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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-87 告解

 外は正午をすぎて明るい日差しが海に降り注ぎ、その青緑の海面を美しくきらめかせているが、サロンの窓は遮光のためのカーテンが引かれているので、夕暮れのように薄暗かった。


 エアリエル号は戦闘で失ったミズンマストの修理に追われていて、その作業の音がやかましく響いているのだが、シャインの耳にそれらは聞こえていなかった。


 部屋の奥で寝台に寝かされているアドビスの姿に、じっと見入っていたからである。厚い紺色のカーテンの下に、テ-ブル等を並べて作られた、急ごしらえの寝台が二つあり、向かって左側のそれに、アドビスが寝かされていた。


 アドビスは190センチを超える長身なので、白い上かけの布団から裸足の足がはみ出ている。

 シャインは息を詰めたまま、静かにアドビスの枕元まで歩み寄った。


 先程ツヴァイスを看取ったせいか、ふと不安が胸をよぎったのだ。

 突き出た素足は青白く見えるし、仰向けに寝かされたアドビスは身じろぎ一つしていない。首までかけられた上かけは、呼吸をしている証拠に上下に動いていると思うが、部屋が薄暗いのでよくわからない。


 シャインは血の気のないアドビスの顔をじっと眺めた。

 固くまぶたを閉ざしていて、それが開く気配はない。


「……」


 シャインはそっと左手を伸ばし、布団から出ていたアドビスの左手に触れた。

 確かめずにはいられなかったのだ。その不安を払うには。

 長年剣を握り海をさすらったアドビスのそれは、節くれて老木の幹のようにごつごつしている。


 温かい。

 シャインは目を伏せ安堵の息を吐いた。


 大丈夫だ。

 ジャーヴィスは弾の摘出は終わったと言っていた。

 だから、もう大丈夫だ。


 シャインは呪文のように、心の中でそれを繰り返しつぶやいた。

 アドビスの手から伝わる体温は、シャインのより少し高いが、その温かさが重くのしかかっていた不安を徐々に払っていってくれた。


「……シャイン?」


 アドビスの唇が小さくシャインの名を呼んだ。

 シャインはその声に驚き、弾かれたようにアドビスから離れようとした。

 だがさらに驚いた事に、アドビスがシャインの手首を握りしめていたのだ。


「中将……閣下。気が付いていたのですか」


 うわずった声をなんとか普段のトーンに戻す努力をしながら、シャインは身を硬く強ばらせてアドビスの顔を見た。紙のように白い顔の中で、鋭い青灰色の二つの眼が静かに見返してくる。


「ツヴァイスは、どうした」


 アドビスが重々しく息を吐き、再びかすれた声でつぶやいた。

 シャインは左手をアドビスにつかまれたまま、やむを得ずその場に立ち尽くして彼の問いに答えた。


「亡くなりました。甥のウェルツ艦長に撃たれて。戦闘もヴィズルの協力があって先程終了しました。今、ブランニル艦長が拿捕したウインガード号で、後始末をしている最中です」

「……そうか」


 アドビスが長い息を吐いて、ゆっくりと再び目蓋を閉ざした。

 それからアドビスは目を閉じたまま、何も言葉を発しなかった。

 シャインが眠ってしまったのだろうと思ったその時、アドビスはシャインの手首を握りなおし、首を左に傾けて再び目を開いた。


「シャイン、何故アスラトルへ帰らなかった」

「……」


 まさかアドビスがそんなことを訊ねるとは。

 アドビスがシャインのことについて訊ねるなど今まであっただろうか。

 気にした事があっただろうか。

 シャインはすぐ答えることができず、困惑した表情を浮かべたまま、アドビスの目を見つめていた。


「何故戻ってきた?」


 アドビスが再び問いかける。

 怒ってはいないが、シャインが返事をしないことに、いら立ちを隠せないのがその鋭い口調からうかがえる。


 シャインは気まずさを覚え、うつむきながらアドビスから視線を逸らした。

 エアリエル号に戻ってきた理由。それははっきりいってアドビスの為ではない。ヴィズルが捕われている事を知って、彼の身を解き放つ為に戻ったのだ。

 決してアドビスの身を案じたわけではない。


 シャインはそんな自分の気持ちに後ろめたさを感じ、それを口にする事をしばしためらった。

 そこで反対にアドビスに問い返した。


「あなたこそ。何故俺を庇ったりしたのですか」


 自分でも驚く程、感情のこもらない淡々とした声だった。

 アドビスが一瞬眉間をしかめ、小さく唇を噛みしめたような気がする。

 けれどアドビスもすぐには答えなかった。

 シャインはそんなアドビスの態度に内心落胆した。望んでいた答えを得る事ができないせいで、思わず口を開いた。


「俺は……俺には、あなたの命を危険にさらしてまで、生かされる価値があるとは思っていませんでした。ですからわかりません。何故あなたが、海軍に身を捧げているあなたが、あのようなことをしたのか。あなたはただの一軍人ではありません。統括将の身に万一のことがあれば、代将としてエルシーア海軍を動かさなければなりません。あなたは、海軍に必要な方なのに……」


