか)よりも、海上を()く方が何倍も気楽だ。

 シャインは夕日のせいで黒い槍にも見える船首の斜檣(バウスプリット)を再び見つめた。


 確かに、あそこにたたずんでいたんだ。

 黄昏色の長い髪を海風に靡かせた不思議な少女。その姿は淡く光っていて、俺に気付くとはにかんだように微笑した。白昼夢にしてはあまりにもはっきりしすぎていた。

 けれど日没を迎える今、それは夢だったのかもしれない。


「船の精霊(レイディ)……いやまさか」


 シャインは自嘲気味に唇を歪め、脳裏を過ったその存在を思い浮かべた。

 エルシーアの船乗りの間にはこんな伝承がある。

 船には人の強い『想い』で精霊が宿るのだそうだ。


 船の精霊(レイディ)と呼ばれるその存在は、乗組員と航海の安全を守る神とも言われ、多くの船乗りから信仰を集めている。けれど彼女の存在は、言い伝えの中だけだ。実際にその姿をこの目で見たと言えば、頭がおかしいだとか、夢を見ていたのではと思われるだろう。


 でも――。確かに『彼女』はそこにいたんだ。

 舳先の前で一人佇み、夕焼けのように鮮やかな真紅の髪を靡かせ振り返った。まるで誰かを待っていたかのように。まるで、俺が来るのを知っていたかのように――。


 シャインは名残惜しげに視線を船首からひきはがし、メインマストの後ろにある昇降口から船内に入ろうとした。


「船が見えるぞ!」


メインマストの檣楼(トップ)で見張りについていた水兵が叫んだ。シャインは見張りの声に誘われるように左舷舷側に駆け寄り、夕焼けに帆を赤く染める三本マストの船影を見た。ここはまだエルシーアの領海だ。帆装も見たところありふれた横帆船(ブリッグ)だが、シャインは何故か胸騒ぎを覚えた。後方から近づいてくる横帆船(ブリッグ)はこちらに向かってくるようだ。いや、アイル号に追いつこうとしていた。遠雷の響きと共にかの船から白い煙がぱっと上がるのが見えた。同時にアイル号の後方に伸びる白い航跡を穿って水柱が上がった。


「砲撃!」


 シャインは咄嗟に(きびす)を返し、ヘルム副長がいる船尾甲板へと駆けた。副長は真鍮の望遠鏡を伸ばし徐々に迫る謎の船の様子をうかがっている。再び乾いた破裂音が木霊した。

 アイル号の舵を狙ったのか、船尾のすぐそばで水柱が上がり、シャインの頭上に海水が降り注ぐ。


「どこの国籍の船ですか!?」


 シャインと同じように水しぶきを頭から被ったヘルムがぴしゃりと望遠鏡を畳んで振り返った。


「わからない。型はエルシーアの船のようだが、国旗も軍旗も揚げていない。海賊かもしれん」

「海賊? エルシーア海軍の我々を海賊が襲撃ですか?」


「商船に偽装したシルダリア船かもしれんぞ。奴らの偵察船がいてもおかしくはない。グラヴェール、お前は艦長にこのことを知らせてくるんだ!」


「はい」


 シャインは短く返事をして船尾甲板を離れた。


「総員戦闘配置につけ!」


 掌帆長(しょうはんちょう)の銀の呼び笛が甲高く周囲に響く。甲板へ上がる非番の水兵たちの間をすり抜けながら、シャインはメインマスト前の昇降口から下甲板へ続く梯子を降りた。そのまま船尾方向へ走る。アイル号は二本マストの小型船のため、第二甲板の両舷5門、合計10門の大砲しか備えていない。それに比べて背後から迫ってきた正体不明の武装船は、大きさから察するに倍の数の大砲を備えていると思われる。


 艦長室にたどりつき、扉をノックしようとした時、シャインの右手は拳を作ったまま空を泳いだ。扉が不意に開いたのだ。


 シャインは前のめりになった体勢をやっとの思いで立て直した。一瞬、息を飲む。そこには大きく目を見開き、血の気のない顔をした四十代の男が、右手に単発銃を握りしめて立っていた。アイル号の艦長ヴァイセである。かちりと撃鉄を起こす音がして、ヴァイセがシャインに銃口を向けた。


「か、艦長?」


 ヴァイセの水色の瞳は怯えたように血走っていた。

 頭上から再び破裂音が聞こえた。アイル号全体が揺れ、艦長室の窓ガラスがびりびりと小刻みに振動する。そして何か重たいものが甲板に落ちた。水兵達の悲鳴じみた叫び声が響き渡る。


