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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-84 ツヴァイスの想い


「いいえ、そんなことはありません」

 ツヴァイスは明らかに驚いて、銀縁の眼鏡の縁に手をかけてそれを直した。


「閣下は優しい方です。母の話をして下さった時に、俺は気付くべきでした。あなたの中の時は、二十年前のあの夜から止まってしまったことに。母を失ったその悲しみの中で、あなたはずっと、今も癒えぬその痛みを抱えて生きてこられた。あなたは母の事を思って下さったから、誰よりも母の事を見ていて下さったから……」


 シャインはそこで息をつき、母親譲りの青緑の瞳をツヴァイスに向けて、彼が唇を噛みしめるのを見た。

 四十をすぎたとは思えない程、まだ若さに満ちあふれているその端正な顔が、一瞬のうちに生気が抜け、苦悩の日々を送るうちに刻まれた皺が眉間に、目元に、口元にと浮かんできた。

 それは見ているこちらが息苦しさを覚える程痛々しく、憔悴しきっていた。

 ツヴァイスは確かに心を病んでいた。

 胸の内に巣食う何かが、恐らくリュイーシャへの思いが、二十年経った今もまだ忘却を許さず、ツヴァイスの心を苛み続けているのだ。



「シャイン。君が言う『痛み』に、私は多分苦しんでいるのだと思う」

 ぽつりとツヴァイスは言葉を漏らした。

 青ざめた顔のままシャインに向かって苦笑する。

「私はね、ずっと答えを探していたのだ。リュイーシャが死んだ、あの夜からずっと……」

「答え、ですか」

 ツヴァイスはうなずいた。

「ああ。私は彼女の気持ちを確認したかった」


『あなたは、それで本当に満足だったのか?』


「皮肉なものだな。それを君から、教えてもらうなんて」

 ツヴァイスは顔を上げてシャインに視線を向けると、穏やかに微笑した。

 ツヴァイスの眼差しは今まで向けられたそれとは違いとても温かく、そして微笑も、普段彼が浮かべる冷たい人間味の欠けた作り物ではなかった。


「閣下……俺は、ただ」

 シャインが戸惑ったように口を開くと、ツヴァイスは穏やかな表情で頭を振った。

「君と話したからこそ、私は思い出したのだよ。リュイーシャの本心を。彼女の気持ちを、確かに私は知っていた。だが私は、彼女があの男をそれほどまで深く愛していた事を認めたくなかったのだ。それ故私は、アドビスを憎んだ。

 奴が彼女に与えた仕打ちを憎み、彼女が受けた苦痛を知らずに生きているあの男が許せなかった。その気持ちが、何時の間にかリュイーシャの無念を晴らすためと、あの男への復讐を決意させた。愚かなことだ。リュイーシャは、それを望んでいなかったのに……」

 ツヴァイスは目を細め、言葉を続けた。


「彼女は愛する者を、自らに与えられた力で守った。きっと満足だったに違いない」

「ツヴァイス司令……」

 ツヴァイスは疲れたように顔色が青ざめたままだったが、胸のつかえがとれたのか、ほっとした表情を浮かべていた。


「シャイン」

「はい」

 シャインは雑用艇のマストに寄り掛かりながら返事をした。

 体が重くて立っているのが少し辛い。我慢できない程ではないが。


「君は誰よりも他人に優しい。でも私は、他人の為に心を痛める君の姿を見るのが辛い。それに、さっきも言った通り、私は君とは違って、他人の悲しみまで考える余裕はない。けれど……」