 左手首を握るアドビスの手に力がこもった。

 それを否定するように、強く。


「私に必要なのはお前だ。シャイン」

「……」


 シャインはアドビスから目を背けたまま、息を吸うのも忘れ床の一点を凝視した。

 アドビスは今なんと言ったのか。

 とてもすぐには信じられない――。

 シャインは口の端で小さく微笑を浮かべた。

 脳裏に過ったその考えを否定するために、ゆっくりと首を横に振る。


「本当に必要なのは『俺』ですか? あなたはただ、俺が母に似ているから。それで俺のことを、咄嗟に庇ったのでしょう……」


 アドビスがシャインの手を軽く引っ張った。

 そしてシャインを見つめて何かを言おうとしたが、それはこみあげてきた咳によってはばまれた。アドビスは何度か大きく咳き込んで喘いだ。


「中将閣下。ご無理はなさらず、今日の所はもうお休み下さい」


 シャインはいつも通り、他人行儀な言い方でアドビスをなだめた。

 本当は自分も、寝台に倒れ込みたいくらい疲れているのだ。

 心を煩わされる事なく、何も夢を見ない眠りに落ちたかった。


「シャイン――もう少しだけ。いや、私の話を聞いてくれないか」


 乱れる呼吸のせいで肩を大きく上下に動かしつつ、アドビスは今まで見せたことのない、真剣な瞳でシャインを見上げた。


 アドビスが懇願するなんて。そんなことはありえない。

 シャインはますます自分の頭が混乱するのを感じた。

 アドビスは傷の所為で、きっと自分が何を言っているのかよくわかっていないのだ。


「今でないといけませんか?」


 シャインはアドビスの体のことを考え、強引に手を振りほどいてその場から立ち去ろうと思った。

 けれどふとあるものを目にして、それに釘付けになった。

 アドビスの胸の上に置かれた右手の小指には、無くしたと思っていた母親の形見の指輪がはまっていたのだ。


「どうして、あなたがこれを……」


 アドビスはシャインが指輪を見ている事に気付き、やっとつかんでいた左手を放した。そして、右手を上げて小指から指輪を引き抜いた。

 アドビスは疲れたように息を吐き、外した指輪をシャインの左手に握らせた。


「ヴィズルがこれを、私に送ってよこした。お前を捕えている証拠として。これを見た時、私は再び……自分が一番恐れていた、不安に駆られるのを感じた」

「……不安?」


 アドビスは小さくうなずき、視線を部屋の低い天井へさまよわせた。


「シャイン。私は二十年前……大切な者の命を守ることができなかった。ひとりはその身の危険に間に合う事ができず、もうひとりは、私の為にその命を失った」

「それは月影のスカーヴィズと、母のことですね」


 アドビスは目を閉じて深くうなずいた。


「……知っていたのか」

「はい」


 シャインはアドビスの枕元に立ったまま、静かに答えた。


「ツヴァイス司令から、母の死のてん末を教えて頂きました」


 アドビスの鋭い瞳が再び開き、どこか思いつめていたような、厳しい眼差しがやわらいだように見えた。


「私は罰を受けた。二人を海軍での昇進のために利用したからだ。スカーヴィズは友人として私を支えてくれた。リュイーシャは、私に帰る場所を与えてくれた。二人の存在がいかに私の心を大きく占めていたか。そのことに気付いた時、二人はすでに私のそばにはいなかった」


 アドビスは天井を再び見つめ、重々しく息をついた。


「二人を失って……私の心には後悔だけが残った。何をやっても満たされず、感じず、生きている事が苦痛だった。私はその虚しさを埋めるために、スカーヴィズを殺したティレグの行方を求め、あらゆる海を船で駆け、海賊との戦いに明け暮れた。あの頃の私は、ただ死に場所を求めてさすらう生ける屍だった」


 シャインは時折うなずいてみせてから、アドビスの話を聞いていた。

 その話を物語るように、アドビスの左目の上から生え際まで、白く残る刀傷が目についた。ここの他にも、無謀な戦いをしたせいで、アドビスの体にはいくつも古傷があるのだろう。


 アドビスは首を左に傾けて、シャインの表情をうかがうように目を細めた。

 いつも高みから見下ろす厳しい眼差ししか覚えがないので、シャインは思わず見つめられて唇を噛みしめた。


「だが私は死ねなかった」


 アドビスはシャインを見つめていた。

 遥か昔からそうしていたかのように、錯角するほど真摯な瞳で。


「私はすべてを失ったのではなかった。リュイーシャは私に残してくれたのだ。シャイン、お前というかけがえのない存在を」

「……」


 アドビスは指輪を握りしめるシャインの左手に、自らのそれを重ねた。

 シャインは黙ったまま呆然とそれを見つめた。


「お前がいてくれたから、私は彼女の後を追いたい死の誘惑を振りきり、今まで生きていく事ができた。お前を失えば、私はこの世に生き続ける理由を、二度と見い出すことができないだろう。シャイン……」


 アドビスははにかんだ笑みを浮かべて嘆息した。

 一方シャインは、そんなアドビスの告白に胸がしめつけられるような息苦しさを覚え、思わずその場にゆっくりと座り込むように膝をついた。


 一気に体から力が抜けていく。

 自分が思っていたことが一切否定され、今まで否定してきたことが真実として目の前に現れたことに、驚愕を通り越して怒りの感情で一杯になる。


「シャイン」


 座り込んだシャインを心配するようにアドビスが呼び掛けた。

 その穏やかな声色は本当にアドビスのものなのか。


「……」

 シャインはアドビスの寝台に左手を乗せたまま、力なく顔を上げた。

 わかっていても言わずにはいられなかった。

 今更、そんなことを言われても困る。

 こんな時に、どうして。

 どうして、今なんだ――。



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