「どこかの帆桁(ヤード)が砲撃で落とされたぞ。これで追いつかれる。奴らが船に乗り込んでくるぞ」


 震えるヴァイスの手に握られた単発銃は、相変わらずシャインを狙っている。シャインはそれから視線を外せずに、戸惑いつつも報告した。


「国籍不明の武装船です。帆装はエルシーアの船ですが、シルダリア国の偽装船ではとヘルム副長が――」


「馬鹿が。シルダリアの領海までまだ十日以上かかるのだ。奴らではない。奴らではなく……」


 ヴァイスが凄んだ目でシャインを睨み付けた。


「もう勘付かれるとはな。小癪な『エルシーアの金鷹』め。折角お前をこの船に乗せたのに、保険にすらならなかった」


 シャインは瞠目した。”エルシーアの金鷹”とは、ある人物の『あだ名』だ。海軍本部では特に有名な――。


「それはどういう意味でしょうか」


 ヴァイセはいらいらした口調で呟いた。


「どうもこうもないわ。彼奴は噂通り、冷酷な男だったということだ。息子が乗る船だというのに、アレを取り戻すため追手を差し向けたのだからな」


「追手?」


 シャインが問う声をヴァイセの銃声がかき消した。


 シャインの右頬を弾丸が掠める。追手とはどういうことだ。シャインの思考はそこで一旦停止した。背後から殺気を感じたのだ。前方へ床を転がり艦長室の机に身を寄せる。そこから前を伺うと、立ったままのヴァイセの小柄な背中が見えた。煙の上がる銃を突き出したまま。彼はシャインを撃ったわけではない。その後ろにいた襲撃者に発砲したのだ。


「ぐっ……!」


 だがヴァイセは苦悶の声を上げて背中から倒れた。

 彼の胸に短剣が深々と突き立っているのをシャインは見た。


船鐘(シップベル)を探せ」

「この中にあるはずだ」


 くぐもった男の声がした。ヴァイセを殺した襲撃者は二名――全身黒の動きやすそうな服を纏い、黒いマントを羽織っていた。顔がわからないよう口元にも黒い布で覆いをしている。

 一人がシャインに気付き、短剣を閃かせ斬りかかってきた。


 シャインは体をひねり冷静にそれを躱すと、背後に回り肩を押さえつけた。士官になってからの実戦経験は少ないが、海軍将校を代々輩出しているグラヴェール家の方針で、護身術は幼い頃から嫌というほど身につけさせられた。望んではなかったけれど、生きるためには必要な事だったのだろう。軍人となったからには。


 短剣を持つ腕を掴み、同時に足払いをかけて襲撃者を転ばせる。手刀を首筋に振り下ろして昏倒させると、シャインはしゃがんだ姿勢で右足の膝上まである深靴のベルトに右手を滑らせた。ここに護身用の短剣を潜ませてあるのだ。


「見つけたぞ!」


 部屋の奥でヴァイセの寝台を漁っていた黒尽くめの襲撃者の一人が、勝ち誇った声を上げた。

 その手には子供の頭ぐらいの大きさの鐘――船に時を知らせるために設置される銀色の『船鐘(シップベル)』が抱えられていた。


『それを渡さないで!』

「……はっ!」


 シャインは突如頭の中で響いた少女の声に息を詰めた。

 一瞬、男の抱える船鐘(シップベル)からイメージが見えたのだ。


 黄昏色の長い髪を靡かせた少女が、両手を訴えるように広げ叫ぶのを。先程舳先で佇んでいた、幻とも思えた『彼女』その人が。今にも泣き出しそうな切ない表情に、胸が締めつけられるように苦しくなる。シャインは銀の短剣の刃を指に挟むと、男の腕に向かって投げつけた。


「ぐあっ!」


 短剣が突き立った腕を男が押さえる。鋳物が割れるような不快な響きを立てて、船鐘(シップベル)が床に落ちた。それは艦長室の出入口までころころと横向きに転がっていく――。シャインは駆け寄り船鐘(シップベル)を拾い上げた。左腕にしっかりと抱きかかえる。


「それを渡せ!」


 腕に突き立ったシャインの短剣を抜き、男がそれを投げ返す。だが短剣は誰もいない床板に突き立った。身軽さが取り柄のシャインは、一目散に艦長室から外へ駆け出していた。



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