 ツヴァイスはシャインの視線を受け止め、冷たさのなくなった紫の瞳を細めて言った。

「君には大切な者がいるか? 何ものにも代えられない、かけがえのない者が」

 シャインは即座にうなずいた。

「はい」

 ツヴァイスは満足げに微笑み、静かに顔を伏せた。

 そして噛みしめるように、ゆっくりと言葉を吐き出した。


「君を失えば、その者がどんな深い悲しみに突き落とされるのか、その気持ちを理解する事なら……私にもできる」

「ツヴァイス司令」

 ツヴァイスが何を言いたいのか、シャインは彼の表情から読み取ろうとした。けれど次にツヴァイスが言った言葉で、その答えは出た。


「シャイン。君は君を待つ者の所へ帰りたまえ。私は今日を最後に、君の前から……いや、このエルシーアの海から消える事にしよう」

 シャインはツヴァイスの言葉に思わず耳を疑った。

 つまりツヴァイスは、アドビスへの復讐を放棄して、シャインの申し出を、戦闘をやめることを決めたことになる。

「ツヴァイス司令……ありがとうございます。でも、お言葉ですが、閣下はあの人に対する復讐のために、ノーブルブルーを沈める事に協力しました。その事実を俺が黙っている代わりに、閣下をこのまま見逃すという事ですか?」

 ツヴァイスはふっと微笑し、それを否定した。

「君にそんな重荷を押し付けることはしない。君はアスラトルに帰り次第、事の真相をすべて、統括将アリスティドに話したまえ。ただ……」

 ツヴァイスはシャインから視線を外して、その向こうに広がる水平線と、ヴィズルのアジトがある島を懐かしげに眺めた。

「この海にはリュイーシャが眠っている。アドビスは彼女をこの海に返した。私はしばしここに留まり、自らの愚行を悔い改めようと思う」

「そうですか……。それでは、閣下のお言葉に甘えようと思います」

 シャインはやっとの思いでそれだけを口にした。まだ実感がわかなかったが、これですべてが終わるのだと感じた。

 戦闘を回避するため、結局ツヴァイスを見逃すことになるが。

 多くの人達を死に至らしめたツヴァイスは裁かれるべきである。

 けれどシャインは、今は心の安らぎを取り戻した彼のために、時間を与えようと思った。



「お、叔父上! 奴等を本気で見逃すつもりなんですか?」

 ツヴァイスの後ろで控えていたウェルツが、声を震わせて訴えた。

「ああそうだ。もう、アドビスなんてどうでもいい」

 ツヴァイスはくるりと振り返り、ひる返ったマントの裾をつまみながら、顔を青ざめさせている甥の眼を睨み付けた。

「奴等の命など欲しくはない。私の欲しかったものは、私の求めていた答えは、シャインのおかげで得る事ができた。私はやっと……やっと胸を苛む苦しみから解放されたのだ」


「し、しかし!」

 ウェルツは辺りを見回し、舷側で銃を構える水兵たちや士官たちが、自分と同じように顔を引きつらせているのを確認した。

「叔父上、あのアドビスの息子をアスラトルへ帰せば、海軍省は我らの討伐隊を組織し、直ちに追っ手として向かわせますぞ。そうなれば我々は、海を逃げ回らなければならない。一生ですぞ! わかってるんですかっ!」

 ツヴァイスは流石に今度はウェルツの言う事を聞き捨てなかった。

「ウェルツ、心配するな。エルシーアに未練はない。だから東方連国に一切の財産をすでに移してある」

「叔父上。ですが、今なら奴等の船を沈められます。その方が確実で安全だ」

 ウェルツは食い下がる。

 けれどツヴァイスはうんざりしたように大きく首を振って、ウェルツの意見を却下した。


「ウェルツ。私はもうその気がない。さ、お前は下がって東方連国へ向かう準備にかかれ。グローリアス号が右舷側にかなり接近している。こちらが一気に不利な立場になるぞ」

 ツヴァイスはそう言ってウェルツを見つめた。

「ウェルツ?」

 ツヴァイスは鋭く甥の名を呼び、一瞬大きく紫の瞳を見開いた。

 シャインもそのツヴァイスの後ろ姿を見上げていた。

 刹那。空気を裂く音が響き渡ったのだ。

「ツヴァイス司令!」

 シャインの目の前で、ツヴァイスが崩れるようによろめき船縁につかまった。

 ツヴァイスのふわりと旗のようにひるがえったマントの影に、ウェルツが立っているのが見える。

 ウェルツは唇を噛みしめ、その右手にはうっすらと白い煙を上げる銃が握りしめられていた。


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